SS詳細
オオカミくんとガスマスクちゃん
登場人物一覧
●遭遇
アルジク=G=グリットサンドは調香師である。
10という幼い年齢ながら――いや、幼い故だろうか。其の熱意は並々ならぬもので、彼にとっての異世界であるこの混沌へ召喚されたときも、思わず周囲の香りを確かめてしまったほど。
眩しく輝く太陽。広がる荒野。そして海の代わりと言わんばかりの砂漠の中で育った少年にとって、混沌はまさに未知の世界だった。降り立った幻想という国は様々な建物が立ち並び、およそ沢山の香りに溢れている。
異世界なのだから、きっと見た事もない香料もあるのだろう。それらを調合したら、一体どんな香りになるのだろう。
異世界での生活がある程度落ち着いてきた頃合いを見て、アルジクは香料を探しに街へ出る事にした。
知らない国。知らない街。知らない人々。アルジクにとってそれらは余り恐るるに足るものではなかった。未知の領域に踏み込まねば取れない香料など、元居た世界でも沢山あったからだ。街並みなら恐ろしいものに襲われる心配もないし、人波はかきわければいい。砂漠を彷徨うよりもずっとずっと簡単だ。
しかし――幾つもの市場を歩いてみたが、其れらしきものは見当たらない。店主に聞いてみれば、砂の都と呼ばれる街には香料が多く売っているそうだ。けれど、今の不安定な状態のまま、他の国へ足を運んでよいものか。
悩みながら歩いていたからだろうか。どん、と衝撃が走って、アルジクの軽い体は後ろにのけぞった。
「わっ……!」
「あ」
はっし、とアルジクの手を掴んだのは、手袋ごしの手だった。しかしその手のお陰で、アルジクはかろうじて倒れずに済む。
しまった。謝って、お礼を言わなければ。そう思って彼が顔をあげると――
お面、が、いた。
「……」
「ねえ、キミ、ダイジョブ?」
ガスマスク越しに聞こえる声は女性の物。…しかしアルジクの思考は停止していた。
見た事のないお面。わずかに香る硝煙のような匂い。……怖い、と初めて思った。怖いものに出会ったらどうするか。アルジクがぐるぐると考えている間に、相手はそっと手を離した。其れこそが好機だった。
「すいませんでしたァッ!」
「え!? チョ、ちょっと待っ」
三十六計、逃げるに及ばず。
――という言葉をアルジクが知っていたかは判らない。ただ、彼は大きな声で謝罪だけを残して、来た道を戻るように駆けだしていた。
怖いものに出会ったら、逃げるのが一番だ。
「……エート」
そして、残された“ガスマスクの女性”はというと。
怖がられる理由には多分に心当たりがあったので、余り傷付いてはおらず。ただ、足元にぽとりと寂しく転がる鞄を見付けた。
これは、もしかしてあの子のものだろうか。
そのかばんは拾い上げると、様々な香料の香りがした。隙間からは草やら瓶やらが見える。…一体これは、何の香りだろう。
●
「……ない」
一方で、アルジクは絶望していた。
走って走って走って、来た道を戻って結局間借りしている家に帰ってきてしまった彼。上がった息を整えているうちに、腰回りがやけに軽いことに気付いたのだ。
鞄がない。
其れはアルジクにとって死活問題だった。お気に入りのドライフルーツが、……大切な大切な、元の世界から持ってきた香料や香水の試作品が入った鞄。其れが、ない。
落としたとすれば、きっとぶつかったときだろう。……彼女はアレをどうするだろうか? 気が付かずに去ってしまっただろうか。鞄は無残に雑踏に踏み荒らされて、中身は……
「ど、どうしよ……」
こんな時、何処へ行けばいいかアルジクは知っている。託宣の巫女から教わった数々のワードのうちの一つ。
けれど彼には、勇気を溜める時間が必要だった。だって多分、そこへ向かったら、もしかしたらさっきのお面の人に会うかもしれないのだ。
……いや。
お面の人に会って、ちゃんと謝るべきなのかもしれない。日差しの如く素直な少年は思う。折角支えて貰ったのに、ごめんなさいだけ言って逃げ出した自分。きっと相手は気分を悪くしているだろう。
……もし会ったら、謝らなくちゃ。今度は誠心誠意を込めて。
