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ムーン・ブライド
登場人物一覧
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月が煌々と輝いている。
風は凪。湖にはしんと円い月が写り込み、時折思い出したように、葉が音を立てる。此処は幻想の街から遠く離れた湖畔。
静かにたたずむ男がいる。華やかな黒のタキシード、真珠を散らした枝を胸ポケットに差して。銀髪を一つにまとめ、静かに佇んでいる。いや、待っているのだ。
はらり、と紙がめくれる音がする。傍に置いた小さなスタンドには、紙とペン、インク瓶、そしてビロード生地の上等そうな箱が、一つ。
「……お待たせ、ルナール」
「……ああ。ルーキス」
其処に現れたのは、誰よりも待ちわびた人。愛しい愛しい人。
そうして花婿は、笑った。
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ルーキス・グリムゲルデにとって、ルナール・グルナディエという男は最初はただの「弟子」だった。いや、或いは「拾い物」だったかもしれない。
悪魔だ、化け物だ、そう謗られながら逃げ回っていた故郷。其処から突如引っ張られるように訪れた混沌という世界は、ルーキスにとってはまさに新天地だった。散々罵られた故郷が憎かったとか、そういう感情はないし、特に未練もなかったから――今ここで生きるしかないのなら、目一杯生きてみよう。そう思ったものだ。
幻想は不思議な土地だった。故郷で疎まれた紅い鱗に互い違いの瞳の色を謗る者はいない。尽力すれば其れだけ名声と“世界を掬うカケラ”が手に入る。成程、WIN-WINの世界だ。ルーキスは極めて冷静に世界をそう判断した。
そうしてだいぶん混沌――幻想という国に慣れてきたころの事だ。ばたり、と誰かが倒れる音がしたので家の扉を開いてみると、男が一人倒れていた。見た事のない服装をしている。
死にかけか、と助け起こした時に男が大きく鳴らした腹の虫。あの音は、多分一生笑いのタネになるだろう。空腹で倒れるなんて漫画みたいな展開が、本当にあるだなんて!
目覚めた男にルーキスはまず、水を飲ませた。其れから飯を差し出すと、まるで呑み込むように彼は飯をあっという間に平らげ、お代わりを要求した。全く、今思えば失礼も甚だしいところだね? でも、不思議と憎めなくて、結局三回くらいお代わりのお願い事を聞いてしまった気がする。
――そうして、ルーキスはルナールという男を拾った。男もまた、異世界から流れ着いた旅人のようだった。
一通り身の回りの世話をして、「其れじゃあ君も自分の生活を見付けておいでよ」、そうルーキスが言おうとした矢先に言葉を遮られた。
「俺を、ルーキスの弟子にしてくれ」
男は熱心に、ルーキスの扱う術について知りたがった。或いは其れは、ルーキス自身を知りたかったのかもしれない。面倒を見てしまったから仕方ないが半分、気紛れ半分で弟子にした男は、何処に行くにもついてくるようになった。ルーキスも、其れを特に気に留めはしなかった。
ただ、恋人同士かとからかわれたら、必ず「弟子だ」と返すようにはしていた。無用な勘違いは必要ないからだ。男と女が一緒に歩いていたら恋人だ、なんて認識は何処から生まれるのかとうんざりする日もあった。
そんな時、大喧嘩をした。原因はルーキスの「恋人ではない」の発言だった。
どうしてルナールが怒ったのか、其の時のルーキスには判らなかった。彼が抱いていた淡い想いも、しっかりと根付いた恋の種も、知らずにいたから。
喧嘩をした後も、ルナールはルーキスについて歩くのをやめなかった。
ルーキスも、ルナールが傍にいるのを当たり前だと思うようになった。いない日にもふとした時に隣を見て、そうだ今日はいないんだった、と肩を落とすようになった。
静かに根を下ろす、大樹のような恋だった。二人はいつしか、互いが呼ぶ己の名前を愛した。己が呼ぶ互いの名前を愛し、やがて想いは通じ合った。
――化け物だの手配犯だの言われた私が、こんなところで止まり木を見付けるとはなぁ。
ふとルーキスがそう零した時、ルナールは心底嬉しそうに笑ったものだった。
――化け物だとか、手配犯だとか、そんなものは今は関係ない。
