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しとどあらざらむ

登場人物一覧

ヴェルフェゴア・リュネット・フルール(p3p004861)
《月(ムーン)》


 その場所を教えてくれたのは、誰だったか。
 貴族邸の並ぶ通りを少し進むと、そこには紫陽花園があり、誰もが誰か別の貴族の邸庭であるのだろうと考えているが、実のところ、ここは誰のものでもない空白の地帯とされている。
 つまるところ、穴場であるのだ。
 誰もが誰の領域であるかを知らない故に、その事実を知っているものが無断で出入りしたとしても見咎められることはない。
 そう、誰かが折りたたみのテーブルと、椅子と、茶器のたぐいを持ち込んだとしても、そのような催しを誰かが開いているのだとされて、誰もヴェルフェゴアを注視しようとはしなかった。
 ざばざばと雨が降り注ぎ、差した傘に跳ね返る。誰も手入れをしていない庭園は、柔らかくなった土がぐずぐずになっていたが、気にすることなく奥へと進んでいく。
 中央のあたりにさしかかると、それが見えてきた。屋根のある、大理石でできた、小さな広間。何に使われていたかはしらないが、雨風を凌ぐのにちょうど良く、テーブルを広げるのにもちょうど良かった。
 テーブルと椅子を置き、茶器を並べていく。カップがふたつ、ポットがひとつ。従者に類するものを連れてきては居ないので、茶を蒸すのも注ぐのも、自然とヴェルフェゴアの役目になる。
 これは、このお茶会は、ふたりで約束したことなのだから、自分しか居ないのは当然だ。その人は遠くに行ってしまって、けして帰ることはない。
 時間も良くなった頃、ポットからふたつのカップに中身を注いで、一口。
 そうしてから、自分の対面の、誰も座ることがない、座ることの許されない空席を見て、思いに耽る。
 良いことだ、と思う。
 あの人は神に捧げられたのだから。神はあの魂を、輝くものをその内に取り込み、また次の魂を作り出すのだ。
 きっと、強いものになるだろう。より輝くものになるだろう。あれ程までに錬磨され、長けた魂であったのだから。
 両手の指を頬に添え、笑みの形に釣り上げてみせる。そう、とても喜ばしいことだ。
 こうやって卓を囲んで、茶会を開くという約束は反故になってしまったが、致し方のないことだ。
 紫陽花の群れを視界に入れる。ざばざばと、何日も前から降り止まぬ雨は心を憂鬱に誘うものだが、雫に打たれ、露の流れる紫陽花は美しい。降り落ちて、二度と雲には戻れぬ奔流を受け止めて、なお咲き誇る花々をただ純粋に美しいと思った。
 椅子から立ち上がり、紫陽花の方へ足を向ける。傘は持たなかった。そうすれば、屋根のないところまで行ってしまえば、雨粒は容赦なくヴェルフェゴアの身体を濡らしていく。
 髪が塗れ、服が肌に張り付き、全身を雫が垂れる様はけして心地よいものではなかったが、どうしてか、それを防ごうというつもりにはなれなかった。
 紫陽花の花をひとつ、両手で包み込む。摘み取るようなことはしない。このまま雨に打たれている方が、これは幸せだろうから。
 どれだけ、そうしていただろう。
 とっくのとうに、ヴェルフェゴアの全身は水浸し。体温も容赦なく奪われていく。
 それでも帰る気にはならなかった、雨風を凌ぐ気にはなれなかった。
 頬を伝う雨粒を手のひらで拭う。それは雨粒よりも温度を持っていた気がしたが、きっと気のせいだ。雨が温かいなど、熱を持っているなど、あるはずがないのだから。
 雨が止む様子はない。このままこうしていても仕方がなく、屋根の方へと戻ってくる。それで濡れてしまった衣服が乾くわけではないが、雨に曝され続ける意味も、もう無いように思われた。
 帰ろうか。もう随分と時間が経ってしまった。明日もお互いに忙しい身であるのだから、早々の帰路も選択肢としてあるべきだろう。それとも、少し早めの夕食にしようか。この時間なら、まだ混み合っては居ないはずだ。たまには美味しいお店を紹介してくれてもいいと思う。露骨に嫌そうな顔をしなくてもいいではないか。友達とそういう話だっていつかできたらと……誰と話していたんだっけ。
 きょろきょろと周囲を見回しても、誰が居るはずもない。ここに自分が来ることも、誰にも話していない。だから、ここに自分がいることを知っているのは、自分と、あの人だけなのだ。
 そのあの人は、もう居ない。
 尊い方に召されたのだ。だから、
「だから、あなた様がいなくなって、とても寂しい」
 とても喜ばしい。
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 はて。
 何か言っただろうか。いや、おかしな話だ。自分以外に誰も居ないのだから、誰も何も言うはずがない。
 気がつけば、雨粒が形を潜め、それ模様はまだ曇天ではあるものの、帰り道に苦労することはなさそうだ。
 ヴェルフェゴアは茶器をしまい、卓を片付け、帰路につく。
 より一層ぐずぐずになった地面を疎ましく思いながら、塗れた衣服のまま。
 椅子をひとつ、忘れて帰っていった。

  • しとどあらざらむ完了
  • GM名yakigote
  • 種別SS
  • 納品日2020年07月14日
  • ・ヴェルフェゴア・リュネット・フルール(p3p004861

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