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きっと永遠に壊れない
登場人物一覧
●夜明けが朝より遠い星
新西暦1022年。人類文明は究極に満たされていた。
やく10世紀ほど前にこの世界の神がその職務を手放し、世界の管理を人類文明へとゆだねる文字通り世紀の事変が起きた。
星にそんざいする草花も蝶も牛や豚や魚や空飛ぶ鳥も、そして雲も山も大いなる海も浮かぶ星のまたたきでさえも、全てが人類を中心に動くことを決め、それらを司る全ての神々と精霊はマインドを放棄しきわめて純粋なエネルギー伝達装置と化した。
世界という機構が、神々という歯車をもって人類のために完成した時代……『新西暦』である。
人々はあらゆるエネルギー資源に恵まれ、絶えず自動供給される祝福によりストレスやフラストレーションを一切感じること無く、ただただ毎日笑顔で暮らしていた。
差別、戦争、飢餓、主義主張による諍い。人類に蔓延していた全てのトラブルは解決し、労働からも解放された人類は毎日チートコードを打ち込んだテレビゲームのごとく悠々自適な毎日が約束される。
それゆえ誰も神の存在を意識しなくなり、神が『何者か』であったことすらも忘れるようになっていった。
「例えるなら空気だ」
ウェスタンハットに革のジャケットを纏った恰幅のいい男が、バーボンの瓶を片手に歌うように述べた。
深く蓄えた口ひげを潜るように、瓶の中身をラッパ飲みしていく。
「俺たちは空気を吸って生きている。これがなくちゃあ死んじまう。
けどどうだ。空気さんありがとうなんて言ったことがあるか?」
「生物は『いただきます』って言うんでしょう」
「習慣さ。誰に言ってるわけでもない」
へべれけによっぱらった男は笑って、向かいのスチール階段に腰掛けた女に笑いかけた。
淡い光をはなつ四枚の翼をそなえた、白髪の女であった。
どこにでもいるような、ハイスクールの女学生めいた格好をした彼女は、男に出会うなりリジアと名乗った。
「なあリジア。あんたが本当に天使サマだったとしても、誰もそのことに感謝をしない。当たり前にありすぎて、ありがたみすら忘れたのさ」
「あなたは違うの?」
「俺だって覚えちゃいないさ。なにせ先年も前に終わったことだしな。生まれた頃からなかったモンだ。アンタもそうだろう? 生まれたときから……あー」
男は宙に視線をさまよわせてから、もう一度リジアを見た。
「アンタ何歳だ」
「さあ……数え始めてから、100とちょっと、かな」
「少なくとも俺よりは長生きだな。とにかく、アンタにとっても最初からなかったんだろう? 信仰だとか、宗教だとか、そういうモンは」
「そう……うん。概念だけは知ってるけど、聞いたことは、ないよ」
ため息をついて、小さく首を振る。
「なあリジア。あんたに会えてよかったよ。天使サマってえのはみんなアンタみたいに話の分かるクールなやつなのかい」
「そんなわけ……」
リジアはその時になってようやく、自嘲するように顔をしかめた。
「私は、半端者(なりそこない)の天使だよ」
破壊の天使リジア。
世界において物体に定められた寿命を計測し、正しい時間に破壊する。
それがリジアのつとめであった。
朝の天使が毎日決まった時刻に朝を迎えるように、愛の天使が万人に定められた量の愛を胸に抱かせるように、リジアも『なるようになる』世界の中でルール通りに働き続ける。それが定めであると思っていた。
始まりはいつだっただろうか。
妻に先立たれた老人が、形見の懐中時計をどうか止めないでくれとありもしない天に祈った時であったろうか。
それとも幼い少年が病床の母に届ける花をどうか枯れないでと知りもしない神に祈った時だろうか。
リジアには意識が芽生え、自我が生まれ、感情が育ち、知恵がついた。
まるで長い眠りから突然覚めたように、深く深く息を吸ったことだけを覚えている。
それから彼女はいつも振り回されっぱなしだ。
壊れるべき時に壊す。それが彼女の役割であるはずなのに、それを大事にする者の心や、背景や、込められた想いを知るたびに壊すことが出来ず、ついつい先送りにしてしまうのだった。
かと思えば悪辣な人間の有様に心を乱し、まだ壊れなくてもよいものを過剰に壊してしまったり、本来起こすべきで無い規模の破壊を実行してしまったりしていた。
「私は、半端な天使だ……」
もう一度呟く。
酔っ払いの男にはもう聞こえてないようだ。ときたまああして意識のもうろうとした者が自分の存在を認識することがあるが、朝靄の中に見えた幻のように些細な偶然。暫くすれば消えてしまう認識である。きっと翌朝、おかしな夢でも見たとだけ思ってすぐに忘れることだろう。
リジアは空に溶けるように、世界のカーテンの向こう側に消えた。
いつ頃のことだろう。
リジアが沈み行く夕焼けの茜色に混じって、赤煉瓦が並ぶ町並みの中を漂っていた頃の頃。
かすむ世界のカーテンの向こう側から、少年の祈りが聞こえた気がした。
この世界でまだ『祈り』なんてものをする人間がいるとは。リジアが珍しく思って空間に顕現してみると、驚いたような顔の少年が墓地に立っていた。
手には金色の懐中時計。
それに見覚えがある気がして『君は?』と口を開きかけた、そのとき。
「あなたが、天使さまですね」
と、少年が言った。
手にした懐中時計を開き、リジアへと差し出してくる。
とても古く、あちこちに傷が付いていたが、しかし未だに狂うこと無く針が動き続けていた。
「これは曾祖父から受け継いだものです。元々は曾祖父のものでしたが、形見に残した時に天使が特別な祝福をくれたと」
「…………」
何も言えずにいるリジアに、少年は続けた。
「それからずっと、僕の家にはこの時計が伝わっています。
一度もねじを巻かないのに、ずっと動き続ける時計。忘れ去られたものを、覚えておくための奇跡だと」
「覚えておく、ため……」
「『形あるものはいつか壊れ、生物もいつか死ぬ。けれど、想いと心を伝えていったなら、それはきっと壊れない』……あなたの言葉です」
少年は時計を裏返して、そこに刻まれた言葉をリジアへ見せた。
リジアは言葉を指でなぞり、記憶のどこかにしまっていたものを思い出した。
「いろいろあって、僕らは家を離れることになりました。だからこの時計も手放さなくちゃ。けど、もし手放すなら、『あなた』に渡したいと思っていました」
「私、に……? なんで……」
「想いはきっと、壊れないから」
リジアの手を取って、少年は懐中時計を握らせた。
「僕たちはずっと覚えています。この世界にあなたがいたこと。あなたが特別にしてくれたこと。その意味を……感謝を」
リジアの手の中で懐中時計が時を刻む。
「……そうか。ありがとう。なら、私も覚えておくよ。あの時の『祈り』を」
世界のカーテンが閉じていく。
夕暮れ時の茜色が町を舐めていって、夜のとばりが下りていく。
消えゆくリジアは薄く笑い、そして少年に手を振った。
「きっと永遠に、壊れない」
リジアが混沌世界に召喚されたのは、この翌年のことと、されている。