――俺はきっと、ルーキスに会うために此処に来たんだと思うよ。
其の言葉は説得力を持っていた。
世界を救うために呼ばれた。其れもあるかもしれない。でも其れ以上に――君に会うためにこの世界に呼ばれたんだと信じたかった。
二人の恋は静かに募っていった。互いが居なければ不安になるし、二人でいれば何でも出来た。どんな困難も二人で撃ち砕いた。
色々な場所に行った。
時には自然の美を二人で分かち合い、時には依頼で無茶をしたりもした。何処に行くにも二人一緒。恋人かい、と聞かれたら、そうですと嬉しくなって頷く。そんな穏やかな日々を過ごしてきた。
そうして以前、ウェディングの予行練習をした時に――互いにしっくりと来てしまったのだ。
――目の前の彼(彼女)と本当に“こう”出来たら、どれだけ幸せだろう。
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「お待たせ、ルナール」
「……ああ、ルーキス」
花婿は笑った。笑ってしまうほど、目の前の彼女は美しかった。純黒のドレスに真珠をちりばめた装いのルーキス。彼女の美しさがいかばかりか、およそルナールの知る言語では表しきれそうにもなかった。彼女には黒が似合う。己が黒いタキシードに身を包んでいる事に、誇りすら覚えた。
――“相手以外に染まらない”
其の意味を秘めた黒いドレスは、まさに今、ルナールの色に染まっていた。もう染め変えたりなんかさせやしない。永遠にこの色でいて欲しい。俺の色に、俺のものでいて欲しい。ルナールは駆け寄って抱き締めたい衝動を耐えた。だってこれは“結婚式”だ。静寂の中で密やかに、秘めやかに行われなければならないものだ。
ヒールの音を立てながら、ルーキスが静かに近付いてくる。ルナールは耐え切れず、片手を伸ばした。――花婿なんだ、これくらいは許されるだろう?
「……何だか、前より様になってるなぁ」
ルーキスは苦笑して、その手を取る。黒い手袋に包まれた素肌は、きっと白い。所々の紅い鱗は、彼女の白さを際立てる。
ルナールはルーキスを愛していた。其の目の色も、唇から紡がれる言葉一つ一つも、泣けないところも、全てすべて、総てを愛していた。
もう、彼女のいない世界は考えられない。自分はやはり彼女に会うために此処に呼ばれたのだと、切に思う。
「この後ってどうすればいいんだっけ。先に名前書く?」
「いや、指輪交換が先じゃなかったか? 先にやろう」
ちょっと気の抜けた会話だって、二人にとってはいつもの事。お互いに不器用なところがあるから、お堅くて真面目な結婚式なんて出来ないと踏んでいた。いつも通りに言葉を交わしながら、少しだけ特別な事をしよう。そう提案したのは、はて、どちらだったっけ。
ルーキスがルナールの隣に来る。ルナールは傍のスタンドに置いていたビロード生地の箱を取り出し、静かに開いて見せた。
「……今日の為に用意したんだ。高かったんだぞ」
「へえ、綺麗だね。じゃあ、サイズが合うかどうか試してあげよう」
「……この指輪、永遠に外れない呪いがかかっておりますが」
「上等」
まずルナールが、小さい方の指輪を台座から抜き取る。紙が置かれた台にケースを置き、ルーキスの手を取った。
小さい手だ。この小さい手で、どれだけのものを抱え、どれだけのものを切り捨ててきたのだろう。この細く頼りない体で、一体どれほどのものを背負ってきたのだろう。化け物だと、手配犯だと追われてきた彼女は、一体どんな生を送ってきたのだろう。其処にもし俺がいたなら、全員返り討ちにしてやるのに。俺の大切な人に手を出すなと、吠えてみせるのに。
ルナールは、ルーキスが手に持つ何かを少しでも担いたいと思っていた。例えば二人で何気ない買い物をする時のように、荷物持ちにされたって良い。
彼女が欲しい。
彼女の背負っているものごと、欲しい。
彼女の重さが欲しい。どんなに重くても、其れはルーキスという存在の重みだ。絶対に下ろしたりなんかしない。
存外ぴったりと嵌った指輪を見て、へえ、とルーキスは声をあげた。サイズのリサーチは完璧だね、なんて軽口を一つ零す。けれど、其の言葉に思わず滲んだ喜色。
