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ただ、昔の話
登場人物一覧
●いつか置き去りし
色は全てを塗り潰すけれど、どれも一つにはしてくれなかった。
吹雪の大地がある。
世界を白一色にした、優しさも、温かさも一切無い、甘えた瞬間に死を与えるような、厳しい場所だ。
そこは鉄帝国、北東部に位置するヴィーザル地方。
厳しい国土の中でも一際危険な地域である。
その為に土地は狭く、且つ、人が営みを得られる場所はさらに小さい。
そうした結果起きるのが、限られたコミュニティから発生した部族の乱立だ。
強き者こそが尊ばれる風習も相まって、それらは日々、諍いと呼ぶには激し過ぎるぶつかり合いがある。
「は、はぁ……はっ」
そして、広い雪原にまた、そうした戦いの結果が生きていた。
白の中、埋もれる事を拒むように進むリズリーの姿だ。
腰までの積雪を、持ち前の胆力で無理矢理に掻き分けて行く。
「おい。……おい、生きてっか? なぁ……おい!」
叫ぶ声に、彼女の顔は歪む。
息をするのも辛い。吐き出した瞬間に鼻と口から吹き込む極寒の冷気が、肺を引き裂いているような幻視までしてくるからだ。
けれど、それでも、リズリーは声を出すしかなかった。
それは、背負った重みの為だ。
抱えた重みの為でもある。
「………………ああ、なんだ、お嬢、ですかい」
「あたし以外、誰がいるって、言う気だい」
返ってきたのは、抱えた方からの声。両腕に抱いた、初老前の男性の、しゃがれた音。
「はは、てっきり、天使が迎えにきたかとね」
「……ばかが、死んだらぶっ殺すぞ……!」
言いたいことを、リズリーは解っていた。
男性もそうだし、背負った若い女性も、そして自分も。
今、限り無く死へ近い場所に、三人は立っている。
……どうすりゃよかったんだろうな。
思い浮かべるのは、シルエットしか見えなかった敵の姿だ。
厳しい生活を支えるため、食材の調達に出た彼女達を、所属不明の集団が襲ってきた。
全員、返り討ちにしてやった。
そう思いたいが、実際の所はわからない。
「どうすりゃ、良かったんだ……」
道を変えれば免れたのか。それとも、もっと人数を募って行けば安全だったのか。
いや、そもそも、今日と言う日に出なければ。
そういう、沸き上がってくるたらればの話は、切りがない。
「安心しな、あたしがちゃんと、連れ帰ってやる」
本当に出来るのだろうか。
「大丈夫、この山を越えたら、皆の家だ」
方向感覚を失った今ではそれを保証も出来ない。
「だから、だからよ、お前ら、死ぬなよ、なぁ」
それはもはや、祈りにも近い言葉だった。
もし、襲ってきた相手の生き残りがいたら、掻き分けた雪の跡から追跡は容易だ。
そうでなくても、深く傷付けられた男性には、猶予がない。
この寒さで患部の壊死も始まっている筈だ。
「なぁ……お嬢……」
縋る様な声がした。
嫌な気配に、リズリーは返事をせずに歩みを進めていく。
応えなければ、その先を言わずにいてくれるのではないかと、そう思って。
「なぁ……捨てて行って、くれ」
しかし、言葉は続けられた。
「荷物を、二つ……捨ててくれ。……そしたら、アンタだけは、きっと」
「それッ以上! ……言うなよ。次、言ったら、許さないからね」
吐き出す空気が、冷たい感情を引き起こす。
リズリーとて、その選択肢は考えていたのだ。
極限な状況で、自分だけ助かるかもしれない行動を考えない奴は、きっといない。
「もう少し」
だが、リズリーはそれを選ばない。
生きて、三人で、家に帰る。
「もう少しだから」
連れて帰ってみせると、そう決めていた。
前も後ろも、左右も白い、漂白された世界。
頼れる視界は無く、過ごしてきた土地勘だけを信じて、この先にあるのだと自分に言い聞かせる。
