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夜跨ぎのエトワール
登場人物一覧
●旧き夢、序
ジジ、ジジジジ。煩く鼓膜を刺激する蝉の声は、否が応にも
熱された空気は肺を柔く焦がして。
そよぐ風が癖のついた髪を攫い、室内のこもった空気を浚う。頬に僅かな涼を残したまま。
夏はその存在を主張するかのように、鼻腔に初夏の匂いを摺り寄せた。
――其れは何時かの記憶。或いは旧い夢。
ジジ、ジジジ。さて何かを考えていたような気もするけれど、湯だった頭ではどうにも思考がまとまらない。
今言えることは、自分はこの熱に侵された世界から逃避を試みているようだということ。
つまり、どうやら自分は眠いのだろうという事実だ。
瞼は耐えかねたようにその帳を下ろしていて、見えるのはただ瞼の裏の暗闇のみ。
思考は微睡みに沈むばかりで、ヴィクトールにはそれに抗う理由も、当面は見当たらず。
――君は憶えていないだろう。けれど、このひと時だけは懐かしい夢を見ておくれ。
にゃあん。
夢へと続く刹那の中で、やけにはっきりと。ヴィクトールは猫の鳴く声を聴いたのだ。
●熱と黒
ジジ、ジジ。夏の暑さというものは、何時の時代も人を辟易させるものだ。
それは
(あつい……)
海辺に座す街を貫く大通り。所用で外出した彼は、大柄な体をふらつかせながら帰路についていた。
汗で頬に貼りつく髪。
じっとりと熱を帯びた頬。
吐く息さえもが生温い。
そのクセ空は気持ち良いほどに青いのだから、夏というのは憎めない。
(このままでは倒れてしまいます。せめて、路地裏に……)
タイルで舗装された賑やかな通りを外れ、路地裏にその体を滑り込ませる。
陽光の射差ぬ裏路地は暗く涼しい。けれど反面、特有の静けさをももたらした。
いうなれば、静寂とモノクロに支配された世界。
――にゃあん。
鳴き声と、突如世界に現れた「星を集めたような金の瞳」を除いては。
それは一匹の黒猫だった。大きさからして雄猫だろうが、箱の上に丸くなり、長い尻尾を揺らしてじぃっとヴィクトールを見つめている。
「どこからいらしたのです? それともボクがお邪魔している側でしょうか」
昼寝の邪魔をされてご立腹なのだろうか。それとも道を塞いでいるとか? ともあれ”小さな先客”の瞳はこちらに据えられたまま。
ヴィクトールは汗をぬぐい、夏の支配する世界に戻ろうと足を踏み出す。
――にゃあん。
再び、猫が鳴いた。
振り返ったそこには、こちらを見上げる金の瞳。どうやらこの小さな生物はヴィクトールに――実に不思議なことに――ついて来ることを決めてしまったらしい。
ひとつ、息をつく。まったく想定外の事態ではあるが、この暑い中に放りだすのも忍びない。
ヴィクトールは片膝をつき、両手を”小さな客人”へと伸ばした。
「いらっしゃい。よろしければ、冷たいミルクを差し上げます」
さて当初のヴィクトールは、この”小さな客人”はそのうちいなくなるものと思っていた。決して一向に出ていかないなど想定していなかったし、まして”小さな居候”と呼ぶべき存在になるとは思ってもみない。
けれど実際には、現実はいつも想定しない方へと転がっていくものだ。
そのことにヴィクトールがようやく気付いたのは、黒猫が家にやってきて三日目の夜のことだった。
「そろそろ貴方の名前を決めないといけませんね」
ベッドで向かい合った”小さな居候”はまるで興味がなさそうだったけれど、一緒に暮らしていくのであれば名無しは不便だ。
けれどそう易々と思いつくものでもない……悩みながら窓から覗く空を見上げたヴィクトールは、赤い瞳を見開く。
窓枠に切り取られた雲ひとつない空。
優しく光を投げかける月。
ひとつひとつ瞬く星々。
そのすべてが息を呑むほど美しかったから。
「エトワール……縮めてエトというのはどうですか?」
零れた呟きに”小さな居候”の瞳が星光に瞬く。まるで満天の星々を集めたかのように。
――にゃあん。
その鳴き声と擦り寄る仄かな体温が、きっと答えだった。
「では、よろしくお願いします。エト」
微笑み大きな掌で”小さな居候”――エトの頭を撫でる。
ボクはこの名を、あと何回呼ぶのだろう。
(きっと、そう多くはないのでしょうね)
しかし、いくど夏を過ごしたか。
ヴィクトールの予想に反してエトはまだ”そこ”にいた。
毎日当たり前のようにミルクをねだり、ヴィクトールが出掛ければついてきて、夜は布団に潜り込んで眠りにつく。
そのころにはヴィクトールも随分ほだされていて。小さな居候がそこにいることを当たり前に感じてしまっていたのだ。
――いのちに限りがあることなど、誰もが知る”当たり前”だというのに。
ジジ、ジジジ。それは出会った頃と同じ、夏の日のことだった。
「エト?」
就寝前にエトの姿を探す。いつもは呼べば姿を見せるのに、どういうわけか見当たらない。
探し回ってようやく見つけたのは、ベッドの隅で丸くなる、まるで黒い毛玉のようなエトの姿だった。
「エト……?」
ふしぎとわかってしまった。理解してしまった。目を逸らせなかった。
――ボクは何年エトと共にいた?
その答えを知っていたから。
『いのち』が消えていく。積み重ねた時間を嘲笑うかのように。
それは寿命とかいうものに違いなく、茹る夏の暑ささえその体を温めることは出来はしまい。いや、それは神にのみ許される御業だろう。
せめて、と。冷たくなっていくエトにヴィクトールは寄り添う。少しでも自身の熱を分け与えようとする。
瞼を閉じた。
不思議と涙は零れない。
あぁ、けれど。瞼の裏に浮かぶ確かな暗闇に、その暗闇にちかちか瞬く星に。
どうせなら馬鹿馬鹿しい約束をしてもいいだろう?
「またいつか。ボクに会いに来てくださいね――エト」
ジジ、ジ、……ジ。蝉の声が、止んだ。
●旧き夢、終
ジジ、ジジジ。煩く鼓膜を刺激する蝉の声で、ヴィクトールは目覚めた。
熱された空気は肺を柔く焦がして。
そよぐ風が癖のついた髪を攫い、室内のこもった空気を浚う。頬に僅かな涼を残したまま。
夏(七月)は相変わらずふてぶてしく、鼻腔に初夏の匂いを摺り寄せた。
(いつから眠っていたのです?)
ジ、ジジジ。さて夢の内容を思い出そうとするけれど、失われた記憶に辿り着けるはずはあるまい。
ヴィクトールにとって真実なのは、現実はまったくもって変わり映えなどせず、眠る前と同様にそこに在るということだけだった。
――にゃあん。
否。ひとつ変わった事を上げるとするならば、それはどれ程とりとめない事か。
窓辺に一匹の黒猫が寝そべっているということだ。
大きさからして雄猫だろうが、その薄汚れた毛並みは夏の日差しを吸ったのか、熱い。
「どこから、いらしたのです? 窓の側は暑いのです」
しかし黒猫はうだるような暑さもヴィクトールのことも、歯牙にも掛けずにゆるく伸びをする。
ヴィクトールの方はといえば、困ったように――いつも通りではあるが――眉を寄せた。この暑い中で放っておくのも忍びない。
「こちらへいらして下さい。よろしければ、冷たいミルクを差し上げます」
そうして初めて、黒猫は彼の存在に気付いたかのように顔を向ける。
その