そして聞くんだ。「オレの鞄を見ませんでしたか」って。
●そして遭遇
ジェックが元居た世界は、大気汚染が取り返しのつかないところまで進んでいた。外出にガスマスクは必須。そうしないと息が出来ない有様であった。空はいつも煙っていて、太陽が差しているかどうかも判らない。薄明りなら昼、真っ暗ならば夜。そんな曖昧な時間感覚と、汚れた空気。それらと共にジェックは生きていた。ある日突然、神殿に召喚されるまでは。
日頃から付けていたガスマスク。「いっそ取れなければ楽なのに」――なんて思った事もある。其れが一体どういう風に作用したのか、異世界に召喚されて高い空気を吸い、其の清浄さに驚いてマスクを外そうとしたジェックが出会った現実は「ガスマスクが外れない」というものだった。
暫くの間、不便ではあった。まず不審者だと思われる。お面を外せと言われても、外せないものは外せないし。其れにちょっと話しづらくて、イントネーションが変になっちゃう。
しかし幻想で過ごしていくにつれ、友人が増えていくにつれ、様々な場所に行き、様々な事を体験するにつれ、そんな事は彼女にとって些末な事になっていった。
だからちょっと忘れていたのだ。
何も知らない人から見れば、自分は異様な風体をしているという事を。
――ジェックは待っていた。ローレットの扉の横、慣れた様子で壁に背中を預けて、待っていた。あの日の少年は、きっと鞄を落としたことに気付くだろう。きっとこの鞄は(プライバシーってものがあるからネ、探ったりはしてないヨ)大事な物だろうから、ない事に大慌てするだろう。
まず何処に駆け込むか? きっと此処に違いない。ローレットは最後の駆け込み寺。落とし物から魔種退治までどんな情報でも届く場所なのだから。
……まあ、ローレットのギルド員に預けても良かったのだけれど。この香りがどうしても気になったのだ。
これは一体何の香りだろう。
柑橘? 果実? どうしてこんなに強い香りがするの?
……そんな事を思いながら、ジェックは待つ。
一日待った。二日待った。三日待った。
それでもジェックは待った。……そうして四日目。いつものように待っていたジェックが物陰から視線を感じたので振り向くと、柱を盾にするようにぷるぷる震える尻尾を見付けた。
「ア」
「……っ! あの……! ええと……! それ……!」
「ウン。やっぱりこれ、キミの?」
申し訳なさと、少しばかりの警戒心。
多分に含んだ少年が指さすのは、ジェックが持っている鞄。ジェックが問うと、こくこくと少年は頷いた。そうして、逡巡の間の後……柱の陰から姿を現す。
狼の耳に尻尾。褐色の肌。身軽そうな服装。ラサの民か、そうでなければ自分と同じ旅人(ウォーカー)だろう。ジェックは日頃の癖か、相手の装いをさっと見てアタリを付ける。
「良かっタ。ぶつかったときに落ちてたんだヨ」
「あの、オレ、……あの時ビックリしちゃって。折角支えて貰ったのに逃げちゃって、すいません!」
「……?」
勢いよく頭を下げた少年――アルジクに、ジェックは首を傾げた。吃驚して逃げる事は悪い事じゃない。
……まあ、謝る心境も判らないではないのだけど。だからジェックは、大丈夫だよ、と言った。
「このマスクでショ。吃驚するヨネ。此処に来たばっかりの時は、よく驚かれたんダヨ」
「そ…そうなんですか?」
「ウン。だから気にする事ないヨ。ハイ、コレ」
「あ…ありがとうございます! これ、すっごい大事なものばっかり入ってて……!」
リュックを渡すと、アルジクはすぐさま中身の確認を始めた。草や瓶に入った粉、液体……ガスマスク越しにでも判る香りが、ジェックの鼻孔をくすぐった。
「……ネエ、其れ。香水か何か?」
「え? あ、はい。オレ、調香師なんです」
「ちょうこうし?」
「ええと……香水を作る仕事、で」
照れくさそうなアルジクに、ふむ、とジェックは頷く。
彼女はおよそ「幼い男の子」というものを見た事がない。幻想に来てから見たは見たが、接したことは数える程しかない。だからどう接したらいいか、どう話したらいいのか判らずにいた。
