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良き晩餐のすゝめ
登場人物一覧
それは空が薄い夕闇に包まれ始める時分のこと。
そこは夢と恐怖の巣窟。影の棲家。『像』の在り処。或いはそのすべて。
さりとてひとつ揺るがないことは、無辜なる混沌の何れかの場所であるということだ。
また、確かに宵闇の影の夜の――ともかくそういった場所ではあるけれど。それが『生』であるならばキッチンのひとつやふたつ在ったところで相違ないだろう。
好みなど好き好き。そしてオラボナ=ヒールド=テゴスの好む貢(たべもの)はそう、なにを隠そう甘味であった。
ティラミス、マカロン、アイスクリーム。さらにクレープ、カスタード。
それら名を連ねる中で、彼女がいっとう好むのはホイップクリーム――ここではクリームを5〜10℃の状態で攪拌して細かい気泡をクリーム内に作ったものを指す――である。
ここで本日の晩餐メニューを紹介しよう。『ホイップクリームのショートケーキ添え』。
彼女はその身を甘味で満たすことを好むのだが……たまの気まぐれに自ら夕餉を生み出すというのもまた一興。だろう?
とまぁそんなわけで、彼女は今キッチンに立っているのであった。
広いテーブルの上には雌鶏のたまごが三つ。お砂糖が小皿にいっぱい。小麦粉がどっさり。バニラエッセンスはほんの少し。生クリームがなみなみと。そして真っ赤ないちごはお皿にたくさん!
カシャカシャカシャ。オラボナは鼻歌混じりに卵黄に砂糖をいれてもったり重たく泡立ててゆく。カシャカシャカシャ。卵白はふんわり軽くしゅわしゅわに。
卵黄と卵白を優しく融わせ、味の隠しにバニラエッセンスを少々。小麦粉を加えてふんわりと混ぜ合わせる。
完成した生地を大きな丸型に流し入れれば、あとはオーブンに焼き上げるのはお任せだ。
オーブンの中でゆっくりゆっくり焦がされてゆくスポンジケーキを眺めながら、その赤い三日月は想い揺らめく吐息を零した。
そう、折角だ。今日は愛する存在を夕餉の席に誘おうか。料理を振舞うその瞬間のことを想えば心臓が慄く。ともに過ごすひとときを想えばオラボナの三日月は笑う。
『愛』に寄り添う時間は、乙女の確固たる女子力をもって彩り彩られるものだ。
さぁメインディッシュに取り掛かろうか。
ボウルになみなみ注がれた生クリームに、まっしろな砂糖をたっぷりと。バニラエッセンスも多いくらい。なんたってホイップクリームはとびきり甘くなくては!
カシャカシャカシャ。カシャカシャカシャ。ホイッパーが勢いよく生クリームの海を舞う。巨躯たる身の腕が軽やかにクリームに空気を含ませてゆく。
ふわふわり。ボウルいっぱいにホイップクリームが出来上がったころ――。
――チーン。
オーブンタイマーが高らかに焼き上がりを知らせた。
オーブンの蓋を開く際のなんとも言えぬ高揚感。それはオラボナとて同じこと。
確り焼きあがっているだろうか? 味はきっと甘いだろう。色は、香りは、舌触りは。
オーブンの中を確認しない限り、それは何でもあって何でもないという論理と変わりはしない。故に観測するのだ。定めるのだ。
綺麗に焼きあがった黄金色のスポンジケーキ。その最上の結果を得ればオラボナはくるくると回る。
あぁ、完璧だ。
それはしっとりふんわりスポンジケーキ。甘やかな色彩で飾り立てられるのを今か今かと待ち構えている。
隙間の隅々を甘いホイップクリームとみずみずしい鮮やかなフルーツで満たし。その身に纏うは白いホイップクリームの衣。ケーキの王様の冠たるは甘く酸味の残る真っ赤なイチゴだ。
大きな皿にいっぱいのホイップクリームとショートケーキを盛りつければ。
「完成だ」
赤い三日月が満足の言葉を吐く。これで夕餉には間に合った。
最後は仕上げに、晩餐を共にする愛すべき存在を招待するのみ。
あぁ、乙女の心が躍る。その身は肉であり上塗りのしようがない漆黒であったか。その口は三日月を描き酷い第四の壁を囀るか。その内臓に詰まっているのは甘味であるか。
その心臓(こころ)はきっと――。
酷い第四の壁は期待の響きを空間に落として終い、
満悦の笑みは、愛する存在を想うそのひとときを代え難い宝石の如く撫ぜた。
「Nyahahahahahahahaha!!!」
準備は万端。笑い声は高らかに。その体はくるくるり。
乙女は来る晩餐を心待ちにして笑うのだ。
其の「物語」は愛おしくも愛らしく愛ゆえににんげんであった。
――みたされてゆくのはどちら。