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ココアブラウンに溶ける
登場人物一覧
季節はまだ寒い時分、冷たい風が肌を冷やす頃。
私はアパートの大家さんの部屋に招かれた。
大家さんは家がお隣さんで、私が家の鍵を忘れ寒空の下で震えているところに声を掛けてくれたのだ。
「お茶が入ったんだけど、飲んでいく?」
私の赤くなった手に視線を落とし、次にこちらの顔を覗き込む大家さん。
その表情はこちらを窺うようでもあって。
私が思わずこくこくと頷くと、ほっとしたような顔で微笑んでいた。
大家さん――リウィルディア=エスカ=ノルン(p3p006761)さんはどこかミステリアスな人。会った時はいつも儚げな笑顔で挨拶をしてくれる美人さんだけれど、どこかガードが硬い印象があったりもして。
そんなリウィルディアさんの部屋に上がろうというものだから、柄にもなく緊張したことを覚えている。
●
「ようこそ。手狭だけれどゆっくりしていってね」
部屋に通されれば、そこは温かな色の家具で統一されたお洒落なワンルーム。
すっきりしているし統一感があるけれど、壁に掛けられたカレンダーや机の上のマグカップからは生活感も感じられる。大きな本棚と、そこに所狭しと並べられた沢山の本も目を惹いた。
――素敵なお部屋ですね。
「視覚的に回復しやすいものを取り入れているんだ。君はお茶とホットココアならどちらが好みかな?」
僕はココアにしようかな。そういいながら、リウィルディアさんがマグカップをふたつ手にして私に問うた。
――私もココアでお願いします。
「ふふっ、甘い方がお好みかい。適当にくつろいでいてね」
微笑んでキッチンのコンロと向かい合うリウィルディアさん。
その姿を眺めつつ言われた通りに腰を下ろし、きょろきょろと室内を見渡す。
青緑色の柔らかなクッションに壁にかかったカレンダー、そしてふかふかのソファ。
じろじろ見るのは失礼だろうと思うけれど、ミステリアスな隣人に抱くはやっぱり少しの興味。
そうこうしているうちに鼻をくすぐるのは、チョコレートのような甘いココアの香りだ。
リウィルディアさんがマグカップを二つ持ってソファへと腰を下ろす。
片方を机に置けば、もう一方の若草色のカップを両手で手渡してくれた。
「はい、どうぞ。外は冷えただろう?」
小首を傾げれば灰色の長髪がサラリと流れ。大きな紫水晶の瞳が優しくこちらを見つめる。
そろりと手を伸ばせば、ほわり。先ほどよりずっと甘く匂うココアの香り。
マグカップに触れた指先から伝わるぬくもりは、そわそわ落ち着かない心をじんわり温めてくれて。
――ありがとうございます。
そういって受け取ろうとした、その矢先。
目に入った滑らかな肌に、私の指先が滑った。
優しくこちらを見る表情。その下のつるりとした首元、さらされた肩、そして白い湯気の向こうのーー。
はっと気づいた時にはすでにマグカップは重力に従って落下中。
さながらスローモーションのような一瞬。
すんでのところでマグカップを掴んだ手に熱々のココアがかかる。
思わず顔を顰めると、リウィルディアさんが手元を心配そうにのぞき込んだ。
「大丈夫かい?」
私の手を取り、瞳に真剣な色を滲ませて触れる。
目の前で灰色の髪がサラサラと揺れ、編んだ髪束が腕を撫でて少しくすぐったく感じた。
「ごめんね、熱くてびっくりしちゃったかな? 今手当てをするからね」
救急箱を取りにいく後ろ姿と、ぱたぱた揺れる灰色の長髪を。私はただ惚けたように眺めているのみで。
いやあの、胸元。
ホットココアから立ち上る白い湯気でその実ほとんど見えなかったけれど。
いつも優しげに微笑みつつもガードが硬い印象だったけれど……そう、今は、その……色々とゆるい気がする。服とか。しかもいつもよりずっと。
やはり自分の部屋だとガードもゆるくなるのだろうか?
