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退廃の雫
登場人物一覧
雨が、降っていた。
幻想。その西部、遊楽伯爵の領地は水雫のカーテンがどこまでも。
夕暮れに至れば自然の音だけが鳴り響き周囲は暗く。
そして――そのカーテンはあらゆる音を外に漏らさぬ。
「……そうですか。アルテリウス殿は、行方知れずですか」
「はい。ノルン家としては捜索を続けていますが、足取りは一向に追えず……」
カーテンの内側にて。語るは領地の主たるガブリエル・ロウ・バルツァーレク。
かたや報告するは――リウィルディア=エスカ=ノルン。
内容は一つ。ノルン家の当主たるアルテリウス=エスカ=ノルンが失踪した件についてである。ノルン家は幻想にて一族全てバルツァーレク派に属しており、故にこそその『現当主』でもあったアルテリウスが突如行方不明になったともなれば一大事。
ノルン家はイレギュラーズでもあるリウィルディアを名代に、遊楽伯へと報告をしに来たのだ。尤も……イレギュラーズとして空中神殿に召喚され家と断絶状態に近い状態であったリウィルディア自身、事を知ったのは家令からの手紙が届いたつい最近だが……
「残念ですね。彼とは幾度か個人的に話をした事もあったのですが……」
「――兄とは、どのような?」
「ふむ。他愛もない話も多かったですがね、しかしとりわけ彼の審美眼は素晴らしいものがありました。記憶の障害が時折ある、とは伺っていましたが……心の奥底から生まれる美への感覚は変わらないのでしょうね」
アルテリウスには一つの障害がある。
厳密には彼が保持しているギフトの……風化の力によるものだが、その力が彼の記憶にまで影響を及ぼしているのだ。その為に彼は度々書物による記憶の『結びつけ』を行っている。
あの日はああした。この日はこうした。
千切れた糸を結びつける様に。解れた糸を使う様に。
それでも記憶や経験は薄れても本能は変わらないのか、審美眼など実直に『感じた』モノは日を巡ってもそのままだ。その辺り、元から優れた人物であったアルテリウスの事を伯爵は高く評価していたのだろう――
尤も。その事すらいつかは『忘れて』しまうのだろうが。
「ああ。貴方の事も彼は口にしていましたよ」
と。その時紡がれたのは――アルテリウスではなく。
「と言うよりも、貴方の事は掠れる記憶の中でも覚えていると……それに付随した出来事も消え辛いのでしょうね。以前の――ええ。舞踏会の折、アルテリウス殿のパートナーとして出席した時の話なども、思い出話として。実に懐かしい事でしたね」
「……お恥ずかしい。兄は、そのような事まで言っていましたか」
リウィルディア自身の事。
話しているのは大分前――リウィルディアがイレギュラーズに選ばれるよりも更に前、まだノルン家にいた頃の話だ。貴族の嗜みとして、そして派閥の繋がりとしてバルツァーレク伯主催の舞踏会に出席した事があった。
煌びやかな場。正装に身を包み、姿勢を正して伯の前へと。
だがそれは自ら達だけでなく他の多くの貴族も参列していた中の話だ。
まさか兄のみならず伯爵の方もあの時の事を覚えているとは……
「お二人共、麗しい容姿を持たれていますからね。ええ、眩いばかりに記憶に残るものです」
「御謙遜を。幻想きっての貴公子として名高いバルツァーレク伯が……
ですが、あれからでしたかね。時折お話をさせて頂く機会もありまして」
あくまでもそれは公的な場での付き合いに留まるが――
貴族としての関わりはノルン家の一人として、リウィルディアも遊楽伯とも幾度か。
先にも言ったような舞踏会。或いはパーティ。或いは美術展覧会の場……
「度々ご招待に預かり、光栄でした」
今やイレギュラーズとなり『貴族』としての関わりは薄れているが。
それでも一度成した記憶は忘れないものだ。
リウィルディアにとっても、遊楽伯にとっても。
「アルテリウス殿の事は――私も気に掛けておきましょう」
そして紡ぐは再び件の人物の事へと。
「ただ、なるべく大事にはしない方がいいでしょうね。当主の失踪などという情報は、厄介事を招きこそすれ幸運を運んでくる様なものではありませんから」
「――例えば。さる御令嬢の所では当主が『御病気』であるようですが」
「『病気』ならば世に出て来なくても仕方ない事です」
一体どこの恐ろしい『御令嬢』の事なのかは二人して口にはしなかったが。
