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黄昏の音
登場人物一覧
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夕空から宵闇を纏う黄昏の時間。
アラゴン・オレンジからコバルト・ヴァイオレットへ移ろう空の色。
それを映す鏡の様に海が空を抱き、水平線で交わっていた。
息を飲むほどに美しいこの景色を。同じ色を。見る事が出来たなら――
さらさらと波の音が耳を浚う。
寄せては返すそれは揺り籠のように響いて、心地よさに包まれるようだ。
砂浜に残された足跡。二つ。
リュグナーはゆっくりと、隣を歩くソフィラと歩調を合わせ浜辺を歩いていた。
薄灰の目は明滅を感じるのみで、白黒の世界を揺蕩うソフィラの網膜は色を映さない。
故に、リュグナーは彼女の手を引いて砂の上を進む。彼女の耳に届くように足音を立てて。
握った手はあたたかく。お互いの体温でほんのりと湿っていた。
茹だるような暑さは、夕方になればほんのりと和らぎ。ぬるい風が頬を撫でていく。
何も無い日常の一片。その記憶。
それだけの事なのに、ソフィラは胸の奥に湧き上がる温かさに高揚する。
「ふふ」
「どうしたのだ」
小さく笑った彼女の声にリュグナーは視線を向けた。
「前もこうして歩いたなって思ったの」
初めての海。足下を擽る波、ふわりと鼻腔を覆う潮の香り。ソフィラにとってどの刺激も鮮烈だった。
海水に味があるのだと揶揄ったリュグナーの言葉。
それを素直に受入れて指先を口に含んだソフィラの表情は忘れる事が出来ない。
「とても、驚いたわ。しょっぱかった」
「だろうな」
くつくつと笑うリュグナーの手を強く握るソフィラ。
「その時も、そんな顔してたんでしょうっ」
子供が悪戯を成功させた時の喜び。それを必死に繕ったような歪な笑顔。
見えなくとも、どんな顔をしているかなんて手に取るように分かってしまう。
それだけの時間を共に過ごしてきたのだから。
リュグナーはソフィラの手を引いて、岩に腰掛けた。
「本を読んでくれたこともあったわ」
「そうだな」
幻想図書館クローズドライブラリ。カフェのソファに座りながらカフェモカとフォンダンショコラの甘い匂いに包まれた。
彼が読んでくれたのは異世界の冒険譚。小さな少年の物語。広がる軌跡は壮大で、果敢に立ち向かう様はソフィラの声を弾ませる。
楽しませてくれたお礼にとソフィラは髪の花を贈った。
ソフィラの種族は髪に花が咲く。摘み取ってもまた自然に生えてくるもの。
けれど、それを渡す相手は誰でも良いわけじゃない。
自分の一部を他人に差し出すのだ。ソフィラにとって少なからず勇気の要る行為。
しかも相手の表情が見えない中で渡すのだ。
リュグナーは気付いて居なかったかもしれないが、彼女の指先は僅かに震えていた。
でなければ『良かったら受け取って』なんて言葉に乗ってこない。
彼が返してくれた受諾の言葉はソフィラにとってどれだけ温かい雫だっただろう。
水面に落とされた一滴のぬくもり。それは波紋を描き大きくなっていく。
揺れる甲板の上。足下が覚束無いソフィラの手を取って、彼女が転ばぬよう支えた。
リュグナー自身、船に乗るのは初めてだった。
三半規管が揺さぶられる感覚に、自律神経が狂っていく。
「あの時は船酔いをして、散々であったな」
胃の中のものを出してしまえば楽になるというものを。リュグナーは頑なに吐くことを拒んだ。
すっきりするドリンクを頼もうと言ってくれた言葉は天使の歌声に聞こえたほどだ。
「ふふ、そんなこともあったわね」
その時も、波の音が耳を浚っていたのをソフィラは思い出す。
海に行った記憶が沢山あるのは、リュグナーが気を遣ってくれていたのかもしれない。
目の見えないソフィラにとって海の音は、沢山の刺激を運んでくれるだろうから。
岩を降りて波打ち際まで二人は歩く。
冷たい波が踝まで押し寄せ、ゆっくりと引いた。そして、砂を巻き上げながらまた戻ってくる。
「水梱って覚えているかしら」
「ああ、ちょうどこんな風に足先を水につけたな」
日向と木陰のコントラストが強い夏の日。氷と花の浮いた水桶に二人で足を入れた。
広がる花の香り。一輪差し出せばふわりと彼女が笑みを浮かべたのを覚えている。
リュグナーに貰ったフェリチタで爪弾く旋律は故郷の音色。
心地よいソフィラの歌声と花の香り。
次第に落ちていく瞼の端。陽光に水の揺らめきが反射して美しかった。
肩に掛かる重みにソフィラは嬉しさを覚える。
彼が安心して眠れるというのなら、これから先いくらでも歌い、肩を貸そうと儚く思ったのだ。
ぬるい風がソフィラの青い髪を浚っていく。
首筋に触る微風。ソフィラは広がらないよう髪を手で押さえた。
そういえば、こんにゃくに驚かされた事もあった。
