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吸血鬼は甘い牙を持つ
登場人物一覧
吸血鬼は薄い唇を三日月のように開き、尖った牙を見せながら嬉しそうに笑う。憂いを帯びた深紅の瞳、青白い肌、やや尖った耳、上品に纏った外套を揺らし、痩型の男を追い回している。吸血鬼の上空で蠢き、揺れ動くのは無数の蝙蝠。獲物はというと、どたばたとあらゆる物を倒し、捕まらんとばかりに、闇を掻き、凄まじい形相で走る。吸血鬼は静かに笑う。獲物は蒼ざめ、震え、息を浅く吐き出したと思えば、あっという間に身体を反転させた。
「おやおや」
吸血鬼は眉を寄せ、立ち止まる。獲物は石につまずき、無様に倒れたのだ。
「君はいつも、石ころを蹴飛ばしていたのだろう?」
吸血鬼は獲物を見下ろす。男の顔は月光に触れ、白く透き通り、不思議そうに吸血鬼を見つめている。案の定、それからの記憶は男にはない。男は殺戮の果てに、地獄だか天国だか分からない、場所に消えていった。吸血鬼は、白目を剥き、四肢を投げ出している男を一瞥し、頬に跳ねた、赤い蜜を指で拭い、口に含んだ。
何度も名前を呼ばれた気がしたんだ──
吸血鬼はハッとする。室内はめちゃくちゃだ。足元には真っ赤に染まった女が横たわる。
「アンジェリカ!」
吸血鬼は叫ぶ。全身から冷たい汗が零れ始めた。ひゅうと喉が鳴る。
「ああ、面白い……」
悪魔は半狂乱になった吸血鬼をじっと見つめ、濡れた舌を突きだし、嘲笑する。女の目は大きく見開かれ、既に死んでいることが分かる。吸血鬼は狼狽え、叫びながら、女を揺さぶり続ける。
「ふふふ。ねぇ、彼女、とっても美味しそうね? 甘い匂いがするわ。残したら勿体無いんじゃあないかしら……?」
悪魔は楽しそうに、吸血鬼の耳元で囁く。
「それに、知ってた? 彼女、■■していたのね」
その言葉に、吸血鬼は獣のように吠え狂い、悪魔はけらけらと笑う。
銀(p3p005055)は切れ長の瞳を細める。何気なく、立ち寄った町で吸血鬼はマドレーヌを齧る。濃厚なバターの香りとはちみつ。それに、レモンの皮。
「……美味いな」
身体が覚え、愛したモノは永遠に消えることはないのだと銀は思う。菓子。そんなものは好きでは無かった。
「わたしの体も機械になれば……メンテナンスし続ける限りずっと生きられるんじゃないかしら……?」
鮮明に聞こえる声。銀は目を瞑り、「……硬くて冷たいのは俺だけで充分じゃないかね」と、あの頃のように呟く。
揺れる、三つ編みのおさげ髪。控えめで少し内気な少女は吸血鬼を見上げ、困ったような笑みを浮かべる。吸血鬼は眉根を寄せる。
「どうして、俺がそんなものを作らないといけないんだ?」
吸血鬼は鼻で笑う。言葉をしっかり交わしたのは今日が初めてだった。それなのに、少女は吸血鬼を菓子作りに誘ったのだ。
「……」
吸血鬼は溜め息を吐き、外套をすぐに翻す。名前も知らぬ、顔見知りの少女を吸血鬼は使用人か、非常食程度に思っていた。
それなのに──
「何故、何度も誘うのかね?」
目の前には少女が立っている。
「うん?」
吸血鬼は僅かに目を見開いた、少女が作ったドーナツを吸血鬼に手渡したのだ。
「……」
吸血鬼はうんざりしながら、ドーナツを少しだけ齧った。不味ければ、不味い。そう、言うつもりだった。少女は見上げ、その様子をそっと見つめている。吸血鬼は口元の粉砂糖を指で拭い、少女の目をしっかりと見た。瞳が緊張で揺れている。
「……食べれなくもない」
吸血鬼はふっと笑う。途端に、少女がころころと笑う。
「なぁ、これをいつ入れるんだ?」
