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白鯨の悪夢
登場人物一覧
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エイヴァン=フルブス=グラキオールは溜息をついた。乾ききった目が痛む。呼吸どころか瞬きすら忘れ、鼻先で閉められたドアをずっと見つめ続けていたのだ。
諦めとともに目蓋を閉じる時、バリバリと瞳の表面が割れる音が聞こえたような気がした。
――どうしてこうなった?
上官からの命令に近い要請で、エイヴァンは訓練船『白鯨』に教官として乗船していた。三泊四日、海軍訓練生たちとともに海洋沖を流れる黒潮に乗って北海の玄関口まで、鉄帝海軍船とちょっとしたランデブーを楽しんで帰る、という日程だ。実はあと三時間ほどで母港に入港することになっている。
そんな時に事件は起こった。
「ちょっとの間、物干場でサボっていただけなんだがな……」
0600(まるろくまるまる )の母港着岸予定時刻まであと三時間。船内の武器保管庫で厳重保管されていた短銃が一丁、紛失した。保管室番の引継ぎ時に、当番だったエイヴァンと番を引き継ぐ教官の二人で保管庫の中を検めたときに発覚したのだ。エイヴァンが引き継いだ時には確かにあったものがない。当然、大騒ぎになった。
「貴官を疑っているわけではないが、船内を好き勝手に歩かれては訓練生たちに示しがつかんのだ。ここは堪えてくれ」
そういってエイヴァンの胸を押して船室に入れた訓練船船長の目は、北極の海よりも冷たくてよそよそしかった。すぐに紛失物と犯人を見つけ出す、それまでの辛抱だ、と言っていたがどうだか。本気で探すとは思えない。彼の立場からすれば、このまま余所者のエイヴァンが第一容疑者、いや、犯人であってくれた方がなにかと都合がいいだろう。
外から鍵をかける音が、やけにはっきりと、大きく室内に響いた。このまま朝まで閉じ込めて、港で軍の特別捜査官に引き渡すつもりなのだ。もう、無線で基地に連絡を入れているに違いない。
エイヴァンは低く唸って後ずさりした。といっても狭い部屋のことだから、すぐに作りつけの二段ベッドに背が当たる。
そう、船長はエイヴァンを教官用の個室ではなく、訓練生の四人部屋の一つに閉じ込めたのだ。
エイヴァンは磨き込まれた白いドアに顔を映したまま、にやりと口元をゆがめた。
「返って好都合だ」
自分の身は自分で守る。朝までおとなしく閉じ込められているつもりはない。
エイヴァンは二段ベッドの下の段にでかい上体を潜り込ませると、左の丸窓の縁を掴んでガタガタ揺らし始めた。
内側からしっかりとボルトづけされた丸窓は、普通ならゆすった程度でハズレはしない。
「ところが、ここは違うんだな」
ほどなくボルトが緩みだし、ピンと張ったシーツの上に、ひとつ、またひとつ、と落ちて跳ねた。丸窓が四角い枠ごと外れる。
続いてエイヴァンは隣の丸窓を外しにかかる。
これも普通ではありえないのだがこの部屋には丸窓が二つあり、しかも窓と窓の間を鉄板でつないでいた。丸窓を二つ外せば間の鉄板も外れ、どうにか人が一人くぐり抜けられるだけの穴が開く。どうしてそんなことを知っているのかというと、この部屋の壁を壊して二つ窓にした張本人が、当時はまだ訓練生だったエイヴァンだったからだ。なぜ壁が壊れることになったのか、それはまた別の機会に。
驚くべきことに、訓練船『白鯨』はエイヴァンと同い年だ。よく動いていると感心する。同時に、営繕部は何をしているのか、とも思う。いくら訓練船といえども、嵐の海を航海することもあるのだ。この前の決戦時のような、べらぼうに出鱈目な状況に訓練船が出ていくことは無いにせよ、こんなちゃちな補強でお茶を濁したままにしておくとは。
「まあ、おかげで――お? 外れた」
