SS詳細
原初の記憶
登場人物一覧
●はじまり
『孤兎』コゼット(p3p002755)という少女が生まれたのは、とある幻想貴族の下である。
母と呼ばれる者はその貴族の下で侍女をしていた女だ。
貴族に仕え日々の世話をする。特徴のない女――いや、あるとすればブルーブラッドたるを象徴する長い耳か。
女が何かをしたわけではない。だが、その小柄な体躯ながらに男の目を奪う肢体は貴族の火遊びを誘引するものだった。
果たして、女は侍女と言う立場にありながら、貴族の娘を孕む。それが、コゼットだ。
「立場は良い訳ではないけれど――」
けれど――生まれてきてくれてありがとう。
はじまりは確かに穏やかだったはずなのだ。
母は侍女から側室へと立場を変えた。環境は一変し、生活は実りあるものへと変わるはずだった。
しかし、人の嫉妬と言う者は斯くも暴威を持つ者である。
ある日、正室から母は呼び出された。幼きコゼットを抱いたまま、立たされ、睨まれる。
「なんて、女なのでしょう。
侍女という立場にありながら夫を誑かし、子を孕むだなんて!」
元を正せば貴族からの誘いであり、立場上断ることのできない母だ。そんなつもりはないと弁明しようと口を開くが――
「黙りなさい!! この女狐が!! いえ、ウサギだったかしら? ふん、男を誘惑し繁殖することしか頭にない小動物らしいわ。
よく覚えておきなさい。アナタには何も権利も財産も、ありはしないのですからね!!」
怒りの形相、悪魔の面相。
理不尽な正室の怨嗟は、その日からただの一度も漏れることなく続いた。
「大丈夫……大丈夫だからね」
そう繰り返しながらコゼットに乳を与える母は、一滴涙を零した。
取り巻く環境の変化はそれだけに留まらない。
母と共に生活していた侍女の仲間達もまた、嫉妬の塊を理不尽に投げつけた。
「まったく良いわよね、あなたは。旦那様との子供を作って、貴族の仲間入りですもの」
「ホント、上手いことやったわよね。一体どんなテクニックを使ったって言うのかしら?」
「ほら、兎は発情するとすごいって言うじゃない……とんでもない淫乱だわ」
直接的、間接的に母への罵詈雑言が貴族の屋敷に満たされる。
「大丈夫……大丈夫だから……」
日に日に塞ぎ込みやつれていく母を、コゼットは確かに見ていた。
母を支えるはずの貴族の男は――救いを持って現れることなどなかった。
貴族の男は、すでに母に飽きていたのだ。
この屋敷に母とコゼットの味方はいない。
嫌がらせと当てつけを受け続ける日々は、弱り切った母の精神を磨り減らし、そして――
「……ごめんね――」
けれど――貴女なんて生むんじゃなかった。
そう言い残した母はその日、名残を惜しむようにコゼットの頭を一撫ですると、姿を眩ませた。
探す者はコゼットを除いて居るはずもなかった。
●灰色
そこは薄暗く明かりのない物置部屋だった。
女の失踪から幾年が過ぎた。
物心ついた時、コゼットは自分には家族がいないのだと理解した。
側室の娘としての立場を持つコゼットは、捨てられることなく貴族の屋敷で育てられた。
それは貴族の政治的な材料の為だと言うのは、なんとなく理解できた。いずれ貴族が大きな力を手にするために、その足がかりとして嫁に出す。その為の道具なのだと。
「…………」
小さな窓から外を見れば、同じ屋敷に住まう子供達が遊んでいる姿が見える。それを羨ましいと感じることはなかった。否、羨ましいという感情を知らなかったのだ。
政治的な道具にすることが決まっていたこともあり、表面上は――暴力的なことで――傷物にされることはなかった。
だが――
「屋敷の外へ出ることは許しません。いいえ、そもその姿を見せるんじゃありません。部屋をもらえるだけありがたいと思いなさい」
不快な物を見るように蔑んだ瞳で見下ろす正室が外出を禁止した。コゼットはただ頷くことしかできない。
用意された物置部屋で、蹲り埃に塗れた毛布を被って寒さを凌いだ。
「…………」
食事が毎日出ることは稀だった。これも嫌がらせの一つだ。
屋敷の者達は今頃暖かいスープでも飲んでいるのだろう。楽しげに笑う親兄弟達の顔を思い浮かべながら、コゼットは飢えを凌ぐために残して置いた干からびたキャベツの欠片を口に入れた。
どこからかチリチリとノイズが響いて、鼓膜を揺らした。
「私達は家族で出かけて来ますので、お前はコレを運んでおきなさい。
いいですね、傷を付けずに全て指定通りの場所へ運ぶのですよ?」
時に、大人が人を集めてやるような運搬作業や労働を課せられることもあった。
それは明かな無理難題であり、幼きコゼット一人で完了させることの難しいものばかりだった。
そうして失敗すれば、コゼットを取り巻く親兄弟達が鋭い剣幕で叱責する。
「あれほど言ったのに傷をつけるなんて! なんて不出来な娘なんでしょう!
