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今なお、遺された闇の中で
登場人物一覧
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視界に、ぱっと紅が散った。
スローモーに倒れていく兄の身体。伸ばした手が彼の服の裾を掴もうとした瞬間、それは煙のようにふわりと散ってしまう。
――叶うのなら。
それと同時に、背後から声がした。
振り返る。両親があの時の柔らかな笑顔で、私を見つめていて、
――お前もまた、貴族として在ることを望む。
それが傲慢であることを知っていても。そう付け足して、父は己の首筋に刃を当てた。
再度、伸ばした手が掴んだのは、首から下を無くした父の髪。
気づけば、もう片方の手にも父同様、「球形となった」母の姿が。
「……、ぁ」
声が、漸く零れた。
「ああ、ああああああ!!」
壊れた木偶のように、同じ単語を濁々と吐き出し続ける私。
無力を叫ぶ。叫ぶ。何故あの時、私は強くなかったのか。何故高潔さを己が内に留めておけなかったのか。
理解している。全ては過去だ。今になってやり直すことなんて出来やしない。
「「「レイリー」」」
あの時、兄の代わりに戦うことができなかった時点で。
あの時、父母の後を追って自刃が出来なかった時点で。
「「「全てを捨てて、命だけを永らえた、我らが家の卑怯者」」」
手から離れていた父母の頭が、血だまりに沈んだ兄の、首から上だけが。
ぎょろりと視線を向けて、口を開く。
「「「痛め。苦しめ。無辜なる混沌の最中に於いて、お前だけの地獄を味わうがいい」」」
途端、味わったのは浮遊感。
暗闇のセカイに於いて、私の身体は、意識は無限の落下を始める。
苦悩と絶望の最中、私が思い出すのは過去の記憶。
――嘗て、一貴族の子女として育てられた、レイリー=パーヴロヴナ=カーリナの、ありふれた転落劇だった。
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「兄さま、どうかわたしに立たせてくださいませ!」
陽だまりの中、未だ幼さの残る金髪の少女が、むくれた顔でそう叫んでいた。
美しい庭園だった。常に寒気と止まない雪に晒され続ける筈の鉄帝領内に於きながら、その場所はただ陽光を受け、青々と生い茂る芝生と、花々が並ぶ花壇を作っていて。
「謂れなき罪の密告による領地没収などと! 大方この場所を目当てにした言いがかりに決まっております!」
「それを黙らせるための決闘に、お前の私情を挟むわけにはいかないんだよ、レイ」
苦笑交じりで応えたのは、少女――私の兄、ローマン=パーヴロヴィチ=カーリン。
二人の家、カーリン家の跡取りである、ひとかどの武人だった。
「第一、お前は本来剣を持つべきでは無いだろう。つい先日も母上にお小言を言われたよ。お前の代わりに私が礼儀作法や舞踏を学んでみるか、とね」
「……鉄帝に生まれた以上、女と言えど武錬を積むに越したことはありませんもの」
ぷい、と顔を背ける少女に、苦笑しきりの兄の姿。
だが、それも鳴りを潜め、柔和な微笑みを浮かべたその人は、少女の頭にそうと手を乗せた。
「後生だよ。兄としては唯一人の妹に傷でも残ってしまうことは悲しい。兄のお願いを、聞いてはくれないか?」
「……わかりました」
――妹の前ではどこまでも無垢なその態度に、幼い私は、こくりと頷く。
それを見る現在の私には、兄に激励を贈る少女の声も、それに破顔する兄の表情も、頭に入っては来なかった。
もしも、この時。
決闘に向かう兄に縋り続ければ、未来は変わったのだろうかと言う、詮無きことを考え続けていたから。
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家に唯一人勤める執事と、主家の少女が、一つのベッドを前に立っている。