自分でもどうかと思うぐらい、嬉しそうな声が出た。
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長方形に切り取られた景色の彼方に、夜明け前の朱に染まった水平線が見えた。実に美しい。刻々とシンプルに変化する海と空の色をいつまでも眺めていたくなる。
だが、グスグズしてはいられない。自分に残された時間は三時間を切っているのだ。
エイヴァンは潮風を胸いっぱいに吸い込み、吐き出してから体を穴にくぐらせた。
たとえ船長が上層部に無線で何を吹き込んでいようとも、かけられている容疑はすぐに晴れる。エイヴァンには短銃を盗む動機もなければ得益もないからだ。
当然のこと、犯人は別にいる。
「犯人は俺がさぼり魔であることを知っていて当番の時を狙ったのか、たまたま保管庫の前が無人だったために犯行に及んだのか」
おそらく前者だ。
犯人はエイヴァンが訓練船に乗り込んだ真の目的を知り、帰港までの僅かな時間に犯罪の証拠を隠滅するつもりなのだ。短銃を盗み出して当番のエイヴァンに責任を取らせ、邪魔をされないように動きを封じたのだとしたら、この奇妙な盗難事件も納得がいく。
「とにかく急がないと。――ぬ!!?」
体が半分デッキに出たところで詰まった。
壁を境に体の半分がデッキ、残りの半分が部屋の中、頭は海を向いて横、という間抜けな格好で固定されてしまったのだ。訓練生の時は簡単に抜けられたのに。
(「ふ、太った?」)
違う。断じて違う。エイヴァンはムキになってもがいた。太ったのではない、鍛え上げられて逞しくなったのだ。
「うがーっ!」
じたばたしていると、海鳥の鳴き声に混じってデッキを歩く靴音が聞こえてきた。こちらにやって来る。
黒光りする軍靴の先が目に入った。訓練生は事情聴取と持ち物検査のために食堂に集められているはずだ。その最中に抜け出せるとしたら――。
「やはりアンタか」
確認のために必死に目を端に寄せるが頭が固定されているために、尻の後ろからちらっと覗く平たい尻尾の先しか見えない。
「くくく……無様だな」
声を聞いて確信を持った。やはり、目星をつけていたあの男だ。
カシャ、と硬質なスライド音が落ちて来た。盗んだ短銃……ここで殺す気か。
「証拠を隠滅し、俺を殺したところで逃げ切れないぞ」
「殺す?」
「ああ、口封じのためにな」
犯人は若くて張りのある笑い声を弾けさせた。意地の悪い響きだ。
「そんなことはしない。私はただ、貴方のその姿を写真に撮るだけだ」
エイヴァンは犯人の意図が掴めず、困惑して眉間にしわを寄せた。
「写真なんか撮ってどうする気だ」
「決まっている。貴方の義兄弟にお見せするのさ」
カシャカシャカシャ!
腹を抱えて大爆笑するシュラハが目に浮かぶ。
「よせ、やめろ! やめろ、撮るなぁぁーっ」
「ん~、じゃあ、白クマさんの縦割りを、全世界に向けて動画配信しちゃおうかな~」
冗談だろ、やめてくれー!
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「起きてください! 起きてください!」
左肩を強く揺すられて目が覚めた。喉が痛い。なんだ、という声が掠れている。
「なんだ、じゃありませんよ」
車のドアの外にカバンを持った海兵が立っていた。
「出航の時間です。しっかりしてください。そんなことじゃ、訓練生たちに舐められますよ」
「あ? 訓練……あ、ああ……」
そうだ。そうだった。俺はこれから訓練生たちの間に広がる危険ドラッグの実態を調査するため、教官として訓練船『白鯨』に乗り込むのだ。これは極秘中の極秘任務なので、自分と、任務を命じた上官しか知らない。
車を出て、海兵からカバンを受け取った。『白鯨』の白いボディに反射した夏の日差しがまぶしくて目を細める。
平らな尾を持つカモノハシの士官が、タラップをあがっていくのが見えた。