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ノリ・メ・タンゲレ

登場人物一覧

ラクリマ・イース(p3p004247)
白き歌
ラクリマ・イースの関係者
→ イラスト
ラクリマ・イースの関係者
→ イラスト

●老いたる梟の記
 Noli me tangere.

 私に触れるな、とその青年は言った。
 はだけた胸元から覗く朱痕は『所有』の印で、穢れを身に負わされたことなど問うまでもない。
 だが他の奴隷達と違ったのは、その「触れるな」という言葉が怯えからくるものではなく、誇りからくるものであったということ。
 辱められても心はなお高貴を失うことはなく、凜然と崇高な輝きを放って己に汚い手で触れた者を成敗する。
 血に染まる剣を携えた凄惨な姿も、彼の美貌が聖なる絵画のように見せていた。

「白き梟の神の神託は下りた。今こそ数多の都市を滅ぼし、同朋を嬲り者にした者共への天罰を下す時」

 《深緑》から連れ出された者達が囚われていると聞き、有志と共に救出を試みれば、盗賊団の支援者たる悪徳貴族は討伐された後。
 一人で復讐を果たした青年の逆襲の狼煙を上げると言う言葉に、その場に居た誰もが跪かずにはいられなかった。
 次々と悪を暴き、《深緑》を襲う鉄騎種の首魁率いる大盗賊団を討ち果たしたとき、誰もが彼を神の化身と信じて疑わなかった。

 遍く世界を見通し預言する白き梟の神クラウソラス。
 そのいと高き存在が人の姿を借りて降臨したのだと。

 神の預言により未然に災いを逃れた者、苦境から救われた者が信者となり、教団《エルムの梟》は誕生した。

 だが教祖と崇められる青年にも一つの悩みがあった。
 それは幾人花嫁を迎えても子を授からなかったこと。

『イースの血を残さなければ』

 彼は己の血を残すことに固執した。
 彼の中に水没した古都の生き残りであること。
 王家の血が絶えるのを怖れる気持ちがあった。

 それは己のみが知るカルデローネ様の秘密。
 他の素性を知る者はこの手で口を封じた。

 聖なるイースの血を受け継ぐ子が誕生したときには共に喜びもしたけれど。

 その子はあまりにも脆弱で。
 あまりにも惰弱な子だった。
 気高きカルデローネ様のお子とは思えぬ程に。

●若き梟の記
 Noli me tangere.

 俺に触れるな、とその子は言った。
 教祖様によく似て面差しは美しいけれど、右目を覆う眼帯の白い薔薇のように棘があった。
 だけど教祖様と違ったのは、その「触れるな」という言葉が高慢からくるものではなく、怖れからくるものであったということ。
 教祖の子として毅然と振る舞うよう求められているけれど、本当は誰より愛してくれと棘を纏いながら訴える。
 弱さを隠した棘の鎧さえも、生まれたての芽のように弱々しく見えた。

「俺は強くなければいけないんです。皆と同じじゃ……。だから他の子と遊んじゃ駄目なんだって」

 誘いをかけてみれば自分に言い聞かせるように言葉が返ってくる。
 だから笑いかけ、手を掴み、付きまとい、そしてこんな風に言ってみる。

「みんなと同じが駄目なら俺と一緒にいればいいよ。俺の爺ちゃんは教祖様の側近だし」

 彼はそれを聞くと少し安心し、やがて触れても気にしなくなった。
 親友と呼び合って共に学び、時には競い、話し合える仲になった。

「俺は父上の後を継げるような器じゃない。父としても教祖としてもカルデローネ様を尊敬するけれど、自分が同じように慕われるとは思えないんです」

 時折本音を漏らす彼の肩に腕を回しいつものように抱く。
 慰めてやれば肩の上に甘えるように彼の頭が乗せられた。

「教祖様の代わりは誰もいない。あの方は唯一無二の存在だから。お前はお前なりに頑張ればいいんじゃないのか?」
「でもきっと皆は父上と俺を比べて期待外れだったと言うんです」
「言わせておけよ。逆に同じを目指したら比べられて駄目出しされるだけ。それならいっそ別を目指した方がいいに決まってる」

