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登場人物一覧
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──20数年前
その頃はまだ『長過ぎる時間の経過』により建国からの伝統と誇り、勇者と呼ばれた建国王の理念の元、大国、強国としてその存在を示していた頃。
ギルド・ローレットが設立した同時期その裏では、王都メフ・メフィートでも人気の少ない……裕福な貴族達の私利私欲の為に堕とされた者が集うスラム区域、悲痛で掠れた叫びが密やかに上がり燻っていた。
ボロボロの衣服に身をまとい、その者達が家と呼ぶ壁に力なく座る者もいた。家と呼ぶ壁すらなく、ただ地面に寝そべる者もいた。その地域の極々一部の区域ではあるが、明日への希望を失った者達が集う、そんな……国の闇のような場所で。
歴史伝統への誇りと神と呼ぶべき大いなる意志への信仰心が強く、超常的力への畏怖と憧憬の強いこの国は魔術技術的な素養が強く、そちらの方面への発展に尽力を入れる一方で、そうした一部の貴族の皺寄せでこう言った影が差す民も少なくはない。
この区域の者達は皆生きる事に必死で、他者を気にかける偽善を振り翳す余裕すらもなかった。
「…………」
壁と壁の間、路地。暗闇から座っているのか低い位置から様子を伺っている者がいる。希望のないこの区域で数少ない──子供、少年だ。
「……」
五歳から七歳ぐらいと思われる少年は、すっと立ち上がる。ゆっくりと路地の向こうの光を辿るように歩き出し、路地を出た。
路地を出た少年が向かう先はスラムのすぐ側にあるゴミ処理場。少年だけではない、ここへ来るのはスラムの民の大半である。ゴミを漁っては金目の物を見つけ出し、売人へと売り硬貨を得る。この区域の民の命を繋ぐ一つの方法である。
「……っ……はぁっ」
少年も金目の物を見つけようとこのゴミ溜めの山を手探りで漁る。この山にはいろんなゴミが積まれている、それは燃えないものも、燃えるものも、刃物やガラスも、何もかもがごちゃ混ぜで。特に刃物は転んだ拍子に刺さるという事故も稀にあり、ここで死を迎える者も少なくはない。
酷い匂いが際立つ悪衛生下の中でも、ここの人々は、少年は、生きる為にこの山をその手で崩す。スラムの民の一日の始まりを告げる場所である。
「!! はぐっ」
食べ物もそうだ、食べられそうならそのまま躊躇なく口に運ぶ。それは全て自己判断でしかない。自己判断で見分けるしかない。誰も判断してくれる者は居ないのだから。
「うぇ……っ」
どうやら判断を違えたようで、少年はその場に口にした物を吐き出す。
「かはっ……うぅ……」
ここに来るまで顔色ひとつ変えていなかった少年は表情を歪ませ、その光のない目は苦しげに滲む。
食べ物を美味しく楽しく食べるだなんて、少年は経験した事がなかった。食べる事など苦しくて、辛くて、死と隣り合わせ。それをどうして楽しめるだろうか、少年がここに来るまでの道のりでたまに聞く貴族の話には理解が出来なかった。
硬貨がたくさんあれば、きっとこんな思いをしなくても美味しいものが食べられて、貴族達みたいな気持ちにもなれるんだろうか?
考えてみたが……綺麗な服を着て、美味しい食事をして、命が狙われている心配もなく眠りにつけると言うものに、少年の頭上には疑問符しか浮かんでこない。けれど少年は考えるのを直ぐにやめた。
──だって、それは来るはずもない未来の話なんだ。
少年は引き続き山を崩し漁り続ける。ガラスでもいい金属ならこの上ない最高のお宝だ。いつ今日が終わるかもわからない現状、少年は今日も希望を捨て果て食いつなぐ事に必死なのである。
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「きゃあっ?!」
「引ったくりだ!!」
別日、スラム区域近くにある街のメインストリートで女性悲鳴と男性の叫びが響いた。
ここで生きる為の方法はもう一つある。それは区外に出て貴族相手に盗みを働く事。高価なものなら売って数日は持つし、お腹が空き過ぎた時は食べ物も強奪した。
先程強奪を実行したのはあの少年だった。
「居たか?」
「いや、この近くに逃げ込んだと思ったんだが……」
「くそっ……この近くで強奪が多発していたのは聞いていたがこれ程までとは……」
「……」
──息を殺す。
見つかれば捕まり、何をされたるかわからない。最悪すぐ殺されるかもしれない。そう思えば気配を断つのもだいぶ慣れたもので、少年は蹲り意地でも動かまいと身を隠すのに徹した。
光のない眼でも本能的に動物的に生きたいと願うのか、少年は手を噛んで血を流してでも動く事を拒んだ。
「……チッ、すばしっこいガキめ……」
「もう少しあっちを探そう!」
「ああ!」
数人の足跡が遠のく。安堵はしない、すぐに戻ってくるかもしれない。そういう危険にはこれまで何度か遭遇した事があり、少年は学んでいた。
隠れたまま空を見上げる。ああ、今日も変わらず空は青いばかりだ。少年はそう感情なく、ただただ空を思った。
──ある日
少年がスラム区域での縄張りとしているあの路地裏。気配を消して蹲るように横たわって居れば、不意に紙袋を持つ男性の姿が映った。
少年は電流でも走ったのかと思う程急に起き上がる。どうしてこんな所に貴族みたいな……そんな装いの奴が居るのだろう? 少年は不思議でたまらなかった。
と、同時に思った。
「くい、も、の……」
微かに香ばしい匂いがして、紙袋の中にあるそれが
路地を出る。貴族と思わしき男性はまだ見えた。こっそり後をつけて隙を探す。愚かで哀れな男……どうしてこんな所にいるのかは知らないけれど、こんな、飢えた獣の巣窟に無防備で歩いてるなんて。
けれど少年は憐れむことなどない。感情は奮い捨て、ただ狩りをする獣のように男性を鋭く見張った。
あの紙袋が欲しい
あの紙袋が欲しい
あの紙袋の中身がどんなものなのか──
勝負は一度きり、少年は構えた。
「お前、それ、寄越せ!!」
「ん?」
少年はいつものように素早く鋭く手を伸ばす。貴族へのいつもの手口、これで何度も欲しい物を手に入れてきた。だから自信があった、こいつからも絶対盗れる、と。
「かはッ?!」
「……? ガキか」
少年が伸ばした手を悠々と掴んだ男性はそのまま少年を地面に叩きつけ、すかさず首元にナイフを添えた。
──失敗した
少年は驚きのあまり目を見開いて男性を見たが、瞬時突きつけられたナイフでその事実を知る。呆気のない人生……わかってたんだ、こうなる事は。
少年は諦めたように目を閉じた。
「お前の目にはもう何も映ってないのか……?」
「…………」
「よし、気が変わった」
「?」
男性の言葉に少年は思わず目を開いた。その目に映る男性は、笑みを浮かべて
「お前名前は?」
「……なま、え?」
「名前すら持ってねぇのか」
さてどうするか、と呟いてまた少年を見る。
「……なら今日からニコラス・コルゥ・ハイドと名乗れ」
「ニコ、ラ……ス……?」
「──今日からお前は俺の息子だ」
男性は紙袋の中からパンを取り出し少年に手渡す。
それが『博徒』ニコラス・コルゥ・ハイド(p3p007576)と、このスラム区域を支配するマフィアのボスであるヴォルフ・コルゥ・ハイドとの出会いだった。