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縄の如しと言うけれど
登場人物一覧
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涙を流す前に、今一度だけ、振り返るとしよう。
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夜に鳴く虫の声を、あなたは喧しいと思うだろうか。
きりきりと一晩中、灯りのひとつもなしに鳴き続ける虫のことを、五月蝿いと思うだろうか。
自分はその逆だ。
足音も、すすり泣く音も聞こえない。眠るまでの間、ようやっと眠りにつくことが出来るまでの間、間断なく聞こえてくる虫の声は、むしろ静寂のそれに等しいものだった。
「お姉ちゃん、起きてる?」
そう言って、声をかけてきた相手が自分に近づいてきているのを、瑠璃は理解していた。
正しくは、この頃はまだ瑠璃という名前ではなかったかも知れない。この名前をくれたのは、誰だったろう。そうなる前は、どう呼ばれていただろう。
ともかくも、その子からは『お姉ちゃん』と呼ばれていた。
別に、姉妹というわけではない。正確には、他人であるのかすらわかりはしない。里の子どもたちは『出来上がる』まで何者でもなく、ひとまとめにされる。そうやって、日が昇ってから沈むまで、ずっとずうっと訓練を受けるのだ。
時々何人かが死んで、時々何人かが補充される。
兄弟姉妹がいるのか、自分の血筋はどのようになっているのかすらわからない。当然だ。ここでは親の顔だってわからないのだから。
それに、そんなことを考えている余裕はない。ここでは『出来上がる』か『出来損なう』かしかないのだから。痛みを我慢して、吐瀉物を飲み込んで、涙を枯れさせて、そうやって生きていくしか無いのだから。
「ねえ、起きてる?」
だが時々、こういう子がいる。
声に振り向けば、自分よりいくつか小さいであろう、少女。
いくつか、と言っても、この年令では体格差に大きな違いがある。大人になればそうでもないのだろうが、この少女にとってすれば、自分はしっかりと、『お姉ちゃん』なのだろう。
少女は顔を明るくして、断りも入れずに自分の布団へと潜り込んでくる。
瑠璃自身も何も言わず、ただその背を眠るまでさすり続けた。
おとぎ話はない。子守唄もない。そういうものを聞いたことがないのだから、あることすら知りはしない。
やがて寝息を立て始めた少女に、布団をかけ直してやる。
あちこちに、傷。怪我をするということは、訓練についていけていないのだろう。傷を負うということは、未熟だということなのだから。
自分を姉のように慕う少女。心の拠り所を見つけたという安堵の寝息はしかし、ここでは幸せなことではないかもしれない。
少女の名前を覚えないようにしながら、瑠璃もまた、目をつぶり、静かな夜に微睡んだ。
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「14秒3。良し、タイムは縮まっているな。次だ」
訓練官の声が通ると、首から血を流した死体は補佐官の手によって片付けられていく。
瑠璃が日々行っているそれは、他の子供達とは少々形に違うものだ。
『死体から情報を抜き取ることが出来る秘術』。その適性を見いだされた彼女は、その特異さを生かすべく、一日のスケジュールでも術に関する鍛錬を中心にカリキュラムが組まれている。
その内容を、説明すべきだろうか。
訓練とは反復である。繰り返し、繰り返せば、その行為は身に染み付くものだ。だから術の鍛錬とは、術を繰り返し行使すること。瑠璃の場合は、真新しい死体を作り、そこから情報を得ることだった。
「次」
そう呼ばれた少年が、補佐官に連れられてくる。
顔は袋をかぶせられていて、定かではないが、服装は自分たち、訓練を受ける子供と同じものだ。それで、この少年が『出来損ない』なのだとわかる。
表情は見えないが、恐怖に震えているのだろう。歯がガチガチと打ち合う音が、袋の布越しでもよく聞き取れた。
自分が何をされるのか、わかっているのだ。これまで訓練についてこれなかった子供を何人も見てきたのだろう。もしかしたら、その途中で生命を失った者は幸いだったのかも知れない。少なくとも、こんな殺され方をしないで住んだのだから。
補佐官が何かを耳打ちしている。その言葉を、瑠璃が少年から抜き出せれば訓練は無事に進む。無論―――「殺せ」―――『抜き出す』とは、こういうことだが。
少年の首を、短刀で横一文字に裂いた。肉を切る不快な感触も、その後どろりと流れる赤黒いものも、最近は実感が薄れてきている。
最初の頃に感じていた、叫びだしたくなる衝動も、謝りたくなる感情も、溢れそうになっていた涙も、どれも湧き上がってこない。
自分の心はとっくに死んでいるのかも知れない。そう思いながら、まだ暖かい、しかし二度と震えることはなくなった少年に触れる。
「11、12、13―――」
