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あなたの音色
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●qualia
雑音が走る。この世はいつだって不協和音に満ちていた。
少なくともリア・クォーツ(p3p004937)の……彼女の世界は間違いなくそうなのだ。周囲の心の感情を旋律として耳が捉える『クオリア』の少女。類稀なるその能力はある種絶大で、とてもとても素晴らしく――
彼女の生に苦痛を与えていた。
どこからか聞こえた怒号は脳の裏を痛ませて。
どこからか聞こえた悲痛なる声は脳髄を直に撫でる様だ。
人の混雑する都市に行こうものなら――ああもはや立っていられない事もあったか。
雑音雑音雑音。耳を塞いでもどうにもならず、微かに辿る心地よき旋律など掻き消えて。
だから。
「――」
こんな所に己は来ている。
聞こえるは小川のせせらぎ。首筋を撫ぜる緩やかな風。木々の葉が鳴る音――
自身しかいない秘密の地だ。ここならば何も聞こえない。不協和音を奏でる雑音も。それに生じる頭痛も。
「――」
別に本来人嫌いな訳ではない。人嫌いであるのならばあのバ……シスターや子供達のいる教会の世話になるものか。特に育ち盛りのやんちゃな子供達の煩い事煩い事。耳に突き刺さる程に大きなあの旋律達は――
本当に、心地よいのだ。
「――!」
弾くはヴァイオリン。極限の集中に流れ込んでくるのは己が生じさせるその音や。
小さな生き物や草花の穏やかな旋律。
閉じられた瞼。耳だけが今は彼女の世界だ。不協和音の存在しない今この時こそが。
雑音無き、彼女の小さな幸せ――
奏でる音が最高点に達する。弓を、引く。その動作を緩やかに。
零れる音も段々と。微かになりゆき収束して。さすれば。
「……ふぅ」
思わず洩れたのは吐息だ。
集中が切れれば当然、その間に感じていなかった疲労や『世界』が戻って来る。尤も、今この場は己以外誰もいない『世界』だ。目を開けたとて、そこにあるのは自然溢れる秘密の場。雑音など存在しようがない、秘境で。だから――
目を開けたら。
「御見事です」
心臓が弾け掛けた。
「――ふ、ぇ?」
「いや失礼。立ち聞きなどするもりではなかったのですが……」
素っ頓狂な声を出してしまった。なぜならば人がいるなどとは思わず、いや違う。人がいる無しではないのだ。それも驚いた要因ではある、が。それだけならばここまで思考がクリアになったりなどしない。なぜ、何故いるのだ――貴方がここに!
「ゆ、遊楽伯!? え、と、そ、い、つから、こ、に――!」
遊楽伯爵、ガブリエル・ロウ・バルツァーレク。
緑の髪をなびかせた、幻想三大貴族の一角にしてリアの――
いやそこはもはやこの様子を見てもらえれば語るまでもあるまい。
「途中から。
……誠に申し訳ない。本来なら声を掛けるべきだったのでしょうが――あまりにもお美しくて」
「はぅ!? う、つく、し!?」
「ええ本当に――旋律が」
落ち着け心臓ォ! 今ここで死ぬ訳にはいかないんだ!
