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今日から始まる物語
登場人物一覧
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朝の光に頬をくすぐられて目を覚ました。腕をさする。寒い。また窓を開けたまま寝てしまったようだ。だって故郷と異なる夜の星が、あまりにも綺麗だったから。
私の名前はソロア・ズヌシェカ。
運命に呼ばれし旅人。
今日こそはローレットで依頼を受けようと思う。
私はベッドの上でうーんと唸りながら、体を思いっきり伸ばした。新しい一日の始まりだ。
ご近所のフルーツパーラーでオレンジと一緒に貰った日めくりカレンダーを、一枚破ってくるくると丸めた。さよなら昨日、おはよう今日。六歩先の屑籠に投げ入れる。
あっさり外れた。
「ちえっ」
悪態をつきながら床に落ちた紙くずを拾い上げると、真上からポトリと落とした。
さあ、急がないと。ゆっくりしている暇はない。なにしろ経済的にはかなりひっ迫していたし――ローレットからの支援金? そんなスズメの涙、カラッカラに干からびちゃったよ――ビギナーだから、と甘えていられる期間はもう終わったのだ。
顔を洗ってから、さっくさくのクロワッサンとオレンジ、冷たいミルクでお腹を満たした。
小さな鏡の前に飾り気のない椅子を引いてきて座り、長い髪にブラシをかける。丁寧に、ゆっくりと。赤い髪が艶やかに輝くまで。
私は髪をとかす手を止めて、鏡に映る自分をじっと見つめた。
不安は尽きないけれど、今の気分にワクワクする何かが含まれているのは事実だと思う。口元はぎこちなく強張っているけれど、目は強い輝きを放っている。
……大丈夫、私は大丈夫。
混沌に呼ばれて、肩にのしかかっていた周りからの大きすぎる期待が外れた。せいせいしているのは確かだが、そのぶん弱くなったような気もする。実際、混沌証明によって弱体化しているけれど。もしかしたらその大きすぎる期待は、私の不安を心の底に沈めてくれる錨のような役目をしていたのかもしれない。
「なーんて。ないない、そんなことない。もうあんなのは御免だ」
願わくは、混沌世界は期待に応える努力に対し、正当な評価が得られる場所でありますように。願いを込めてブラシを置いた。
家を出るときに履くブーツは右足から。
朝のおまじないは、自分に小さな魔法をかける呪文のようなものだ。いつもまっさらな気持ちで一日をはじめるためでもある。心が晴れやかな朝も、どんよりと曇っている朝も、土砂降りの朝も。この小さな儀式でいったんリセットして、一日のはじまりを清めるため。
「鍵、よし。ハンカチ、よし。お財布、よし。あ、タクト、忘れてる!?」
あちゃあ、これから依頼を受けようとしているのに武器を忘れるなんて。
慌ててブーツを脱ぐと、ベッドサイドへ取りに戻った。
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(「よかった。そんなに混んでない」)
朝早くに家を出て正解だった。時間帯によっては人で溢れ、依頼を張りつけたボードの前に行くのも一苦労する。条件がよく、面白そうな依頼はすぐに枠が埋まってしまう。ボードを見たら紙一枚張られていない、ということもあるのだ。もう少し時間がば、ここもイレギュラーズや情報屋でごった返すだろう。
ローレットについて詳しく知っている風だけど、実際に自分が訪れるのは今日を含めてたったの三回だ。
「ええっと、どれにしようかな」
いろいろ見ているうちにまた、夏の入道雲のように不安がむくむくとわきあがってきた。ほとんどの依頼に初心者マークがついていない。ていうか、ない。行先もようやく馴染んできた幻想国内だけでなく、鉄帝や深緑、ラサなどなど様々だ。中には、人目をはばかるような、アブナイ仕事もある。
「依頼を受けるのは初めてですか。それなら思い切って、どれでもいいから飛び込むのです!」
「ひゃう!?」
驚いてふり向くと、小さな翼を生やした女の子が立っていた。ローレットの看板娘、ユリーカさんだ。その向こうに腕組をしたギルドマスター、レオンさんの姿も見える。
「おい、ユリーカ。適当なことをいうな、彼女が難しい依頼を選んだらどうする気だ」
「無問題。先輩たちがちゃんとサポートしてくれるのです!」
「あのな……」
レオンさんはため息をつくと、つかつかとボードの前にやってきて、一番上に貼ってあった依頼書を取った。これにしろ、と私に差し出す。
それは海洋国のとある浜辺に現れたスライム貝を退治する依頼だった。
勇気を出して受けてみよう。
海への興味が不安に勝った。海に囲まれた世界に生まれながら、私はこれまで一度も海を見たことがなかったのだ。もちろん、知識として『海』のことは知っていたが……。
私は二つ返事でその依頼を引き受けた。
「ソロア、やっちまえ!」
「おう!」
私はタクトを振るい、最後のスライム貝を魔力で固めた水弾で撃ちぬいた。やった。依頼成功だ。召喚されてから今日までの短い日々で感じたすべてが、空と海の青さに同化していく。
開きはじめた花弁の上を吹き抜けるかのような、透き通った風が体の中に広がった。