じゃあ、これが普通の女性だったらどうだろう? ジェックは考える角度を変えてみる。相手の話をもっと聞いてみたいとき。そうだ。
「ウン。此処で長話もアレだから、どこかお店でも入ろっカ」
●
ローレットの傍には飲食店が多い。
その中でジェックが選んだのは、軽食を楽しめるカフェだった。割と行きつけというのも多分にある。此処のマスターはジェックの事情を分かっているので、飲み物にストローを差して出してくれるのだ。
自分も相手も、頼んだのはオレンジジュース。ころり、と氷の転がる音がする。
「オレ、アルジクっていいます。ここに来たのはつい最近で」
「あ、やっぱり? 君もウォーカーなのカナ。アタシはジェック。ローレットで色々…ウン。色々やってるヨ」
何をどう、とはうまく言えない。荷物を運んだり、敵を倒したり、時には人を殺しているなんて、何となく、目の前の少年には言えなかった。
代わりに、敬語はいらないよ、と付け足す。敬語を使われるなんて、なんだかくすぐったくって。
「ジェックさん。…オレはまずここでの生活をどうするかに一生懸命だったから……ローレットにはまだ」
「最初はそうダヨ。誰だってネ。……で、其の鞄の中身は香水ダッケ?」
「あ! うん、香水……正確にはその原料。前の世界から持ってきたものばっかりだけど。この草はトップノートに使う奴で、これはラストが多いかな。ミドルに使うものが少なくなってきたから、いい香料ないかなって市場に出て……」
「そこでアタシとぶつかったと」
「う、うん。…ジェックさんは香水に興味があるのか?」
「ウーン。興味っていうか、あんまり見た事ないから気になるって感じ」
ジェックの元の世界は、香水とは無縁だった。香るのはただ、汚染された大気の悪臭ばかり。香りを飾るなどという風習はなく、寧ろ香りは避けて通るべきもの、警告の一種、と言えたかもしれない。
だから幻想に来たばかりの頃は、素顔で空気を吸う人々や森の緑、街を歩けば判る飲食物の香りなどを新鮮に感じたものだ。
其のままを語ると、アルジクは難しい顔をする。
「……大気が汚されてたのか。じゃあ、空も見えなかったのか?」
「そうダネ。夜は真っ暗だったヨ」
「……。オレ、星を見るのが好きなんだ。そんな世界にいたら、星も見えないんだよな。なんかそれは、……やだな」
ころん。
アルジクの頼んだオレンジジュースのコップの中で、氷が転がった。沈黙が落ちる。ジェックはこういう時、どうしたらいいか判らない。
もう大丈夫だよ、と笑いかけてあげるべきだろうか。
星が好きなの? と問いかけてみるべきだろうか。
男の子というのはよく判らない。
「……アルジクのいた世界ト、この世界の星空はイッショ?」
だから、こう問うた。
ちょっと曇った雰囲気を晴らそうと思って。アルジクは少し考えた後、ううん、と頭を横に振った。
「全然違うよ。世界が違うんだって、星を見たらすぐ判る。オレが知ってる星座は、この世界にはなかった。……けど」
「ケド?」
「どっちの星空も綺麗だ。こっちの星空は、夜の明かりでちょっと見えづらいけど……でも、同じくらい綺麗で。見上げてると香水の案がどんどん浮かんでくるんだ。トップはこうで、ミドルは……みたいな」
「……ンー。そのトップとかミドルとかってナニ? さっきも言ってたヨネ」
「あ! ……そうだった、ごめん。ええとな、香水って言うのは時間が経つと香りが変わっていくんだ。最初がトップノートって、其れからミドルノート、ラストノートって変わっていく。重視するのはミドルなんだけど、トップやラストにも気を遣わなきゃいけないんだ。其れこそ個人で体臭は違うからさ、其れに合ったノートを作れれば全然良いんだけど」
香りの文化。なるほど、とジェックは思う。
其れは久方ぶりにジェックが触れる“ハジメテ”だった。目の前で目をキラキラさせながら語る少年は、幼いというより職人の顔をしている。
自分には縁遠いものだと思っていた。そして今でも思っている。けれど、目の前の少年が思う存分語り終えるまで、頷いていようと思うジェックなのだった。
きっと其れが、今出来る最良の「幼い子との接し方」だろうから。