もはや今反射で喋っている。真っすぐに目も合わせられない。俯きがちに、逸らした視線は小川を見据えている。集中が乱れすぎて偶々そっちに目線が行っているだけで、別に見てる訳でもないが。
いつから『こう』なったのか。始まりはそうではなかった筈だ。
ただ顔が良いだけの道楽男なのだろうと思っていた。それなのにローレットの依頼を通じて知る機会が増えて。ある日、ふと。彼の姿を――
意識せずに、目が追った。
喉が渇く。口の中に唾液が無い。心臓の鼓動だけが世界を満たして。不協和音などどこのその。
「しかし……感心しませんね。このような日も暮れた頃に、女性が一人でいるというのは」
「えっ、あ。いや。そのですね! こ、この辺りは普段誰も来なくて……」
「誰も来ないから、でしょう。不遜な輩に囲まれたら如何するおつもりなのですか?」
気付けば周囲も暗くなり始めていた。まだ明るい時に来た筈だったが、集中し過ぎたか。
遊楽伯の言に怒の感情はない。やんわりと、嗜めている様な優しい旋律だ。それでもリアの焦りと言うか緊張は解けない。普段の口調などどこへやら――しどろもどろに視線は揺れて。出て来る言葉は敬語の波。
「う、う……いや。そ……そう、ですね……申し訳……」
泣きそうだ。別に窘められて悲しい訳ではない。
それなのになぜか涙が溢れそうで、訳の分からない熱が目の奥を満たしていく。
零れ落ちる。『貴方』の為にと用意していた演奏も歌唱も、音楽も。
何一つ。振舞う余裕さえなくて、ああ――
「リアさん?」
それなのにこの一時が愛おしい。
「ぇ、あ。私の名前――」
「ええ。以前……私のパーティにいらしていましたよね? グラオ・クローネの」
背中を見ていた。渡すべき物があって、渡したい物があって。
めかし込んだのだ。それでもあの日、遊楽伯へ並み居る挨拶。貴婦人達と楽しそうに会話するその様子に――ついぞ渡せず。近くの使用人らしき人へ後で渡してほしいと頼んだあの日。
「覚えて、いたんですか?」
会話なんてしなかった。いや、出来なかったのに。
「黒いドレスをお召しになられていましたね。ご挨拶を、と思ったら帰られた後のようでして」
名前は受付帳からでも引っ張ったのか。それでも、それなりの人数がいた筈。
「も、申し訳ありません! あの日は――その――き、急用が出来てしまいまして……!」
「そうでしたか……予期せぬ事態は誰にでもあるもの。ならば仕方ありませんね」
「は、はい! 私、普段は孤児院、というか正確には修道院なんですが、そこの、えとバ、シスターが倒れてしまいまして、どうしても戻らないといけなくて、それで――」
ああ違う違う。こんな言葉を述べたいのではない。それにあの日シスターは倒れていない。大体いつも元気だ。それなのにこんな言葉が出てくるのは――彼に、悪く思われたくないから。思いの強さが口を走らせて。
「それで、その――わた、私は――」
「では一つ。お願いがあるのですが」
そんな焦りが飛び出る中、遊楽伯が口を開く。
もしあの日の事。自らを苛む様に感じているのなら。
「もう一曲。聞かせて頂けませんか――先程の様な、素晴らしい旋律を」
ここを訪れたのは偶然だった。近くを馬車で通った際、ふと耳に入り込んだ『音』があったのだ。
従者を留めて一人で向かい。そうして立ち会えた――『美』が、そこにあるのなら。
「私ので、いいんですか?」
リアは言う。遊楽伯はその身分から、幾千もの『美』に触れている筈だ。
絵も音楽も何もかもに。それでも。
「ええ勿論です」
何故ならば。
「私は」
今宵。
「貴女の音色に触れたいのです」
耳に入る旋律が耳障りだった。心地よいソレなどほんの一握り。
「……では伯爵」
きっと旋律はこれからも。良きも悪きも捉えるのだろう。
「貴方のお時間を少しだけ」
それでもきっと。この瞬間の旋律だけは。二人だけの演奏は――
「……頂戴します」
「ええ……ご存分に」
きっと善いモノであるに違いないから。
深呼吸で息を整え。構えたヴァイオリンから流れるは培い続けた己の全て。
あの日。近い筈なのに遠かった。
手を伸ばせば届いた筈の。
そんな貴方が、ここにいる。
この瞬間は。これから先にも続く、人生のほんの一時の事だとしても。
きっと永遠に忘れる事はないでしょう。
愛しい人。
誰よりも穏やかな色を持つ――
あなたの音色に触れたのだから。