 弱音吐くのが俺だけなのが嬉しくて。
 凭れられれば特別感に浸れるけれど。

 薄々感じ取っていた。
 彼に接する教祖様の愛情が、親としてのものではなく、自分を愛するときのそれだと。

●祖父と孫
「何故甘やかすのだ。クレド・ティネケはカルデローネ様の後を継ぎ、ゆくゆくは教団の指導者となるべき者。それがあのような軟弱者に育ったのは、己のせいだと弁えよ」
「爺ちゃん、そうは言うけどさ。俺には爺ちゃんがいて、死んじまったけど父さんも母さんもいた。だからこそやっていけるけど、最初から親から切り離されて甘えるな……じゃ、子どもは歩けないんだよ」

 教祖の一人息子、次期教主たるクレド・ティネケことラクリマをめぐり、祖父と孫息子が諍い合う。
 孫への小言はいつものことだし、祖父への反論もいつものことだったけれど。

 祖父であるシュトゥルム・ヴィントは。
 いずれ教団を率いる者としての自覚が薄く、孫に依存しきったラクリマを弱き者と断じる。

 孫息子であるノエル・ヴィントは。
 親の愛を得られぬまま育った彼に、いずれ独り立ちするとしても今は支えが必要と説いた。

 ノエルの目から見て祖父は気難しく厳格であったが、祖父として教育を施す程度には孫に目をかけた。
 だからこそ表向きはシュトゥルム司祭と呼びつつも、二人の時は『爺ちゃん』と呼んで親しんでいる。
 もし両親亡き後に祖父がいなければ、きっとノエルは悲しみと淋しさに押し潰されていたことだろう。

 優しくはなくとも『泣くな。私がいる』と言った祖父を、まだ家族がいると支えにしてきた。
 いずれ教祖の腹心として仕える祖父のように、教主となったラクリマに仕えるのだと目標にしてきた。

 家族の愛。
 心の支え。

 それがどれほどの意味と大きさを持つのか、ノエル自身がよく知っている。
 だがシュトゥルムは教祖の姿と重ねて、ただの子どもを認めようとしない。

「人は支えなくしてやってはいけぬ。それはお前の言う通り。だがクレド・ティネケはいずれ人の上に立ち、人を導く存在……。弱さを見せれば侮られる」

 彼が亡国の末裔と知り、王家を旗頭に利用しようとした者。
 彼の身の穢れを知り、黙る代わりに立場を得ようとした者。
 かつてカルデローネの周りにいた、欲深き者共のように。

「弱いから支えて貰う、弱いから助けて貰う。教祖様みたいに絶対の存在として君臨するのも手だけど、粛清してばかりじゃ人は付いてこないぜ? それにそう言うの、ラクリマには向いてない。あいつは優しいから」

 人の輪に溶け込むことは苦手でも、誰かが傷付くことには敏感で。
 人と打ち解け合うのは不得手でも、誰かを押し除けようとしない。
 心優しく傷付きやすい彼だから、人は助ようと思うのだと。

「カルデローネ様の教えを批判するとは……。我が孫とて許せるものではない」
「教祖様は偉大な方だ。至高の存在として絶大な力を見せつける……。それが烏合の集を掻き集めて一つにまとめ上げる最善の方法だった。でも次の代は教団の子として最初から教育された者達ばかりだ」

 過去が知られていないことが教祖の神秘性を高め、カリスマとして君臨することを可能とした。
 だがラクリマは生まれた時から教団の子として育てられ、全ての過去を知られてしまっている。
 ならばそれを踏まえ、新しい教祖像を作り上げるのが得策とノエルは説いた。

「次期教主を支えるのではなく、己の理想のために洗脳を施すとは、なんたることか」
「洗脳なんかじゃない! どうしてあいつの気持ちを考えようとしないんだよ!」
「我が一族は常にカルデローネ様の一番の臣でなければならぬ。ノエルよ、考えなおすのだ」
「触るな! 俺は爺ちゃんの分身じゃない! ラクリマも教主の人形じゃない! 爺ちゃんこそどうして分からないんだ!」

 Noli me tangere.

