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章の産声
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古い記憶。僅か一秒にも満たない断片的な光景。
けれど、私にとってそれは揺らぐことの無い原風景。
虚ろな瞳で目の前を通った貴方の事を覚えている。
目が合った瞬間に光を帯びたその瞳の輝きを覚えている。
だって、貴方。とても泣きそうな顔をしていたから。
涙を浮かべて私を見たから。
私はその時、世界に存在を肯定された――生まれ落ちたの。
意識はずっと私の中にあった。
眠っている時も多かったけど、貴方の声が私を掬い上げる。
まるで私の言葉が分かっているかの様に貴方は言葉を代弁した。
微睡みの中貴方の声を聞くだけで、私の中に『私』が育っていく。
貴方に全てを委ねた人形の私ではなく。きちんとした一人の『存在』としての私が育っていく。
ゆっくりと一歩ずつ。貴方が言葉を重ねる度に。私は確立されていったのよ。
貴方は不安に思っているかもしれないけれど。
私は貴方の映し鏡じゃないの。支配されているのでも、押しつけられているわけでもないの。
貴方の言葉は私に影響を与えたかも知れない。
でも、この『心』は貴方が押しつけたり作り出したりしたものじゃないわ。
私は私の意思で貴方の傍に居たいと思っているのよ。
だから、神様。
お願いがあります。
どうか。どうか。この身体を自由に動かす力をください。
――――
――
「嫁、どの……」
私を嫁だと言ってくれる貴方の声は。擦れていて。
呼吸と血が一緒に溢れて。口元の布越しでも分かるぐらいに濡れていて。
お腹には何本もの刀が、深々と刺さっている――
「逃げ、て」
それは死の階段を上っている者の悲痛な叫びだ。
自分を「助けろ」ではなく、相手に「逃げろ」と言うのは大切な者を守りたいが故の言葉。
優しく笑いかけてくれた瞳が、苦痛に歪んでいる。
荒々しかった呼吸が、細くなっていく。
生命が解けて消えて行くのが分かる。
それでも、私の背中を押すように突き出す貴方の手。
私の身体は支えを無くし、無情に地面に転がった。
どうして。私の身体は人形なのだろう。
どうして。自分の意思で動かせないのだろう。
どうして。
そんな終わり方。嫌だ。
嫌だ。
嫌だ――!
大切な人の命が無くなってしまいそうなのに走りだせないなんて嘘だ。
意思は此処にあって。器だってあるのに。
走り出せないなんて嘘だ。
「どうして、君の身体は動かないのだと思う?」
視界の外から聞こえてきた声。銀の長い髪を揺らした武器商人の声。
俯せになってしまった身体では彼の居場所は分からない。
けれど、足音は近づいてきている事は分かる。
突然、武器商人の手が私の頬を掴んだ。
「まだ、繋がってないのさ。この世に存在しているという『しるし』が」
彼の小指の端に掬い上げた『赤』が私の唇の上を走る。
それはぐったりと横たわる大切な人の血だ。
「だから、キミに名前をあげよう。この世への繋がりを証明するしるしを。
――――『章姫』の名を」
その瞬間、ぶわりと身体中に温かさが広がった。
まるで、大切な人に包まれている時のような熱さ。
ゆっくりと瞬きをする。
暗転と光。今まで見ていたものがより鮮明に実体を伴って網膜を焼いた。
人形である事には違いないのだろう。
けれど、確かに私は今日この日この場所で『産声』を上げた。
大切な人の血溜まりの中で私は生まれたのだ。
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蒼穹広がる空の下。
刀に憑いた悪霊を退治する簡単な依頼を受けた鬼灯と武器商人は、依頼主の蔵の前で立ち往生していた。
依頼内容の情報不足。虚偽といってもいいだろう。
