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絢爛の夜に咲く
登場人物一覧
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ヴァイオリン四重奏が始まった。
聖アゼエゲイス派の教徒であることを示す茨輪と十字と御子の巨大な水晶像が、部屋の中央でシャンデリアの光を浴びている。着飾った人々がグラスや食器を片手に方々に立ち、優雅に談笑していた。
天義の有力貴族が開催した夜会だ。
本来はただの食事会だったのだが、直前で事情が変わった。
「おお……」
歓喜とも緊張ともつかない声を上げたのは、誰だったか。
全員の視線が、遅れてやってきた二人組に集まる。楽士たちは思わず手をとめていた。
この夜会の主役は御子像でも信仰でも主催の貴族でもその娘でもない。
いかなる会であってもほとんど不参加の返事をしてくる『かの家』の、当人たちを皆が待っていた。
「遅くなりまして、申しわけありません」
二人組のうちの片割れ、端正な顔立ちの青年が非礼を詫びる。隣に立つ女性も洗練された仕草で一礼した。
精悍な男が秀麗な眉を下げただけで、ドレス姿の淑女たちは憂いの息をつく。夜会服の男たちは女性に釘づけだった。
名前と存在は有名だが、実物を目にした者はあまりいなかったのだ。
「とんでもない。ようこそ」
主催の貴族は掠れた声を咳払いで誤魔化す。
「ようこそ、アークライト卿。ポテト夫人」
夜会とはすなわち社交の場だ。
自らの富と権力と信仰がどれほどのものか、他の貴族に示し牽制する場であり、『正義のための潔白なる策謀』が飛び交う場でもある。
主催の男はリゲル夫婦が参加すると知った瞬間、ただの夜会を豪奢な食事会に変えた。
リゲル・アークライト。
天義貴族、アークライト家の現当主。騎士の家系の末。
月光事件の解決に尽力しただけでなく、『コンフィズリーの不正義の真実を白日の下に晒すことに多大に貢献した』ことも、まだ記憶に新しい。
天義の貴族の誉れである騎士らしく、高潔で凛とした青年。なおかつローレットのイレギュラーズとして世界中を飛び回り、強敵に立ち向かう『正義』の者。
となれば。
他の貴族たちとしては大いに取り入りたい。
政略結婚を粛々と狙っていた者も少なくないのだが、現在その道は完全に断たれた。つまり正攻法、真正面から後見人に立候補するなり強い縁故を結ぶしかないのだ。
だというのに、リゲルもポテトも多忙を理由にめったに社交界に顔を見せない。母君であるルビアはさすがに慣れており、あの手この手で貴族らの思惑をかわす。
間違いなく、今日は逃すわけにはいかない好機――だったのだが。
「誰だ、あの若造を言いくるめて後見人になんて言い出したのは」
「あの話術、いったいどこで……」
「父、いや母譲りか」
「各国の情勢どころか我々の事情まで知っているぞ、あれは」
「我が騎士団に入れておきたいが……」
リゲルを囲む人垣から出てきた貴族たちが、打ちひしがれた顔でシャンパンを喉に流しこむ。
敗者の数は時計の針が進むにつれて増えていく。
その中心でリゲルは爽やかな笑顔と穏やかな口調を崩すことなく、細長いグラスを片手に舌戦を繰り広げていた。
当主や当主夫人、当主代理といった面々の興味がリゲルに集中する一方、令嬢や子息たちはポテトとの距離をじりじりと詰めていた。
とくに令嬢たちにとってポテトは、『私がいつか結ばれたかったリゲル様の妻』だ。
社交界にめったに姿を現さないリゲルだが、その活躍とたまに天義で見られる彼に熱を上げる娘は多くいた。
その彼があろうことか結婚。久しぶりに夜会にきたと思ったら、妻と色を揃えた服装ときた。挙句、悔しいことにその妻というのがまた綺麗な顔立ちをしている。
