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潮騒
登場人物一覧
あれほど賑やかな港の喧騒も、こうして少し離れた途端、すっかりなりを潜めてしまう。今日も、どこぞの商船が戻ってきたらしかった。港は船乗りたちの無事の帰還を喜んで、彼らの収穫物の取引のために活気に満ちていたが、今の『幸運と勇気』プラック・クラケーン(p3p006804)にとってはどこか遠くの世界の出来事だ。
何の気なしに堤防に身を預け、その上に頬杖を突いて海を見る。水平線で2つに分けられた世界を彩るものは、寄せては返す波の音だけ。
……ふと、近くで人の声が聞こえた。
思わずそちらのほうを振り返ってみれば、顔を綻ばせて両腕を広げる日焼けした男と、その腕の中に飛び込んでゆく少年の姿。母親らしき女性がひとり、それを可笑しげな様子で眺めている――。
――ついぞあの男はプラックに、睦まじい思い出など残さずじまいだった。
「自分ばかり好き放題しやがって……」
家族より、仲間より、義兄弟を選んで魔種として世界に仇なすことを選んだ父『蛸髭』オクト(p3p000658)への悪態を、幸せを噛み締めている最中の家族らには聞こえぬように吐く。水平線のさらに先を探すかのように、遠いどこかに目を遣りながら……プラックの脳裏には、幼いあの日の出来事が思い返されていた。
久々に家に“やって来た”父の両腕は、見たこともないようなお宝でいっぱいだった。
「この髪飾りは、大昔に滅んだ王国のものだっていう財宝に混ざってたやつだ! かかかっ、もしかしたら姫様がつけてたものかもしれねぇな!」
「ようプラック。母ちゃんの言うことはよく聞いてたか?
……よーしいい子だ。褒美に、お前にはこのおもちゃをやろう。後ろの紐を引っ張ってみろ……タコの足がうねうね動くんだ。どうだ、きっと楽しいぞ?」
いいや、思えばあの頃はあの男もこの町の船乗り一家のように、父親らしくしていた時期があったのかもしれない。そう今のプラックは思い直す……あのタコ人形は当時の彼から見ても子供騙しの代物だったけれども、確かにあの瞬間は、滅多に船旅から帰って来ぬ父の、特別な息子への特別な贈り物だと信じたのだから。
もっとも……そのことを改めて思い出したなら、そんな全能感にも似た誇りと喜びが、直後には他ならぬ父自身の手によって、すっかり台無しにされてしまったことまで思い出すのだが。
「おお、動いた動いた! かかっ、まるでお前の髭みてぇな動きをしてやがる」
そう言って顎の蛸の触腕をこりこりと触ってくるオクトのことを、どうにもプラックは好きになれなかった。
父には、海賊船長らしい立派なもじゃもじゃの髭。
片や自分には、お粗末なちょろちょろと数本ばかり生える髭。
オクトは息子の髭を弄ることも父子のスキンシップの一環だと信じていたに違いないのだが、実際は我が子に言いようのない恥ずかしさと、不快な痛みを与えるばかりだ。
喉の奥で息が詰まる。全身の筋肉が強張って、肺の中の空気が押し固まってゆく。そうして溜め込んだ力を片足の爪先に全て集中させて、プラックは思いっきり父の脛を蹴り上げる!
「かかかっ! 元気でいいが、そんな蹴りじゃ痛くも痒くもねぇな!」
蛸海賊は一瞬びっくりして目をぎょろりと見開いたものの、すぐにいつもの厳めしい、けれどもどことない親しみやすさを漂わせる父の姿へと戻った。けれども、オクトがそうやって“強い父親”として振る舞ってみせるたび、プラックにはどうにも自分のことが認められていない、馬鹿にされているという気分に襲われるのだ。
おのずと、足が家の外を向く。
はっと呑んだような母の息遣い。
「おい、どこ行くつもりだ」
叱責するオクトの声。それらを振り切るようにプラックは家の外へと駆け出してゆく。少しでも、父から遠くに離れるために……。
近くを掠めて飛んだカモメの鳴き声が、唐突に現在のプラックを思い出から引き戻すのだった。
件の親子はいつしか仲良く、家路を辿りはじめたところだ。土産話をせびる息子の声が弾んで、さてどこから話そうかと勿体ぶる父の様子に、母はやっぱり可笑しそうに笑う。
プラックの思索が今の時間に戻ってきたときには、息子の手の中には、舶来もののおもちゃが握られていた。……そういえば、あの日貰ったタコのおもちゃは、今はどうしていたんだったっけ? しばらくその所在を記憶から呼び覚まそうとしているうちに、プラックはあの時、どうして父にあのおもちゃを投げつけなかったんだろうかと首を捻るのだ。
自分の髭を馬鹿にした父と、そのきっかけとなったあのおもちゃ。今となればそれが八つ当たりにすぎないと理解はするが、当時の自分がそんな大人びた思考をできていたとは、当のプラック自身も思いはしない。
(結局、あの後はずっと握り締めつづけちまった)