ルーキスは嬉しかった。ルナールの事なら何でもお見通しで、だからこそ、彼の真摯さを愛していた。ただの弟子だと言われるのを嫌がった彼。君が好きだ、と今にも泣きだしそうな顔で言った彼。私は泣けないのに、キミはしょっちゅう幸せで泣きそうな顔をする。キミは泣き虫だ。私には判る、……私しか知らない。
滲みわく思い出を振り払うように、次は私の番だね、とルーキスは言う。ルナールが差し出した台座から大きな指輪を抜き取り、相手の左手を取った。
この手にどれだけ守られてきただろう。魔術を教え、立ち回り方を教え、幻想での暮らし方を教えた。今ではもう、教える事はない。互いに教え教えられ、こうして支え合って生きて来た。
……背中に手を回して欲しい。其の温もりに出来る事なら甘えていたい。自分たちには“呼ばれた理由”があるから、温もりに溺れるばかりではいけないけれど、でも、もうこの温もりが無ければ生きてはいけない。ルーキスは己を弱くなったと嘲笑いたかった。けれど……出来なかった。この弱ささえ、ルーキスは愛してしまっていた。
ルナールにとってのルーキスがそうであるように、ルーキスにとってのルナールもそうだった。止まり木であり、永遠の巣箱であり、つがいだった。飛び立つときも、戻る時も、もう二人一緒でなければならないのだ。何処かの本で読んだ、片翼ずつしか持たない夫婦鳥のように。
「キミの手はやっぱり大きいね」
「ああ。……ルーキスを守るためにある」
左手に輝く指輪が、月明かりを反射する。二人は移動して、紙の前。
其処には簡素な用紙があった。神父が本来告げるべき言葉が書かれ、下にはサイン欄が二つ。インクは赤、そして羽ペン。誓いの言葉を告げるのではなく、紙に書いて残す。
ルーキスが先に、さらさらと名前を書く。今回は少し特殊で――ルーキスの姓にルナールを迎え入れる形を取った。だからルナールは、
――ルナール・グリムゲルデ
そう、サインをするのだ。
赤い文字が、左手の指輪が、永遠を謳っている。幸いあれ、幸いあれ。森たちが歌い、水面の月はさざめく。夜の色をした二人を、夜が祝福していた。
漆黒に身を包んだ二人は向かい合う。互いに目を見ればわかる。穏やかな目をしていた。きっと自分も同じ目をしている。結婚しようとしまいと、この関係はきっと変わらないけれど――でも、其れでも、一つの区切りはついた。
“貴方だけだ”という確たる証拠がある。一枚の紙きれではあるけれど、其れは、山ほどの黄金よりも重いもの。二人は永遠を誓った、其の事実が紙の中で生きている。
「ルーキス」
彼が自分を呼ぶ声を、彼女はいつから愛していただろう。
「君は俺の全てだ。……これから先、何を残せるかは判らない。何も残せないかもしれない」
「……うん」
「でも、君と共に歩む。最後の最期まで。これだけは誓える、……ずっと一緒だ」
愛を告げられた日に似ている、とルーキスははにかんだ。
あの時もキミ、こんな風に真剣な表情をしていたっけ。私はあの時は面食らって言葉を失ってしまったけれど、今度は失わないよ。ちゃんと言葉にして、君に伝えるから。
「……私の中でキミがこんなに大きな存在になるなんて、正直思ってもいなかったよ。……私を連れて行ってよ、最後の最期まで。何も残せなくても良い、何も残らなくたって、私たちの心の中には、確かに残るものがある。……愛してるよ、ルナール」
「……。ああ。……ああ、俺もだ。愛してる、ルーキス。永遠に」
ルーキスは静かに目を閉じた。ざわめく木々の音、水が湖畔に弾ける音がする。
ルナールはそっと――其の紅い唇に、己の唇を重ねた。
其れは神聖だった。誰にも侵されない、二人だけの。
楽しめれば良いよ、と執り行った、おもちゃみたいな結婚式。だけどね、抱く感情は本物なんだ。ルーキスとルナールはこれから永遠を歩いていく。どんな災厄が訪れようとも、手を繋いで二人で細い橋の上を渡っていこう。
二人なら走ってだって渡れるさ。この繋いだ手が離れる事以外、怖いものなんて何もない。そして手が離れるときは、死が二人を分かつ時だ。
「……ありがとう、ルナール」
泣けない彼女は、嬉しそうに笑った。
ああ、それだけ見られれば十分だ、とルナールは思う。泣けない君の涙が見えるようだから。……月よ、俺達を祝福してくれ。けれど少しの間だけ、雲に隠れていてくれないか。彼女の泣き顔は誰にも見せられない。
たとえそれが、月(お前)であっても。