「で? どこのお家柄で? 幻想?」
「聞いてきてくださいな」
「貴女が行ってよ」
扇の裏で令嬢たちが囁きあう。
一挙一動が申し分ないのだ、まさか平民の出ではないだろう、というのが全体の意見だった。
「あ、あの、ごきげんよ……っ、きゃぁっ」
ついに偵察役としてひとりの娘がさり気なく押し出されたものの、緊張のために足がもつれるが、
「ん」
素早く動いたポテトがしっかりと抱きとめた。
「怪我はありませんか?」
「は、はい」
「よかった」
ふっとポテトが微笑む。
言葉にならない声を上げ、娘の顔が赤くなった。
途端にさざめき出した周囲に、なにか間違えただろうかとポテトは狼狽える。
楽士が空気を読んだのか、それともそういうタイミングだったのか、ヴァイオリン四重奏が他の楽器も混ぜた舞踏曲に変わった。
「ポテト」
自然と人が割れてできた道を堂々と歩いてきたリゲルが、まだ困惑しているポテトの前に立つ。
「私と踊っていただけませんか?」
「喜んで」
差し出された手に、口許に安堵をにじませたポテトはレースの手袋に包まれた指先を触れさせた。
「不覚にもドキッとしましたわ」
「あれが……高名な騎士家の妻……」
「貴女たち、あそこに立てます?」
「無理をおっしゃらないで」
曲にあわせ、優美に踊る二人に貴族たちの視線が吸い寄せられる。
水晶像が霞んで見えるほどに、アークライト卿とその夫人は輝いていた。
●
アークライト家の家紋が入った馬車が走り出す。
カーテンを閉めてからポテトはぐったりした。
「つかれた」
「本当にお疲れ様。よく頑張ったね、ポテト」
「リゲルも、お疲れ様」
安心させるようにリゲルが笑み、ポテトの手を握る。
「少し眠っていいよ」
「……ありがとう」
夫の言葉に甘え、ポテトは彼の肩にもたれた。
「うまく、ふるまえていたか?」
疲労と馬車の揺れがもたらす眠気に呑まれながら、ポテトが舌足らずに問う。リゲルは大きく頷いた。
「完璧だった」
「よかった」
夫を支えたいのなら、妻が社交界で軽んじられてはならない。
天義の騎士家に嫁いだポテトは、ルビアから淑女としての振る舞いを学んでいた。今日はその試験をするために夜会に出席したのだ。
「リゲルはさすがになれていた」
「はは、綱渡りの心理戦だったよ」
苦笑したリゲルが四時間に渡って気を張り続けた妻の髪を撫でる。
家に帰ってドレスを脱ぎ、楽な格好に着替えて、ようやくポテトは完全に肩の力を抜いた。
同じく夜会服から私服に戻ったリゲルが両腕を広げる。
意を汲んだポテトがそこに飛びこんだ。
抱きついてきた妻を、夫は優しく抱き締める。
「うぁぁ」
「明日はゆっくり休もう」
頷きつつ、ポテトは深く息を吸う。一度目の呼気には体内の疲労が、二度目には緊張の残滓が溶けこんでいた。
「夜会はどうだった?」
「人だかりだった。料理の味は覚えていない」
後半は特に人垣から抜け出せなくなっていたポテトが、虚ろな声で答える。リゲルは笑いながら同意した。
「大人気だったね」
「茶会に招かれすぎて、誰に招かれたか覚えていない……」
「招待状が届くから大丈夫だよ。ところで、ポテト」
若き騎士の手に少し力が入る。
「また一緒に行ってくれるかな?」
「当然だ。リゲルが行くなら私も行く」
青い双眸に安堵が広がる。伝えるべきか逡巡してから、ポテトは口を開いた。
「今回は戦場とはまた違う格好良さのリゲルを見られたからな」
「そうかい? ポテトもとても綺麗だったよ」
「……むぅ。私ばかりが照れていないか?」
「まさか」
唇を尖らせるポテトの額に口づけてから、リゲルは愛しい貴婦人を軽々と抱きあげた。
「ベッドまでお運びいたします」
「頼んだ」
飾った口振りの当主に、ポテトが鷹揚に顎を引く。二人でくすくすと笑いながら部屋を横切った。