「□□□□□」
少年の記憶を話せば、訓練官は報告を受け取っただけというように頷いた。
「13秒47。順調だな。次」
少年が運ばれていく。少年だったものが運ばれていく。誰も涙を流さない。誰も憤ることがない。ただ『出来損ない』だから、最後に有用に使われた。それだけのことを、皆が受け入れている。当然だと思っている。
嗚呼、狂っている。ここにいる皆が狂っている。自分だって、とっくに狂ってしまっているのだろう。
「次」
噴き出してしまいそうな感情を押し込めよう。過去を憂うのをやめよう。罪悪感に縛られるのを捨てよう。そうやって生きている。ここでは皆、そうやって生きている。
訓練官に気づかれぬよう、ゆっくりと息を吐いてから、顔を上げる。
今度は少女であるようだった。同じ様に袋を被せられていて、顔はわからない。
この子も震えている。こんな小さな子どもでさえ『出来なかったから殺される』という現実を理解しているのだ。
「殺せ」
考えるのはやめよう。自分が殺さなくとも、誰かが殺すのだ。『出来損なう』とは、ここではそういう意味なのだから。
「たす、けて……」
耳を貸すな。鼓膜を震わすな。何も考えるな。何も感じるな。言い聞かせるように胸の内で呟いて、短刀を振りかぶる。
「たすけて……お姉ちゃ」
それが聞こえた頃には、既に少女の首を断った後だった。
ずぐん、と。左胸で何かが跳ねた気がした。背中を冷たい汗が覆う気がした。脳にミントでも差し込まれたみたいに、思考が干上がっては冷めていくのを感じた。
どうして、わかっている。どうして、出来なかったからだ。どうして、出来損なったからだ。どうして、ここはそういうところだからだ。どうして、いずれそうなるとわかっていたのに想像をしなかったからだ。
「□□□□□」
「……12秒57。13秒を切ったか。では、今日の訓練はここまでだ」
何を答えたのか、覚えていない。それでも、口は勝手に動いて、訓練官が欲しいそれを伝えていた。
他にももっと、少女のことが見えていたというのに。
訓練が辛かったこと。段々、ついていけなくなっていることを自覚していたこと。増えていく傷を洗うと、染みてとても痛かったこと。それを嫌がれば膿んでしまって余計に痛んだこと。物陰でこっそりと泣いたこと。それでも瑠璃を頼れる夜は暖かく、彼女と一緒ならとても良く眠れたこと。
最後に会いたかったこと。
涙は出なかった。吐き気もしなかった。啜りすらしなかった。感情を押し込めているのだと思っていたのに。必死になって、無情の『フリ』をしているものと思っていたのに。どうやら自分は、本当に枯れ果てていたらしい。
その晩は、どうしてか虫の声も聞こえなくて。自分を強く、肌に爪が食い込むほど強く抱きしめながら、うわ言のようにそれを繰り返していて、うまく眠れなかった。
「嫌だ。もうひとでなしは嫌だ。助けて。誰か、助けてください。嫌だ。もうひとでなしは―――」
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それから。
そんなことを繰り返して、繰り返して、繰り返して、繰り返していたある日のことだ。
その頃にはもう、訓練を受ける身分ではなく、術を行使する『お役目』を授かっていた。
瑠璃もそのときには『志屍 瑠璃』という名であって、もういくつの死体に触れてきたのか、検討するのも数えるのも、嘆くのも億劫になっていた。
制服に着替えながら、天井を見上げて思う。
昨日の死体は、とくに目ぼしい情報は持っていなかった。記憶していたのは『家族』とか『家庭』とか、そういうもの。
もしかしたら、その家族が情報を持っているのかも知れないが、上官にはそのことを伝えていない。それがどうしてなのかは自分でもわからなかった。
朝食を済ませ、髪型を整えて、家を出る。「いってきます」の言葉はない。生まれてこの方、そのような言葉を使ったことがない。使われたこともない。
家を出ると、しかし目に飛び込んできたものは見慣れたそれではなかった。
あったのは、空中に浮かぶ神殿と、無愛想な表情のシスターがひとり。警戒している自分に、シスターは状況を教えてくれる。
ここがどこか、どうしてここにいるのか、どうすればいいのか。だが、説明の言葉は途中から聞こえてはいなかった。
ここは、別のどこかで、帰ることはできなくて、『出来損なう』ことを気にしなくていい世界。
ずっと、諦めていたのに。ずっと、どうにもならないものだと押し込めてきたのに。ずっと、枯れ果てたものだと捨て置いてきたのに。
この世界は、瑠璃を囲うものが何もないのだ。
嗚呼、良いのだろうか。この手はとっくに汚れているけれど。嗚呼、良いのだろうか。もうとっくに、あの娘の顔も声も思い出せないのに。嗚呼、良いのだろうか。今更、今更ひとでなしをやめても許されるのだろうか。
視界が歪む。目尻を熱いものが伝っていく。溢れていく。祈るように手を重ね、大声をあげて泣きながら、堰を切ったようにこみ上げるその感情を、抑えることなどできなかった。