あれは夏祭りの肝試し。洞窟での話だ。
首筋を掠めたこんにゃくに大層驚いたソフィラ。
洞窟内に響き渡る叫び声にリュグナーも吃驚したのだろう。
小さな声を上げた彼をソフィラは見逃さなかった。
普段は飄々として不遜な物言いであるリュグナーが小さくではあるが予想外の出来事に声を上げたのだ。
それだけでも秘密を知ってしまったようで。ソフィラは微笑みを浮かべリュグナーをつついた。
他の人であれば心配の声でも掛ける所だろう。
だが、彼に対してはそうではなかった。少しばかりの意地悪を言っても受け止めてくれるだろうと確信があったからだ。
その事実にソフィラ自身が疑問を抱くようになったのは何時の頃だろうか。
町中が魔法に掛けられるファントムナイト。
銀と花のベネチアンマスクを纏い見よう見まねの不器用なステップを踏んだ。
繋いだ手の温かさを忘れていない。不安げな表情に少しずつ笑みが零れる。
楽しい踊り。月夜のダンス。星屑の軌跡を描きながら二人は夜空を舞い踊る。
普段とは違う浮遊感に楽しさは溢れ。
思わず呼んでしまった名前で、夜空のステージは夜の静かな湖に変わった。
綺麗だと言った言葉は、彼女の瞳に映る月の光に魅せられたからだろうか。
甘い蜜に酔ったのは苺香るカフェテラスでのこと。
裏メニューという言葉に惹かれ黒い蜜のアイスクリームを二人で頼んだ。
濃厚な味わい。黒蜜と冷たいバニラが舌の上で蕩けていく。
飲み干すそれに絡む熱。
駆け上がる悪寒にも似た感覚に、体温が上がるようだった。
耳を這うリュグナーの声にソフィラは頬は色をなす。
頭を預ける様に寄りかかった彼女の髪がリュグナーの手に落ちた。
間近に感じる甘い霞草の花の香り。見上げる薄灰の瞳は潤み長い睫毛が影を落とす。
普段なら冗談めかした口上を垂れる場面なのに、唇に乗るのは小さな呻きだけだ。
重ねられた手のぬくもりを今でも覚えている。
「見たいと思ったことはないのか」
そんな問いは桜珊瑚舞う洞窟に木霊した。
詳細にリュグナーが言葉を繰るけれど、それは脳裏に描かれているのかと問う唇。
このとき彼は心の内側に不思議な感覚を得ていた。
目から入る情報が全て同じだなんて思ってはいない。他人になれないのだから、それを知る術も無い。
けれどこの美しい光景を共有したいとリュグナーは思ってしまった。
何故そう思ったのかも分からぬまま。ソフィラの答えを待つ。
彼女は今までは見たいと思ったことは無かったと告げた。
そして、重ねるように。リュグナーと同じ桜を見る事ができたならと目を細めた。
――――
――
胸を打つ音。
夜空に咲いた花火にソフィラは肩を振るわせる。
「まあ……! 今の音、何かしら?」
「あれは花火だ」
遠くで鳴っていることはあっても、こうして間近で感じるのは初めてなのだろう。
身体の芯に響く音に感じ入っていた。
「すごいわ。まるで心臓が躍っているみたい」
屈託無く笑うソフィラを見て、リュグナーは口の端を上げる。
この他人と異なる姿と眼。
他人を惑わす金の瞳は、半端な己を隠したいという気持ちの結晶なのかもしれない。
だから、迷子になっていた彼女が盲目だと知って安堵した。
繋がりを厭うのは。他人か自分か。なんて葛藤の中で苦悩しなくてもいいのだと思ったのだ。
けれど。
彼女の存在が大きくなるにつれ。
対価など必要ないと。傍に居たいと望むようになるにつれ。
同じ『色』を共有できない、歯がゆさが己の中から湧き出てきた。
なんと自分勝手なのだろうか。
嘗て彼女の瞳に光が宿らない事に安堵したというのに。
今は彼女の瞳に光が宿らない事を残念だと思うのだ。
それを望む理由は未だ曖昧で。心は不確定なのだ。
「ソフィラよ、貴様はこの景色を……どのように想い描いているのだ?」
何時もより不安げな声。
どこか自分を罰する時の色に似ていると思うのは気のせいではないのだろう。
指先から伝わる熱は鼓動を告げる。
「言葉にするのは難しいけれど、そうね」
目に映る世界は白と黒の明滅。視覚情報はそれ以上をソフィラの脳に送らない。
けれど、それでも。
『見えない』わけじゃない。心の中で描く景色は色鮮やかに波打って、ソフィラの心を揺らす。
湧き上がる音も。潮の香りも。手の中の鼓動も。
リュグナーの声も。髪に纏う匂いも。全て。すべてソフィラの『景色』だ。
「……あなたと同じ景色であったら、とても嬉しいわ」
霞草の花言葉に従うがまま全ての者を幸福にすると願った少女が。
只一人の青年と同じ景色を見たいと想った。
それは彼がそれは特別で。掛け替えの無い存在だというころだろう。
共に歩くことが出来る時間。言葉を交し、笑顔溢れ、握る手は熱く。
このひとときが長く続けば良いと思う程には。
まだ花開く事の無い心。
けれど、遠くない未来に。きっと美しく開花する。
濃紺の夜空に咲く、極彩色の大輪のように――