吸血鬼は長い髪を縛り、少女の横に立つ。吸血鬼は小麦粉の袋をそわそわと持っている。吸血鬼は少女に誘われ、いつの間にか、菓子作りに付き合うようになっていた。吸血鬼は彼女のことを少しずつ、知っていった。特技は機械修理で、恋愛小説やお芝居に憧れる乙女チックな趣味を持つこと、ふわふわの子猫など可愛いものを愛で、虫には悲鳴を上げること。珍しい鳥を見に夜をともに歩き、ぱっと飛び出してきた蝶に怯え、腕にしがみついてきたりもした。雨の日に見つけた子犬を懸命に看病し、恋愛小説のような恋がしたいと夢見ていたこと。親しくなるにつれ、吸血鬼は少女との時間を愛し始めていた。名前を呼ばれ、感情を向けられる度に、吸血鬼の心は穏やかになった。それは少女もまた、同じ心持ちだったのだろう。彼らは少しずつ、近づき、やがて、温かな愛に辿り着く。吸血鬼の左手薬指には紫水晶の指輪がはめられている。吸血鬼は指輪を無意識に眺め、少女にからかわれることもあった。彼女は吸血鬼の味覚すら変え、彼らは儚い日々を静かに愛し、ともに生きていた。
季節は巡り、とある夏の夜。銀はアンジェリカの様子がいつもと異なることに気がついた。テーブルには、アンジェリカが作ったマフィンと、銀が淹れた紅茶があった。
「どうしたのかね? いつもと様子が違うようだが……」
銀が心配そうに目を細めた。アンジェリカは銀の言葉に目を見開きながら、すぐに愛おしそうに銀を見つめ、口を開き、ハッとする。ドアが激しく叩かれたのだ。
「なんだ……?」
立ち上がる銀。瞬時にドアが勝手に開き、そこには悪魔が立っていた。
「うふふ、ごきげんよう」
悪魔は身を捻り、銀の肩口を一気に引き裂いた。見開かれる瞳、舞い上がる体液。裂けていく服の隙間から、水飛沫のように赤が吹く。アンジェリカは悲鳴を上げ、銀は肩を押さえ、隠れるようにと怒鳴り、外套を翻し、悪魔に飛びかかった。
「え? あら、遅いわね」
悪魔は笑いながら、銀をはね除け、震えるアンジェリカの顎先に触れる。
「止めろ! 彼女に触るんじゃない!!」
「……? どうして、そんなに怒っているの?」
悪魔は、唇を艶やかに歪ませ、「ね、彼女は家畜でしょう? そろそろ、食べ頃じゃあないかしら? ああ、そうね。一緒に味わってみるのもいいかもしれないわ」とアンジェリカの唇をじっくりと舐めた。その瞬間、銀は唸り、悪魔に襲いかかった。
吸血鬼は笑う。
「ああ、そんなものかね?」
血の音が小気味よい。悪魔は悲鳴を上げ、銀の名を何度も呼ぶ。聞き覚えのある声。
それでも──
吸血鬼は──
傲慢に、嘲笑うかのように悪魔を切り刻んでいく。吸血鬼は見下ろし、喘ぐ。血に沈む悪魔。吸血鬼は息を吐き、愛する者を見つめる。目が合った瞬間、愛する者は「ねぇ、それはだぁれ? 貴方は誰を殺したのかしら」と笑った。吸血鬼は瞬きを一つ。堕ちていく、嫌な音が聞こえる。不気味な笑い声。愛しい人はすぐに悪魔へと変わる。耳鳴りがする。
悪魔が見せた、残酷な幻。吸血鬼は震え、息をぐっと詰まらせながら、崩れ落ちるかのように、汚れた両手を伸ばし、妻を抱き締める。温かく濡れた身体は既に肉塊となり、甘い香りが吸血鬼の心を乱す。何もかも壊れていく。そして、悪魔は告げたのだ、彼女が妊娠をしていたことを。
銀は目を開ける。マドレーヌは消え、甘さだけが口内に残る。顔を傾け、古びた銀色の指輪を見つめ、「……約束……したよな……? 君が何度生まれ変わっても必ず見つけて会いに行く……迎えに行くと。こちらの世界に輪廻転生の思想があるのかなんて知らない。再会したとて、あのときと同じように愛してもらえるとも思っていない。それでも……また会えると、信じている」
目を細め、指輪にそっと口づけた。柔らかな風が美しい髪と外套を揺らす。