傍の机に置いたマグカップからは、今もゆらゆら白い湯気が立っている。触れたぬくもりさえも変わりなく。
――湯気さえなければちゃんと見れたのに。
なんて。八つ当たりにも近い呟きを零した。
「何が見れたのかな?」
不思議そうな声が降ってきたのはその瞬間。
びくりと肩が揺れる。
おそるおそる見上げれば、リウィルディアさんが救急箱をもって立っていて。
「それより火傷を見せてよ。ほら、もう赤くなってるじゃないか」
心配そうに言えば、屈みこんで私の手を取りてきぱきと軟膏を塗り始める。
リウィルディアさんのひんやりした手が私の手に触れた。
整った顔に前髪がかかっているのが見え、ツンとした軟膏の匂いが鼻につく。
ぺたぺた。静まり返った室内に軟膏を塗る音だけが耳に触れる。
見惚れているうちに手当てが終わり、リウィルディアさんと私の瞳がカチリと合って微笑んで。
「はい終わったよ。よしよし、痛いの我慢できてえらいね」
ふいに手が伸ばされたかと思えば行き先は私の頭。ぽんぽんと優しく撫でると、甘やかすように髪を梳いた。
するりと髪を通る長い指。にっこりと笑う笑顔に蕩かされる。
――もう子供じゃないのに。
なんだか安心して、ほっとしてしまうのは……なぜだろう。
「もう痛みはないかい? 痛かったらちゃんと言うんだよ」
紫の瞳が気遣うようにこちらを窺う。紡がれる言葉に、こくりと頷いて返した。
●
ふむ、とリウィルディアさんが小さく声を零す。
「ココア、もう冷めてしまったかな。新しく淹れなおそうか」
――まだ全然暖かいから大丈夫です。
マグカップを掴もうとするリウィルディアさんにそう断って、先にカップに手を伸ばした。
触れたマグカップは少しぬるくなっていたけれど、まだぬくいし湯気も立っている。
ココアに口をつけ、こくりと一口。
途端に口に広がるのは優しい甘みと滑らかな舌触り。そして程よい暖かさだ。
どうやら冷めたことでちょうどいい温度になっていたらしい。
――おいしい。
思わず笑んでそう呟いた私に、リウィルディアさんは安心したように笑みを零した。
「よかった。今度は落とさないようにちゃんと持っていて。おかわりしてもいいからね」
そう言ってリウィルディアさんも自分のカップに口を付けた。
伏せた長い睫毛を湯気が撫でる。喉がこくりと鳴って、ほうと息をつくのがわかった。
カップから口を離すと、瞳に何処か嬉しそうな色を滲ませココアの茶色を眺めていて。
じっと見つめていると、やがてこちらの視線に気づいたのか顔を上げる。紫の瞳を不思議そうに瞬かせ。
「どうしたんだい。僕の顔に何かついてるかな?」
――いえ、なんだか嬉しそうだなって。
正直に答えれば、きょとりと何度か瞬きをして……その顔に、照れ臭そうな微笑を浮かべるのだ。
「不思議だよね。こうして誰かと飲むといつもより美味しく感じてさ、嬉しくなるんだよ」
ほら、いつもは部屋で一人だから。そういって笑うリウィルディアさん。
その指先が灰色の髪を掬って耳にかけたものだから、リウィルディアさんの表情がよく見える。
嬉しそうなのに、なぜだか儚く見えたその笑顔に。
――また、遊びに来てもいいですか?
