SS詳細
かけがえのない、美しい日々に。
登場人物一覧
大きな山を望み、そこからの雪解け水で潤う集落があった。春になると山いっぱいに花が咲き、たくさんの人が訪れた。
住まう人たちが親切な気質なのもあるのだろう、ちょっとした観光地でもあった。
そしてその集落には、古くから親しまれた存在がいた。
ある時は神々しい銀の毛並みを持つ狐であり、またある時は狐の耳と尾を持った可憐な少女。
名を胡桃・ツァンフオ (p3p008299)、れっきとした精霊種で
いつの頃からか、この集落で暮らしていた。
といっても特定の家があるわけではなく、住人らの家に招いて貰ったりして暮らしている。
「あら、胡桃ちゃん。おはよう」
今日は野菜農家のシズヱの家にお泊まりしていた。コャーと返事をして、ふわりと姿を少女のそれに変える。
洗面所で手を洗い、食器をテーブルに並べてシズヱが用意した小さな膳を仏壇に供える。
それからテーブルに座り直せば胡桃の膳が置かれる。
「いただきます、シズヱちゃん」
向かい会って座り、お喋りしながら食事を済ます。
手伝いを申し出れば、それじゃあテーブルを拭いてねと頼まれて、シズヱが食器を洗っている間に済ませて大ふきんを洗う。
「今日は山の畑へ行ってキャベツでも採ろうかね。胡桃ちゃん、来てくれる?」
「もちろんよ!」
そうと決まれば農作業の準備だ。ローレットの依頼でもこういった仕事は多いので慣れている。
リヤカーをシズヱが飼っている大型犬たちに任せて山道を登る。
少し登っただけで空気の質が良くなったことに気付き、道にヤマユリの香が混じり始める。
「どこかでヤマユリが咲いてるみたいね」
五月晴れの今日、山はもう夏だった。山道を登った先には集落を見下ろせる。
美しく等間隔に並んだ畑の上で人が小さく見える。
あちらに見える川は美味しく綺麗だから、畑ワサビの農家がいる。
畦道の中から自転車を押して学校へ向かう学生が欠伸を零し、祖母と思われる女性に挨拶をする。
「さ、始めようか」
お気に入りの風景を堪能してから胡桃はシズヱが丹精込めて育て上げたキャベツを丁寧に取り上げる。
朝露を浴びたキャベツは甘く美味しい。一度、シズヱに採れたてをご馳走して貰ったことがあるのだ。
ピンと張った、十分すぎるほどの食感と噛んだ端から広がる甘み。
たっぷりの水分で後味は驚くほどスッキリして手が止まらない。
それらを市場に卸す。その手伝いが胡桃は好きだ。
美味しいものを美味しいまま届けるなんて、なんて素敵なことだろう。
リヤカーの台車いっぱいにキャベツを積んで、犬たちと協力してゆっくり来た道を下る。
そのまま道なりに行って大きな道へ出れば市場はもうすぐ。
「シズヱさん、胡桃さん! 載せていきますよ」
軽トラが少し横切って慌てたように停まる。運転席から顔を覗かせたのは漁師のバーリという青年だった。
彼も今朝の釣果を市場へ卸すところだったのだ。礼を告げてキャベツを載せて貰う。
そうしてバーリを見送って、後から市場に向かう。
市場に到着すると、すでにシズヱのキャベツが商品棚に並んでいた。
バーリが代わりに手続きをしてくれたようだった。
まだ用があるというシズヱと別れ、バーリの車で集落の中心部へ向かう。
「お昼は食べましたか?」
まだだよ、と答えれば用意してくれると言うので、代わりに漁で使う網を直す仕事を請け負う。
小さな集落ではあるが、一応は海にも繋がっているから新鮮な魚も手に入る。
浅瀬に住まう魚が主で、白身魚はだし醤油に合わせると美味しい。
「お待たせしました」
編み直している途中でバーリに声をかけられる。途中の網をそっと、いつでも再開できるよう置いて手洗いに行く。
売り物にするには規定外だった魚や貝を一口大のぶつ切りして酢飯に乗せた丼とあら汁だった。
丼に躊躇いなく地元のワサビと醤油を絡めて頂く。
「美味しいー!やっぱり新鮮なものを新鮮なうちに食べるって良いね!」
「生きてる心地がしますよね」
海と漁船をバーリと二人、胡桃は並んで見ながら昼食を済ませた。
その後、漁の網を直す手伝いを終えると子どもたちに遊びに誘われた。
バーリに手を降って別れてから、子どもたちと遊ぶことにした。
麦畑の近くでカエルを追い掛けたり、草笛で誰が一番、長く吹けるかを競った。
「ぷはぁっ! ううん、なかなか吹けないよー」
「胡桃ちゃん、一回お腹を膨らませるんだよ。それからふーって出すの」
子どもに教えて貰うが、上手く吐ききれない。もう一度、と新しい葉っぱで吹く練習をする。
ふと見ると狐の形を取った炎たちは縁側で眠る幼子の枕にされていた。
仕方なく笑うと、側にあったタオルケットをかけた。
彼らの母親がおやつだよ、と呼びに来てくれたので子どもたちと列を作って順番に手を洗う。
「寝ちゃった子たちはどうするの? 起こす?」
「どっちもうちの子だから夕飯に出すわ。心配してくれてありがとう」
はい、おやつ、とスイカを貰った。庭は子どもたちで満席だったので、部屋の中で頂いた。
瑞々しい真っ赤な果実をかじり、滴る汁が服がつかないようにする。
「大変だぁ! カッちゃんのとこの孫がいなくなった!!」
近くから叫ぶ声が聞こえて、何事だと人が集まる。胡桃も駆けつけ、事情を聞く。
それによると女の子が一人、いなくなってしまった。おそらくは動物を追い掛けて森へ入ってしまったのだ。
「わたしも探すよ!」
言うが早いか、姿を少女から狐に変じる。そのまま駆け出して森へ入った。
夕暮れが迫る森はもう暗く大人でも怖い。慎重に匂いを探して歩みを進める。
ふと、小川の音に紛れて泣き声が聞こえた。じっと耳を澄ませて方角を見極める。
「コャーー!」
こっちだ、と叫んで猛然と駆け出す。女の子は大木の窪みですすり泣いていた。
胡桃よりも一回り小さいだろうか。右足が赤くなっていて、どこかで転んだのかもしれない。
怖がらせないようにゆっくり近寄って女の子に寄り添い、冷え切った身体に体温を分ける。
それで少しは安心したのか、女の子は泣くのを辞めると胡桃にギュッと抱き付いてきた。
それから遠吠えで探しているだろう大人たちに報せる。やがて迎えに来た大人たちと一緒に下山した。
「ああ、良かった。胡桃、ありがとうな。今夜はご馳走させてくれ」
「じゃあ、遠慮なく!」
泣いていた女の子の祖父にそう乞われ、快く家にあがらせて貰う。
そうして胡桃・ツァンフオのキラキラして、時々冒険もある小さな集落での一日は過ぎていくのだった。