親子はいつしか視界から消えてしまったが、彼はもうしばらくの間こうして頬杖を突きながら、その後のことに思いを馳せつづけることにした。
見知らぬ人々がゆき交いつづける港町。それは、あの日のプラックも強く感じた印象だった――。
「あの野郎、一体どこまで行っちまうつもりだ」
頭を抑えて悪態を吐く父の姿を物陰から見つけるたびに、幼いプラックは盗っ人のように物陰で息を潜めながら次の潜伏先を探すのだった。
手の中のタコのおもちゃを、幾度捨てようと思ったかはわからない。けれども、それが父に見つかり自分の居場所がバレることを恐れて――あるいはその他の何らかの感情により――、今も手放せないでいる。
そんな自分がみじめで、悲しくて、足はおのずと遠くへ向かってしまう。隅々まで知っていると思っていたつもりの町も、普段は通らない路地を入れば、全くの異国の地へと変わるかのようだった……それが心地よい。ここならさしものオクトも追ってはこれぬだろうし、自分のことを知らない住民たちが相手なら、生き残るためにどんな手段を講じることもできそうだと考えたからだ。
……だというのに彼のそんな希望を、オクトは簡単に踏みにじってくる。見知らぬ町の路地の向こうに、蛸髭を生やした海賊のコートが覗く。もっと逃げなくちゃ……そう思って別の路地に飛び込んだとき、けれども幼いプラックは、自分がどれほど愚かであったのかを自覚するのだ。
(結局、あの頃の俺は自分の町のことも知らねぇガキだったんだよな)
知らないはずの町の知らないはずの路地を抜け、よく知る通りに出た時の愕然とした気持ち。プラックはその時遣り場のない怒りを父に向けたことを憶えてはいるが、あれはいくら憎らしい父とはいえ酷いとばっちりに違いない、と今のプラックは苦笑する。
でも……幼子にそんな理屈は通用しない。あの時は全てが父の企みであるようにしか思えなくって……そしてあの事件が起こったんだったっけ。
(そうだ。危険だから絶対に近付くなって言われてる、あの路地の先に行こう)
あばら屋ばかりが建ち並び、浮浪者がごろ寝するスラムの光景は、当時のプラックにとってどれほど魅力的に見えたことだろう。迷い込んだ余所者に対する敵対的な視線。それすらも彼には頼もしく見える……これほど敵意に満ちた人々に囲まれたなら、あの憎き父とて退散せざるを得ないに違いない!
そんな意気揚々とした彼の態度は、たちどころにスラムの“用心棒”たちを呼び寄せるのだ。
「おいガキ。こんなところに何の用だ」
プラックは、それに対して答えなかった。答えられるはずもない……だって、どうして嫌いな父から逃げてきたなんて、そんな恥ずかしいことが言えるのだろう!
だから彼らの質問に答える代わりに、父にしたように思いっきり彼らの脛を蹴飛ばしてやる。用心棒たちの形相が変わる。せっかく血の気の多い住民に襲われる前に追い返そうとしてやったのに、自分からその幸運をふいにしやがって――!
……その後どれだけ殴る蹴るされたのか、今のプラックはさっぱり憶えていない。ただ、このままでは殺されると恐怖して、何度も父に助けを求めようとして、その度に唇を噛んで悲鳴を殺したことだけは間違いがない――なのに、何故?
「……よう。お前ら、何をしてやがるんだ?」
その声がスラムに響いた途端、空気ががらりと変わったのを幼いプラックも感じ取るほどだった。
絶対にこの場に現れぬはずの父。たとえ死んでも助けてもらいたくなかったオクトがそこにいる。鞘に入れたままの曲剣を肩に担いで、禍々しい眼光にて用心棒たちを睨めつけている!
「おっさんにゃ関係ねえよ!!」
用心棒のひとりが食ってかかったが、その足元がふわりと浮かび、次の瞬間には路地脇のゴミ溜めに頭から突っ込んでいた。今度は2人がかり……まとめて鞘で薙ぎ払われて、尻餅を突いてぽかんとする羽目になる。
「……よし。帰るぞ」
まるっきり動けなくなってしまった残りの用心棒の目の前でプラックを助け起こしたオクトの背中はいつもどおりで、何か大したことをした後のようにはプラックには見えなかった。
「別に……助けろとは言ってなかったろ」
強がって、ついてゆこうとはしなかったプラック……オクトは、そうか、とも、うるさい、とも答えはしない。ただ足を止めては振り返り、もう一度プラックの元へとやって来る。
目許を綻ばせ、わしゃわしゃと頭を撫でる手は、はたしてどれほど大きかっただろう。プラックはあれからすっかり大きくなってしまって、記憶の中の手と今のオクトの手を実際に比べても、全く一致などしてくれまい。けれども自分でああ言った癖に、あの時の父の感触は今もプラックの中に残りつづけている。
ようやく彼は頬杖をやめ、元々歩いていた道を歩きはじめた。
寄せては返す波音は、変わらず港町の風景に横たわっていた。