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Carpe diem
登場人物一覧
幾星霜の月日を重ね、星々はその身を焦がすのだろう。
雲一つ無いインク・ブルーの夜空には宝石箱を転がしたような煌めきがある。
土を踏む小さな音は幾重にも重なって耳朶に余韻を届けた。
ラクリマは白い衣装を身に纏い妖精郷に足を踏み入れた。
目の前に広がるは淡い色彩いろなす箱庭。どの建物も小さく置かれ到底自分達が入れるサイズではない。
愛らしい建物。普段であれば傍らの盾と共に声を上げてはしゃぐのかも知れない。
けれどブルーグリーンの左瞳は真剣な眼差しを讃えていた。
緊張感が身を縛る。指先が冷えていくよう。
ここから先には戦場となるエウィンの街があるのだ。
「そういえば、今日は七夕なんだって」
傍らの盾が緊張感を和らげようとしてくれたのか、声を掛けてくる。
アメジストの瞳がラクリマに向けられていた。
誰かから聞いた昔々のお伽話。織り姫様と彦星様の切ない恋物語。
年に一度、七夕の夜にだけ会えるのだという。
「でも、会えなくなったのは二人が仕事をしなくなったからでしょう?」
運命の相手との蜜月は何にも代えがたい時間だったのだろう。己の責務を忘れる程に。
その通りだと隣から笑う声がする。
お伽話や神話は、伝え聞く程に色々な物と混ざり合っていく。
この織り姫と彦星の話とてそうなのだ。複数の言い伝え土着の伝承が混ざって今の形となった。
そう、ラクリマの今の心の内側の様に。
混ざり合い、違う形に変化していく。
隣で微笑む盾と、かつて己を白い薔薇だと言った祝祭の光――
未だこの身は光が消えてしまった事を許容しないのだ。
叶うのならば思い出の中に深く眠ってしまいたいと思う程に。
忘れる事など出来はしない思い出に浸って目を閉じていたい。
七夕の夜空に一夜でも、会いに行くことができるのならば。
切望の手を伸ばすだろう。
けれど、不安と焦燥感が胸を抉るのは何故なのだろう。
光が消えた直後は、絶望だけが心を支配していた。
真っ暗な暗闇の中でただ沈んで行くだけだと思っていた。
世界の全てを喪ってしまったという事実は、外界の情報を全て遮断し色も消え失せたように見えた。
それが、今は違うのだ。
星降る夜に見た箒星も、暖炉で爆ぜる薪も、寄せられた顔も鮮明に思い出せる。
アメジストの色彩は輝いて、キラキラと輝いて、ラクリマを写し込むのだ。
だからこそ、心がばらけそうになる。
悲しむだけだった過去を置き去りにしてしまうこと。
光を失ったことを受入れなければならないこと。
拠り所としていた存在の事を、考えない時間を作ってしまうこと。
それは、罪悪感を伴ってラクリマを刺した。
盾が優しさをくれる度、指先が髪を梳く時。嬉しさと焦燥感が胸を押す。
温もりを受入れる時の罪悪感で光との思い出が塗りつぶされてしまいそうで怖かった。
だから、本当は聞きたくなど、なかったのだ。
寄せられる好意も、呼ぶ声も。己の中で膨れ上がる想いも。気付きたくなかったのだ。
お伽話の二人のように切ない恋を。
年に一度訪れる逢瀬を。
夢見るだけの慕情を。
胸に抱き続けるだけでよかったのならば――
ラクリマは幻想種である。
永くを生き。儚く揺蕩う霞の人。
けれど、盾は違う。少なからず頑丈であれ寿命は人の域を出ない。
必ず別れがやってくる。
その時、己の心は耐えられるのだろうか。
紫色の瞳の隣に立つということは、何れ訪れる悲しみを背負ってしまうということ。
光が喪われた事さえ受入れられない心が、盾を失う怖さに耐えられるだろうか。
今のうちに手を離してしまった方がいいのではないか。
そうすれば、悲しみを噛みしめるだけで済むのではないか。
何処かで元気に暮らしていることを願うだけで良いのではないか。
ラクリマの心は混ざり合い。茨の棘の如く身体に張り付いて剥がれない。
答えは、未だ紡げず。
迷い苦しみ藻掻いている。
けれど。もし、この先。
どれ程の境地に立たされたとしても、隣で心配そうに見つめる彼ならば。
この身を受け止めてくれるのでは無いだろうかとも思うのだ。
隣を見遣れば黒髪の隙間からアメジストの瞳が覗く。
心配そうな眼差しでラクリマを見つめていた。
それがまるで忠犬のようで、思わず口元が緩む。
「……そういえば、今日は俺の誕生日なんです」
「え、そうなのかい? 知らなかったよ。じゃあ、帰ったらお祝いしなくちゃね」
重ならない笑顔。重ならない声。
全く違う存在。
けれど。大切だと思える人。
――だから、少しだけ君を思い出さない時間を作っても構わないだろうか。
共にあった日々を忘れたりはしないから。
少しだけ前を向いてもいいだろうか。
今日というこの日に。
新しく始めてみてもいいだろうか。
死を想い、されど花を摘むために。
インク・ブルーの夜空に瞬く星は願いを照らし、白き薔薇に降り注ぐ――