其処に横たわっている青年は――既に、呼吸をしていなかった。
「……誠に、残念です」
他家との決闘を終えた日の夜。その結果は、今こうして眼前の喪失そのものが眼に見える形で残っている。
「……」
それを見つめる、少女の表情は抜け落ちていた。
眼前の光景を、まるで興味のない静物画でも見るかのように、視界の情報を捉えていない。
「おとうさまは、どこ」
「は。それは……」
「おかあさまも。にいさまがなくなったのに、なんで」
さがしにいかなきゃ。そう言って、少女は数日後に奪われる屋敷を、一人で徘徊し始めた。
止めようとした執事の声は、直ぐに慟哭に覆い隠される。
その意味を知るのに、然程時間はかからなかった。
「レイリー、愛しい我が子」
血に濡れた剣を手に、優しかった父が、寝室に立っていた。
その足元には、首元を赤く染めた、母だったモノの姿。
「……?」
続けざまの肉親の死を前に、思わず、少女はぺたんと膝をつく。
茫洋とした目が映す父の表情は、何時もと変わらない、慈愛に満ちた表情で――だからこそ。
「叶うのなら。お前もまた、貴族として在ることを望む」
……絨毯に広がる血の染みは、二人分になった。
それを呆然と眺める少女は、最期の父の言葉を反芻し続ける。
決闘に負け、領地を奪われ、家も取り潰しとなったこの家で、せめて誇りすら奪われる前にと。
名誉ある死を父は望んだ。恐らくは、母も。
なら、私も、と。
父の手が握ったままの剣を手に取り、少女は刃を首筋にあてる。
だって、そうしなければ。
大切な家族を、家を、名を奪われた自らには、だからもう夢も喪くて。
あとはこの刃を引けば、虚ろな自分を終えられるのに。
なのに。
――なのに、どうして。
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「「「全てを喪ったのだろう」」」
ええ。ええ。その通りよ。
大切なものは零れ落ちた。この手に残されたものはもう何もない。
「「「ならば、何故生きる」」」
「――それは、きっと」
浮遊感は停止した。
手にしていた槍は果たして何時からか。それを突き出すように振るえば、先端には母の頭が貫かれていて。
「私が、貴族でいることを、捨てたから」
「「……馬鹿なことを」」
「貴方たちにとっては、そうなのでしょうね」
彼らに対し、私に残ったものは、最早何もない。
けれど、誰かの心の内に、私が残せるものは、きっと有る筈で――だから。
「……嗚呼。だから、私は」
誰かの夢を護るのだと、そう自分に誓ったあの日の記憶が、ふと私の中に去来する。
またも一閃。槍の穂先のみで裂いた父の頭は、何も語らず暗闇に消えた。
「だから、お前はその姿を取るのか――レイリー」
「ええ。お兄様」
取り戻されていたのは、得物の槍だけではなかった。
大盾と、魔巧の鎧。その下に着るドレスも含め、私を染め上げるのは燦然たる白。
「私はもう、貴方たちの死を悼まない」
……本当は、とっくに解っているのだ。
これは只の夢。未だ私の中に燻ぶる貴族としての罪の意識が、今を生きる私を苛むが故の悪夢なのだと。
「だから――さようなら」
竜の角を模した槍が、三度私の過去に振るわれる。
血の海に溺れた兄の虚像は――刹那、
「レイ。哀れで愛しい、私の大切な妹」
「……っ!」
過日の呼び名で、私に呟いた。
全ての影が虚空に消えて、残されたものは、覚醒を齎す光。
「わかって、居るんです……!」
死を恐れるが故に誇りを捨て、家族を、名を捨て。
何も持たず終わることが恐ろしいから、誰かに自分の庇護という記憶を刻み付けている――傷跡のように。
軈て、この夢から覚めて尚。
喪った夢を、他に求めるだけの代償行為を、私が止めることは無いのだろう。
それを醜いとあざ笑う自分から、永遠に目を背けながら。
「それでも、私は……!」
――ならば、おにいさま。どうかわたしにおしえてください。
――なにもないわたしにできることは、ほかに、おもいつかないのです。