気づけばそう口走っていた。
少し驚いたように見開かれる紫の瞳。
図々しかっただろうか、迷惑だったかも? そう思ったのは一瞬のこと。
ふふっ、と。
小さく声を漏らしてリウィルディアさんは笑った。
笑う声は柔らかく。決して馬鹿にしたわけではないことはわかったけれど、思わず頬を膨らませる。
それを見たリウィルディアさんが更に肩を震わせ、楽しそうな笑みを私に向けた。
「いやごめん。君があまりに緊張した顔をするものだからね、つい」
ごめんごめん、と立ち上がったリウィルディアさんが向かったのは大きな本棚の前。
「君は本を読むかい。どんなお話が好き?」
突然投げかけられた質問に、瞳を瞬かせたのは今度はこちらの方だった。
――冒険小説が好きです。
よくわからないままに答える。
冒険者になって前人未到の迷宮に挑んだり、越えられぬ海を渡る為に巨大な竜と戦ったり。
昔からそういったワクワクする物語が好きだった。
「そうかい。それじゃあこれとこれかな。君に貸すよ」
リウィルディアさんは本棚から何冊か抜き出すと、私の前に置いた。
意図が読めずに目を白黒させる私に、茶目っ気たっぷりに微笑むリウィルディアさん。
「それが読み終わったら返しに来てね。そしたらまた次の本を借りていくと良い」
――いいんですか?
そう聞いたのは、「本を借りること」か、それとも「また訪ねること」なのか。
自分でもわからない質問に、リウィルディアさんは変わらず頷いて答えてくれた。
「もちろん。だから遠慮せずにいつでもおいで。歓迎するよ」
君はいい子だね。そう言って笑うリウィルディアさんの瞳はとても優しい。
「いい子」といわれるのは、リウィルディアさんの肌を見てカップを落としかけた身としては少しむず痒く感じるのだが。
けれど私の中で「不思議な雰囲気をまとう美人の大家さん」だった印象が、少しずつ「リウィルディアさん」という個人の形を成してゆく。
隣に座り直してココアを啜るリウィルディアさんの口元がゆるゆると緩んで。
「美味しいね」
ふわりといちど、呟いた。
●
カチ、コチ。カチ、コチ。
針の進む小さな音につられるように、私の視線が時計へと向く。
リウィルディアさんも同時に時計を確認したのか、ことりとマグカップを机に置いた。
「あと少しで帰る時間かい。長く付き合ってもらってすまないね」
とんでもない。ふるふると首を横に振ると、「そうかい」とリウィルディアさんは笑んで答えた。
カップを傾けココアを飲み干す。底に沈んだ味の濃いところも含めてぜんぶ。
体がぽかぽか温まって、零れるあくび。
それを見たリウィルディアさんはふっとまた笑みを浮かべた。
「少し眠るといい。寝不足はよくないからね」
そうはいっても残り時間はあと少しだ。
ためらう私に、リウィルディアさんはぽんぽんと自らの膝を叩く。
「時間になったら起こしてあげるよ。ほら、子供はたくさん寝るのが仕事さ」
ぽすり。誘われるままに膝に頭を預ければ、ひんやりとした手がまた髪を撫でる。
撫でて、髪を梳いてはまた撫でる。
撫でられるのは今日で何度目だろう。本当に世話好きで、おまけに甘やかすのが上手な人だ。
ふわりと。リウィルディアさんからも、甘くて暖かいホットココアの匂いがした。
すぐにうとうとと瞼の帳が下りてくる。
「うん、いい子だ。子守歌は歌わなくて大丈夫そうかな?」
笑みを含んで囁かれる声がぼんやりと聴こえた。睡眠欲には抗えない。
暗い瞼の裏で、リウィルディアさんの声を聴いた。
「おやすみ、良い夢をね」
そう囁いた表情は見えなかったけれど。
きっと愛情深い、優しい顔をしていたと思う。
甘やかすのが上手で温かくて。
まるでホットココアのようなあなたの膝の上。
安らぎの中で眠りに落ちてゆく。
濃い色のココアを残したリウィルディアのマグカップから、白い湯気が立ち上る。
秘密めいて笑うようにゆらゆらと。
優しく穏やかなひとときを見守るように揺らいでいた。