刀の悪霊は一体では無かった。多勢に無勢。
五体もの悪霊に囲まれた二人は苦戦を強いられたのだ。
回復すら無く徐々にすり減っていく体力と、抱きかかえたままの少女への攻撃の前に。
鬼灯はその身を晒した。
突き刺さる刀は内蔵を抉り、伝う血は赤く。
流れ出す血液にこのままでは命すら危ういのだと武器商人は眉を寄せた。
されど、彼の腕の中で産声を上げようと藻掻く少女を見つけたのだ。
彼女の心の叫びが確かに聞こえたのだ。
だから、武器商人は危険を承知の上で少女に名を与え、この世に繋ぎ止めた。
――――
――
「さあ、章姫。助けを呼んできてはくれないか。どうやらこの子たちは私一人で倒すには時間が掛かってしまうらしい」
首を動かして視線を武器商人に向ける章姫。其れだけでも、少女の身体は軋みを上げた。
まだ上手く制御出来ていないのだろう。
武器商人の腕に食い込む剣の刃。陽光に照らされて背に光が走った。
じわりと武器商人の袖がブラッディ・レッドに染まって行く。
彼が刀に宿った悪霊と対峙しているということは、鬼灯の回復が間に合わないということ。
「ぁ……」
小さく声が漏れた。
可憐な服は鬼灯の血に真っ赤に染まり、靴の先に見える彼の身体からは何本もの刀が生えている。
純粋に怖いと章姫は思った。
そこには濃厚な死の予感が漂っていたからだ。
産声を上げたばかりの少女に見せるには酷すぎる惨状。
されど、怖じ気づいている時間など存在しない。
軋む腕を回して、手を地面に着いた。砂利の感触が掌に伝わって痛みが走る。
けれど、重心が思うように定まらない。
早くしなければ刻一刻と鬼灯の命が失われていく。
動け。
動け。
動け――!
ざりりと小さな靴が砂利を踏んだ。
歩幅の狭いぎこちない歩き方。
それでも、懸命に立っていた。ゆっくりと前に進んでいた。
大切な人を守りたいという想いが引き寄せた奇跡の道行き。
よろよろと歩いて行く章姫を見つけた怨霊は刀を少女の背に向ける。
「おやおや、幼気な少女を苛めるなんて。おいたがすぎるよねえ?」
その剣先を絡め取った武器商人は三日月の唇で笑った。
紫の布地から舞い上がった大鎌は刀を空へと弾く。
「おいでよ。我が相手をしてあげるからさ」
指先がゆっくりと怨霊の視線の先に開かれた。意識を絡め取るように破滅を呼ぶ声がする。
「我はしぶといよ? きっと、君たちが嫌がるぐらいにねぇ?」
ぐるりと紫の鎌が中空を切り裂いた。
何処からともなくダーク・ヴァイオレットの瘴気が漂い出す。
ひたひたと子供の走る足音が聞こえる。甲高い笑い声が響いた。
突き刺さる剣先を物ともせず武器商人は多勢を相手取る。
どろりとエンバー・ラストの赤が地面の砂利に飛び散った。
致命傷。
されど、彼は妖艶な笑みを絶やさない。
不屈とは彼の為に用意された言の葉なのだろう。
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「だれ、か……!」
小さな声が蒼穹の空に霧散する。
このまま誰にも見つけて貰えず。大切な人を失ってしまうのかもしれない。
誰でも良い。
「だれか……!」
如月、卯月、師走、皐月、神無月、睦月、霜月、弥生、葉月、文月、長月、水無月――暦の名を呼ぶ。
同行していない彼等は此処には居ない。
けれど。頼れるのは彼等しかいないのだ。
一番可能性の高い存在へ。必死に手を伸ばす。
「ナナシ……っ!」
名前を呼んだ瞬間。ビィと蒼穹に甲高い鷹の鳴声が鳴り響いた。
ああ。来たのだ。来てくれたのだ。彼等は願いを聞き届けてくれる暦。
「助けて――――!!!! 鬼灯くんを助けて!!!!」
抱き上げられた温もりに少女の意識はふつりと途切れる。
産声を上げたばかりの赤子が活動限界ギリギリまで助けを請うたのだ。
十二の足音を聞きながら、幼き少女は眠りに落ちていった――