 言い聞かせるよう肩に置かれた祖父の手を、孫息子は拒んで払った。

●老いたる梟の計
 カルデローネ様の言葉は絶対。
 何故なら白き梟の神クラウソラスの意志だから。

 その預言に従い、教団を脅かす悪を粛清する。それが位階を与えられた者達の使命。
 その預言に従い、教団内を乱す者を排除する。それがカルデローネ様に対する忠義。

 なのに何故。カルデローネ様と同じ血を分け、同じ姿を持ちながら、その志を受け継がず惰弱であるのか。
 なのに何故。孫として血を引いて生まれ、若き日の自分に似ながら、忠義の臣とはならず堕落を促すのか。

 カルデローネ様の臣下の中で最も古く、最も信頼厚き者である自分。
 その自分とよく似た孫もまた、最も忠誠厚き者でなければならない。

 なのに何故。孫を慕うクレド・ティネケの、女が近づくのを良しとはしない恋情まがいの依存。
 なのに何故。教祖の息子を翻弄する孫の思惑と、嫉妬を煽るような思わせぶりな浅ましき言動。

 なまじ若い頃に似ているだけに、自分がカルデローネ様に劣情を抱き、我が物にしようとしているかに見えた。
 その身を穢され烙印を押されてもなお、高貴さを失わなかったあの人を、再び貶めるように。
 全てを知りながら、常に忠実な僕として献身してきた自分の誠の在り方を、踏み躙るように。

 ならばカルデローネ様の御為、悪しき芽は摘み取らねばならぬ。
 カルデローネ様もまた、二人の関係をよくは思っていないから。

「クラウソラスの神託は下りた。此度の任務、そなたら二人で行けとカルデローネ様は仰せだ」

 邪悪を見抜く白き梟の神の前で嘘は告げられぬ。
 だが知りうる何かを隠すことは許されるだろう。
 灯火が少なければ人は夜道に迷い、獣の群れに襲われる。

「分かりました。ヴィント司祭。これまでも二人だけの任務はありましたから大丈夫です」
「ちょっと待ってください。これじゃ危険すぎる。潜入捜査で大人数を派遣出来ないのは分かるけど、準備も情報も足りない」
「やろう、ノエル。これは試練です。きっと俺達だけでやり遂げろと試されているんですよね? 時期教主と側近にふさわしい力を見せろと」

 諍いでもあったか、二人の間が最近ぎくしゃくしていると聞いている。
 二人の絆を確認し、関係を回復にはいい機会だとでも思ったのだろう。

 Noli me tangere.

 何か言いたげなノエルの視線を触れるなとでも言うように冷たくはねつける。

(カルデローネ様、貴方様のお心を痛める二人を引き離してご覧にいれます)

 例え孫を手に掛けることになろうとも。
 貴方ほど大切な者はいないのだからと。

●若き梟の死
 Noli me tangere.

 俺に触れるな、と死にかけた男は言った。
 だが友である白き薔薇の人は血に汚れることさえ構わず、泣きながら抱き起こす。

「何言ってるんですか! 親友じゃないですか! ノエルの血なんだから、汚れたって構わない」
「お前は無事か? 痛いところはないか? 汚してゴメンな。泣くなって……せっかく助けたんだからさ……」

 かつて俺に触るなと纏った棘はどこにもない。
 俺より女を侍らしたいのだろうと嫌味の棘も。

「何で俺を先に行かせたんですか……。どうせ女と付き合うのに忙しくて、俺のことなんてもうどうでもいいんでしょう? こんなときだけ構うの、ズルイですよ」
「お前は俺の親友だからな、特別だ」

