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アンナンジュ・パスに囁いて
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- ココロ=Bliss=Solitudeの関係者
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青巒の海に拠点を留める様に、ヴゼットプランドゥシャルは小さく息を吐いた。国家を挙げて総力で挑んだあの海の絶望が和らぎ静寂を取り戻したのだという。大時化の嵐を超え、凪いだ海に航海に出ようとも考えたが、ヴゼットプランドゥシャル――シャルの『患者』の中には多くの別れを得てきたものも多くいたのだろう。言葉を重ね、そして生き抜く為の力が欲しいと乞うその声を医者としては見過ごせない。美しき蒼にのっぺりと斜陽が差し込んだ。
停泊中の病院船『パスツール号』はアポイントなしでも訪れる者は多い。精神科医を兼任するシャルにとっては、アポイントを取るという作業も患者にとっては重苦しい事であろうと考え、歓迎する姿勢をとって居た――だから、『患者』だと思ったのだ。パスツール号に訪れた者を歓迎する様に顔を出してシャルはその美しいかんばせにきょとりとした色を乗せる。
「あら――?」
其処に立っていたのはシャルにとっては見慣れた少女であった。柔らかな晴天の陽のいろを映し込んだような金の髪に、大海の瞳の少女、ココロ。
「シャル船長、少しだけお話してもいい?」
「ええ。よく来てくれたわね。珈琲でも飲みたい気分だったんだけど、如何?」
柔らかに笑みを浮かべて、シャルは目を細める。あの日、グレイス・ヌレで見た姿とはまた違う――医術士を志すと決め白衣に袖を通したココロを見て、何処かくすぐったい気持ちになったのだ。
彼女と話をしたかった――という訳ではなかったのかもしれない。ただ、聞いて欲しかった。心の内に渦巻く迷いが自分を隘路の中へと陥れる気さえして。暗澹とした道を超えねば、人の命を救う事等、できないとも思えたから。
「大きな戦いがあったんです」
「ええ――フェデリア海域ね。私は近海で活動していたから、現場に入っていないけれど」
大変だったのでしょう、とシャルは目を細めた。マグカップで揺らぐ珈琲を眺めながらココロは小さく頷く。
冠位魔種との対決。その力はどのような言葉を並べ立てたとて安く感じてしまう程に、強大であった。あまりにも高すぎる壁に、一手でも及ばねば仲間の命が失われるという恐怖が常に鬩ぎたててきた。
「……医者(ヒーラー)として、戦場に立って、ミスがあれば――ううん、無かったとしても『足りなかったら』仲間が死んでしまう。
わたしは、イレギュラーズになるまで海の底でずっと一人だった。それが当たり前だったのに、今はたくさんの仲間がいて、両肩にこれまでにないプレッシャーを感じながら必死で回復し続けたの」
「ええ」
シャルは頷いた。ココロに任せる様に、テーブルの上に置き去りにしたマグカップになど一瞥も与える事無く真摯にココロの揺らぐ瞳を見つめる。
「………けど、騎兵隊の――『仲間』の、カタラァナさんが死んでしまったの。
自分の力じゃ、どうにもならないこと位、分かってる。
そんな『領域』じゃなくて、医者は救えない人間が居る事だって知っていた。
けど……けど、どうして助けられなかったんだろう。どうにか、助けられなかったのかな」
ぽつり、ぽつりと言葉は雨垂れの様に飛び出した。まるで自分ではないかのように、心の中に沸き立った想いがシャルへ向けて溢れ出した。
「それで――報復や仇討、そう言った強い気持ちでリヴァイアサンに、アルバニアに向けて仲間たちは向かっていったの。
けれどね、どんなに仲間が激情に駆られたって医者は、みんなを支えるわたしは一人だけでも冷静じゃないとだめだって思った。そうでないといけない必要がある。だから……その時は、カタラァナさんの事は『なかった』事の様に振舞ったの。
そうしないと――そうしないと、わたしだって、なにかを思った。シャル船長も、そう思うでしょう?」
「そうね。もしも、同じ立場なら、きっと嘆き悲しんで相手を殺してやると罵ったかもしれない」
シャルは静かに、そう言った。ココロはマグカップの中で揺らぐ珈琲の波紋をぼんやりと見つめるだけだ。そうする事しかできない儘に、息を吸って、吐いて――それから、胸中の惑いを言葉に変えて。
「それは、正しかったの……? 医者は死んだ人を診ることはない。医者が出来る事は生きている人を救うだけ。
こう考えて死んだ人を頭から捨てて、生きている人だけ見る判断でよかったの?
わたしは人の心がわからない。……わからないから自分には心が無い。だからあんなに冷たく振舞えたのだとすれば、」
人間の多くは『こころ』の働きを基準とする。『こころ』が何処にあるのかは分からない――けれど、気持ちや感情と言った多くの不確定要素が突き動かす者だというのに。それが、分からないと口にしたときに大きな不安が首を擡げたのだ。
「わたしは、わたしの目指す『大医術士』になれないし、なろうと考えることすら無駄で無意味なんじゃないか、って――」
振り絞った、どこまでも不安を胸に。医学の道に進むと、彼女の背を追う様に決めた。
――だから、手を伸ばす。救える命がある。それが出来るなんて、今日も良い日だ――
その言葉が、どれ程、自分の道を示したのかさえ彼女はきっと知らない。父の背を追い医者となり、そして、確固たる自分自身の『心』で前を向いているヴゼットプランドゥシャルには。けれど、身近な人には、いえなかった。最後に、縋ったのは彼女だった――先生と慕う様に、自分の目標に情けないだろうかと口にした惑い。
「ねえ、ココロ。医者は死んだ人を診ることは出来ないわ。生きている人に懸命に、医術を施すだけ。
それでも、救えない命はある。死んだ人を考えず、生きている人を診て、真っ直ぐに救う。立派よ」
「けど――!」
「貴女の言う通り。医者は私情を捨てなくてはならない時だってある。
子が産まれる時、出産を迎えた母親の命が脅かされるなら医者は何が有っても奔るわ。
船が事故に遭った時、そこに未だ救える人がいるならば、医者は何が有ったって向かうの」
シャルはそっと、ココロの頬を撫でた。青白く、今にも自身の『心』の所在を探す迷子の様な顔をしている彼女にシャルは小さく笑い掛ける。
「立派ね、ココロ。自分を突き動かしたのが人命だというならば、立派よ。
……友人として、不甲斐ないというならば、悲しくなったら、泣いていいの。それが出来なくて、迷うならばその感情(こころ)にこれからの名前を与える練習をしましょう?
それから、命を救う為、その人の分まで一生懸命に――走りましょう。手を伸ばしましょう、救える命がある、それに手を伸ばすことが出来る。なんて、なんて素晴らしいのかしら」
シャルはそっと、微笑んだ。まだ、迷ったって良い。これからたくさんのことを知って往ける。
その感情に名前を与えられるその日まで、シャルはココロの『先生』であり続けたいとそう願う。
「何時だって話は聞くわ。いつでも会いに来てね?
さあ、珈琲を飲んで。お砂糖とミルクは必要かしら? ……ねえ、一つ言い忘れたことがあるのだけれど、聞いてくれるかしら」
そっと、シャルはココロに微笑んだ。――入学おめでとう、医術士の卵。これから、どうか、頑張って。
- アンナンジュ・パスに囁いて完了
- GM名日下部あやめ
- 種別SS
- 納品日2020年07月09日
- ・ココロ=Bliss=Solitudeの関係者
・ココロ=Bliss=Solitude(p3p000323)