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月の元に浮かぶ虹
登場人物一覧
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──約130年前
『悲無量心』月虹(p3p008214)の記憶の始まりは
自分がそうしようと決めた、そんな始まりだ。
それ以前に奴隷商人から散々な目にあったが、それもきっとこの始まりの日の為にあったのだ。
「今日からお世話係として務めさせて頂きます」
「名前は……?」
目の前にいるのは30代後半ぐらいの男性。領主には十数年前に就任し、仕事にばかり熱を出し婚期を逃していると他の使用人の女性達が興奮気味に言っていたのは記憶に新しい。
所謂顔の良いやり手のようで、寄ってくる女性の数はそれなりに見えるが不思議な話だ。
「? 名前などありません。わたくしの事はご自由にお呼び下さい」
そうだ、名前なんてない。それはきっと元々奴隷であった少女にとっては贅沢品で。首を傾げながらも少女はそのまま男性をじっと見つめた。
「ふむ、そうか……じゃあ月虹と呼ぼう」
「……はぁ、わかりました」
月虹……不思議な響き。
部屋に響くのは業務的な会話。月虹も特に会話を気にする様子はなかったものの、名前をつけられてほんのり胸に温かさが灯った。
●
月虹が働き始めてから数ヶ月が経つ。
「ホルド様、朝食のお時間ですよ」
「ん……はよう、月虹」
「おはようございます」
使用人の仕事にも板がついてきた月虹は領主ホルドへそう微笑みかける。
この数ヶ月間、月虹にとってこれまでとは考えられない程に充実した日々を過ごしていた。領主ホルドが優しいのは勿論、他の使用人やこの家の一族の方々も酷く良い方々ばかりだ。
「月虹はいつも考え事をしているな。何か気になる事でもあったか?」
「っ、いえ……特には」
優し過ぎて……まだ若い月虹はボルドへの恋心を抱く。けれど領主と使用人だ、きっと
──言うつもりなんてなかったのに。
「月虹、今のはどう言う意味だ」
「ボルド様!」
書斎の壁際に迫られた月虹はボルドを見上げる。月虹はただこの焦がれる気持ちのまま傍に居ていいものか……と、思わず『ここに居ていいのでしょうか?』などと独り言のように呟いただけだった。
彼が怒鳴ったのは後にも先にもこの時だけだ。
「この屋敷を出ていきたいのか? それはちゃんとした理由なのか?」
「ちゃんとした、理由……」
『あなたに焦がれてしまったから』だなんて言ったら、彼はどんな顔をするのだろう。
けれどわたくし達は領主と使用人。ましてや
「俺は月虹の事を愛している、だから手放すなんて考えていない」
「え?」
目を見開く月虹をボルドはきつく抱きしめる。ボルド様は今なんと仰られたの? と月虹が混乱を隠せずにいれば、彼はゆっくりと言葉にする。
「あの奴隷商で君を見かけてから、君の事で頭がいっぱいになっていたんだ。領主が聞いて呆れるだろう?」
「ほん、と、に……?」
わたくしは元奴隷で、幻想種で、様々な事を悩んで居たはずだったのに。この温もりは本物で、きっとずっと求めていたもので、あの時捕まった瞬間……諦めていたもので。
「もっとちゃんとしたシチュエーションを用意しようと思っていたと言うのに……これでは格好が悪い」
「ふふ、なんですかそれ」
照れくさいのか頭を搔くボルドに月虹は思わず笑ってしまって。
「わたくしも……そんなあなたに焦がれていました」
彼の気持ちを知ったから、自分の気持ちを怖がらずに言う事が出来た。
●
「え? わたくしが……ですか?」
「他に誰がいるの、ボルドの恋人は他でもないあなたでしょう?」
ある日ボルドの一族女性が神妙な面持ちで月虹を尋ねてきた。
「ボルドだって側室はあなた以外考えないでしょう」
だから、と女性は月虹を見た。
「あなたは人を殺す事が出来る?」
「え……?」
予想外の言葉に彼女は絶句する。
「我が一族は全て処刑人である事が掟なの。どう? 愛するボルドの為に罪人を殺せる?」
「ボルドの、為に……」
幻想種である月虹にとって自分にその危機はあっても、奴隷だった時に誰かを殺したいと願った事はあっても、結局誰かを殺すと言う結論を出した事がない。
「そうよ、彼の為に殺せないと。掟は絶対なの、出来る?」
「わた、くしは……」
──カンカンと鳴り響く鐘がソレを知らせる。
街の広場に野次馬の数は
「わたくしは……出来る」
「ひぃ……命だけは……!」
罪人の悲痛の表情が心を揺らす。心臓の音が鳴り止まない。怖い、怖い、とても。
けどそれ以上に、あなたを愛したいから。だから、だから──!
「命乞いなんて……甚だしい……」
初めて人を斬った感触は、今でもこの手の感覚に残っていた。