 こんなことになるのなら、俺だけを見てって言えばよかった。
 こんなことになるのなら、俺に構うななんて言わねばよかった。

 震う口唇が声もないまま想いを紡ぎ、言葉の代わりに涙が滲んで流れた。
 濡れる頬を指で拭ってやりながら、最期の力を振り絞って魔法をかける。

「お前はずっとお前のままでいろよ? 教祖様と同じじゃなくていい……。俺の親友はクレド・ティネケである前にラクリマ、お前なんだからさ……」

 窮地の友を逃がした後で現れたのは祖父だった。
 それは救出のためではなく、とどめを刺すため。

 死んだ友のためにも強く生きるのだと決意させるために。
 跡継ぎとして邁進することで悲しみを乗り越えられると。

 そのための生け贄として、次期教主として目覚めさせるため、教団の礎となって死ねと祖父は矢を射た。

(ラクリマに教祖様の身代わり、人形になれってことだよな? そんなことさせるものか……ラクリマはラクリマだ)

 心優しい親友が今のまま、優しいままでありますように。
 誰かの代わりではなく、彼自身のままでありますように。

 だから復讐に駆られて自分を見失わぬよう、死の原因を彼に知らせなかった。
 だから心優しい彼が、誰かを思いやれる人のままであれるよう魔法をかける。

 それは呪いなのかもしれない。
 彼が自分に頼り切るのを突き放さなければいけないと思っていた。
 だから女達を追い回してあてつけてみせた。

 それはエゴなのかもしれない。
 彼の気持ちが自分にあることを確かめるようにわざと振る舞った。
 俺に構うなという言葉に昔と同じ彼を見た。

 互いだけを求める友情は強すぎて、互いだけを見つめる恋情と似ている。
 だけどそれでも教祖と腹心ではなく、対等な友人として並び立ちたいと願った。

(俺もお前だけだったよ……。だけどきっとそれじゃ駄目だったんだ。他はいらないんじゃなくて、たくさんに囲まれて、みんなから認められて、それから……)

 悲しみに沈んでも彼がいつかは必ず立ち上がれるように。
 悲しみに押し潰されても自分を見失わないでいるように。
 誰よりも大切な親友がいつまでも幸福でありますように。

 白き梟の神に祈りながら、頬に触れた指が落ちた。

●花弁を攫う風
 Noli me tangere.

 俺に触れるなと言った自分がいて、俺に触れるなと言った彼がいた。
 今は大切に想う人がいて、大切だと言ってくれる人も出来たけれど、誰かと触れ合うときにはいつもノエルのことを思い出す。
 ラクリマ・イース(p3p004247)にとってノエルは教団の外を知るきっかけであり、他の誰かと触れ合うことの喜びも痛みも教えてくれた友だった。
 彼が今のままの自分でいろと言ったから、自分を見つめ直す旅にも出たし、悲しみから自我を捨てて人形になり果てずに済んでいる。

「ノエル、俺にもまた大切な人が出来ました。でも今度はノエルみたいに死なせません。俺はこの力で救うと誓いましたから」

 一人白い薔薇相手に囁くと、ラクリマは夏の星達の賑わいを温室の硝子の屋根越しに見つめる。

 かつての自分は教団という温室に守られた薔薇だった。
 だけど今はあの星の中にいて、仲間と共に輝いている。

 ノエルならきっと喜んでくれるはずと心に呟いたとき。
 真実を覆ってきた悲しみと混乱のヴェールが剥がれた。

(ノエルは俺に触れるなと言っていました。もう助からないとか汚れるとか、そう言う意味で言ったのかと思っていましたが。あれは、あの傷は……)

 彼の背中に穿たれた傷は矢だった。
 だがあの場には射手はいなかった。

 記憶の断片は既に多くが失われ、取り戻すことは出来ない。
 自分の知らない何かがあの時起きていた。
 そう思った瞬間、夜風が花弁を攫っていった。

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