「……そうかい」
男性はそれだけ絞り出すと、それっきり喋らなくなった。
リズリーも、浅い呼吸を繰り返す事に集中する。
そうして一歩、間隔の短い歩幅を繰り返して前へ行く。
……キツイ。
足元はいつからか、斜めの登り坂に変わっていた。
恐らくは山の斜面を進んでいると、リズリーは思う。普段暮らしている周辺にも山はいくつかあった。ただ、今歩いているのがどの山なのかという判断は付かない。
先行きの不透明さが焦りと不安を生み、知らず知らずに呼吸を荒くさせていた。
「っ、ふ……ぅ」
持ち上げる高さを上げて、踏み締める強さを上げて、身体を持ち上げながら行く。
ざく、ざく、と、雪の重みで固まった層を、足が滑らない様な気遣いを加えて、だ。
三人分の重量を支え続けた両足が、ついに軋んでいく感覚を彼女は覚える。
「は、ぁ……く、っ」
歪んだ表情が視界を狭め、空気を求めて顔は上向きになった。左右へと、バラつく重心が体力を奪い、そうして。
「ぁ」
スルリと、踏み出した足が落下する。
「あああ!」
両手は使えない。前へ倒れたら終わりだ。方向を変えないと。
刹那の思考は上体を咄嗟に捻らせ、落ちる方向と逆側へ横倒しにさせた。
「はぁッ──はっ、はっ、は……はぁ……」
生きている。
芯から冷えきる死の予感に呆けた時間は、苦しそうに呻く背中と腕の声が引き戻してくれた。
それから、ふと、足元を見て、それから。
「は、はは……あはははっゲホ、ケホッ」
リズリーは、力強く立ち上がった。
突如出た笑いは、気が狂ったからではない。落とした視線、その先にあるのは片足を突っ込んだクラックだ。
そこに、注意を促す目的で付けられた赤い印が埋もれている。
「あたし達が着けた奴だ」
集落から近く、危険だからと目印代わりにしたものだ。
積もった雪でもはや意味を成していない。が、これは現在位置を教えてくれる意味がある。
「しっかりしな、もう少しだ!」
冷めていた所に熱がこもる。
生きて帰れる希望が、そこに復活したのだ。
登っていく。
キツくなる勾配にも構わず、残っていた力の全てを注ぎ込んで、リズリーは行った。
進んで、掻き分けて、踏み締めて。
そうして、登り詰めた山の上、一際強く吹いた風が雪を散らした時。
「──」
空は、青に染まっていた。
開いた目で見上げるそこには、光を落とす太陽がある。
視線を落とすと今度は、強く撫で付ける風が新雪の粉を巻き上げて、キラキラと煌めきながら斜面を下っていった。
「なあ、見えるか、あの光が」
白と青が占める光の世界を、彼女は降りていく。
見馴れた筈の、優しさも、温もりもない、まっさらな地平に跡を残して。
手足の感触は、もうほとんど残っていない。
けれど、その目にはもう、帰るべき場所が映っていた。
「なあ、見えるか、この光景が──ッ」
そして、再度投げ掛けると同時に抱えた者を見下ろして、気づいてしまう。
「ああ……みえてますよ……確かに、見えてますとも……」
開いた瞳には、もう何も映っていない。
掠れた呼吸は、もう胸を膨らませない。
脈打つ鼓動が途切れ途切れで、その間隔が長くなっていって。
「おれ……きちんと……かえれ、ますね……」
「だから言っただろ、帰れる、ってさ」
「は。は。さすが。……すね」
ズシリとした重みが腕にかかるのを、リズリーは感じていた。
もう、風は止んだ。雪はただ、静かに落ちてくる。
「さあ、帰ろう、あたし達の家に。大丈夫だよ、もう、すぐそこだからさ。だから、今は、ゆっくり休んでな」
白一色の世界に、一筋を描いて、彼女は進んでいく。
背中から感じる温もりと、抱いた腕に感じる冷たさを、忘れること無く心に刻んで行く。
これから先、この色を、リズリーは何度も思い出すだろう。
いつか、その手からこぼれ落ちた存在と共に。