幻想は――貴族の陰謀ひしめき合う国家である。昨今はサーカス事件などを経て国王の意識にも若干。ほんのちょっぴり。いや気のせいかもしれないが――のレベルでマシにはなっているとも言われているが、根本的は大きな変化とまでは言えない。
当主が不在の混乱を突いてどこぞの貴族がいらぬ手を出してこないとも限らないのだ。
そうなった際に、三大貴族の一角としては尤も派閥が弱い遊楽伯では庇いきれるとも限らない。友好的な家であれば極力『出来る限り』の事はするだろうが……それ以上となれば、さて。
その為にこのような人目を忍ぶ日に密談を行っている訳だ。
雨の音が声を消す。雨の音が人の気配を消す。
何かを話すには絶好の日で。
「それはそうと、どこへ行ったかの心当たりも無いのですか?」
「……今の所は、特に。王都の書斎館の方にも立ち寄ってはいないようです。
あくまで目撃情報がないだけですが……」
それでも影も形も掴めていない。
アルテリウスは無類の本好きだ。故にその辺りにいるのでは、とも思われたが。
「しかし――そう簡単には見つからず良かったとも考える事が出来ます」
なぜなら。
「当主がそこにいれば『なぜ?』となりますから。
特に兄は亡き先代の写し身とも……見る者が見れば即座に分かりましょう」
「可能であれば内密に、それが最善ですね」
ノルン家としては『何事も無かった』事にしたいのが本音だろう。
万が一フィッツバルディ派や『御令嬢』の派閥の者に察されては面倒故に。
……尤も、リウィルディアにとってはどうかはまた別だ。先述した様に家とは断絶に近い状態で――今宵は名代として此処に訪れたのみ。伯爵から何か言があれば、それをまた向こうに伝えるだけの話でもある。
「ああそれと、思ったのですが」
と、ふと。遊楽伯が言葉を紡ぎ。
「アルテリウス殿が無事見つかったなら良し。
しかし――戻らなかった場合、どうなるのでしょうね」
「……戻らなかった、場合?」
「なんらかの意図をもっての出奔であれば、捜索の手には捕まらぬ事もあるでしょう」
例えば、アルテリウスは当主の座が嫌になったのではないか?
例えば、アルテリウスは何らかの事情により失踪しなければいけなかったのではないか?
例えば、アルテリウスは――
「なんらか、危険な行為に及ぼうとしているとか」
遊楽伯は瞼を閉じる。その裏に思い起こされるはかつての会話。
彼は理知的にして貴族としての優雅さを同時に兼ね揃えていた人物だった。能力もあったろう。人格もあったろう。その姿が先代の『写し身』とも言われ、民から慕われてもいたのだろう――
しかし、彼からは『危うさ』も感じていた。
どこがと言う訳では無い。言葉の端々に感じる雰囲気と感情。
多くの外交の場に出た事のある遊楽伯であればこそ――感じる一筋の気配。
『執着心』
「……と言って、気のせいであればよいのですがね」
事実であれば笑い話にもなるまい。
だが、事の真意はともかくとしても……もしかすればリウィルディアにとっては無関係の話ではないかもしれない。なぜならばアルテリウスが失踪したのは――リウィルディアが空中庭園に召喚されて数日後。逆に考えれば『リウィルディアがいる間は失踪しなかった』とも取れるのだ。
遊楽伯にとって深い所の事情までは知らない。
彼が何にどれだけ心を割いていたか。
彼が何にどれだけ執着していたか。
薄れて消える記憶の数々の狭間で――その手に在り続けたものに対して。
「……ご忠告には、感謝を」
リウィルディアは恭しく礼をし、その心にて思考する。
今の言がどうであるのか。事実か、そうでないか。
本人が消えているとはいえ過ごした時期があるのなら推測できる事もあるやもしれぬ。
普段とは異なる口調の中で、抱いた想いを噛み砕く様に。
想起する。アルテリウスの事を、己が、兄の事を……
……外では雨が降り続けていた。
窓に当たる水滴の数々はその勢いを増している。段々と大雨に成って来たか。
「――やれやれ、これは少し困りましたね嵐が来るのかもしれません」
であればと、遊楽伯はゆっくりと席を立ちあがり。
「如何でしょう。もう暫く当家に留まっていかれては。
実はラサの方から年代物のお酒を頂きましてね――或いは食事でも用意しますが」
「これは、ご配慮まことにありがとうございます。ええ、是非ご一緒させて頂ければ」
美食家と名高いバルツァーレク伯爵の一品。少し、楽しみとばかりに。
使用人を呼ぶ鈴の音を遊楽伯は鳴らしていた。
雨天の中、時間が過ぎる。これは密談――
ただ一夜、誰も知らぬ一時があっただけの話。
ノルン家とバルツァーレク伯と。
リウィルディアと――ガブリエルとの。