あの女の子供だけあるわ、ああホント汚らわしい!!」
「おい! 黙ってないでなんとかいえよ!!」
「俯いているだけで許してもらえるだなんておもわないでよ! 責任を取りなさい、責任を!!」
「フン……目障りな娘だ……しばらくそこで反省しろ」
物置部屋に閉じ込められて、一人静かに収縮する心の音に耳を傾ける。
屋敷を取り巻く雑音(ノイズ)は日に日に大きくなっていく。耳を塞ぐように頭を抑えた。
コゼットを救う者は誰一人としていない。
屋敷に住まう者は皆、貴族の男こそが神であり、それに逆らうことなどありはしない。それどころか、神に気に入られようと積極的にコゼットを貶めようと動く者も少なくなかった。
あの人がそうして居たように――
コゼットもまた一人耐えることしかできないのだ。
「だいじょうぶ……だいじょうぶ……」
いつか聞いたその言葉を、呪いのように繰り返していた――
●終わりの日
「おい、こっちだ。あぁ? 人形みたいな顔して立ってんじゃねぇよ。いいからこっちこいって」
その日の朝。まだ眠気の残るそんな時分を狙って、兄姉達がイヤらしい顔を浮かべてコゼットの元を訪れた。
何の用件か。聞くことも出来ないままただ為すがままに引き連れられて、屋敷中央を貫く大階段の前へ連れてこられた。
ロクな用件ではないことは、二人の顔を見れば察することができた。鼓膜を揺らすノイズがいつにも増して大きく響く。心が収縮し不快な気持ちがわき上がった。
「よし、飛べ」
「まずは五段からよ、ほら兎らしく飛んでみなさいよ。得意でしょ?」
兄と姉はコゼットを階段中頃に連れて行くと、命令した。
何を言っているのだろう?
コゼットが兎のブルーブラットである事実は隠しようもない。だが、同時にブルーブラットという種族でありそれは人と同義だ。
か細い二本の足が恐れに震える。五段とは言えその高さは少女には高い。
「早く飛べ!!」
怒声が響く。ビクリとコゼットの肩が震えた。
やらなくては何をされるかわからない。今までは暴力を振るわれることはなかったが、それが今日より変わらない保証はないのだ。
(だいじょうぶ……だいじょうぶ……っ)
呪詛を繰り返し身体を無理矢理動かすと、急かされる怒声を背に受けて、為すがままに空へと身を躍らせた。
屋敷中に響くような着地音。痺れる足と身体を受け止めた手。赤い絨毯が視界に広がる。
(……ほら、平気、だった……)
なんとかなったのだと、早鐘打つ鼓動を感じながらコゼットは小さく息を吐いた。
これで終わり。あとは部屋に戻って一人静かにしていよう。そう心に決めて立ち上がると、部屋に戻ろうとその場から立ち去ろうとした。
「おい! 何処行く気だ!!」
力強く腕を引っ張られる。細い腕に食い込む兄の指。痛みに抗うことが出来ず引っ張られるままに階段を上がる。
「五段で終わりなわけないじゃない。さあ、次は六段よ」
カラカラと笑う姉の言葉に、コゼットは青ざめた。
階段は何段ある? いつまで飛べば良い?
六段ならば、きっとまだなんとかなる。でも次は? その次は?
これから起こりえる未来を想像し、なぜこんなことをしなければならないのかと理不尽な出来事に身体が震えた。
助けなんか来るわけがない。そんな物語のヒーローはこの場にいるわけもない。
そのコゼットの考えは正しくて――だから、通りがかった貴族の男を見たとき、地獄の様子を鬼が見に来たと思った。
「なに? うさぎ跳びを見ているだと?
フン、くだらん遊びをするものだな――」
貴族の男は馬鹿な子供達の遊びと鼻を鳴らす。コゼットは次に続く言葉を聞きたくなかった。
「そんな馬鹿な遊びは早く終わらせてしまいなさい。
それ、その踊り場から飛んで見せろ、それで飛べることを証明して終わりだ」
大階段の踊り場――十段や二十段では済まない。そんな場所から飛べと、この男は言った。
飛べるわけがない。無理に決まっている。そう男は無理であるということを認めさせるために――泣き叫ぶコゼットを叱りつけてストレスの発散を企んでいる、そういう心算なのだ。
目論見通りに泣き叫べば満足するだろうか。それで、解放してくれるだろうか。
コゼットは深く考え、自らの持ち得ないプライドを溝に捨てて、そうしてみせようと意を決した時――
「なにをぼーっとしてるんだ!! 早く飛べ!!」
「早く飛びなさい!! お父様が見ているでしょう!!」
兄と姉が、同時にコゼットを突き飛ばした。
もし、どちらか一人ならばコゼットの細い身体でも耐えられたかもしれない。けれど同時に肩を叩いた衝撃に、まるで抗うことも出来ずコゼットの身体は宙に浮いたのだ。
衝撃が肩を叩く。視界が凄い速度で回転する。続けて額の先から鈍く重い音が響き、瓦礫を崩すような騒音の連続がコゼットの鼓膜を叩いた。
抗いようのない物理法則ままに、大階段を転げ落ちたコゼットは、痛みに震える身体を引き起こす。
どろり、と顔に温かい液体が零れ落ちた。
「――嗚呼、なんということだ」
表情を落とした能面のような男が、まるでゴミでも見るようにコゼットを見下ろした。
「顔に傷が……ああ、だめだ。これでは嫁ぐ先など見つかるべくもない」
男が兄と姉を連れて去って行く。
ぼそり、と呟く声が、ノイズと共にコゼットの耳に届いた。
――あいつの価値はなくなった。鮮度が落ちる前に処分しよう――と。
●静かな世界
ゴトゴトと車輪をならして荷馬車が往く。
額に怪我を負ったあの日から数日。
コゼットは僅かなゴールドと引き替えに、奴隷商人の商品となった。
額の傷はもう塞がっていた。傷も綺麗に直りそうだと、コゼットの状態を確かめた商人が言った。傷物価格で安く上玉が買えたとも。
荷馬車の中は暗く陰鬱な雰囲気に包まれている。この場にいる者達は皆コゼットと同じように売られた者達だ。
屋敷にいたときと同じように身体を抱えて蹲る。
奴隷と言うからにはきっと今までとそう大きく変わらないかもしれない。決して生活が良くなることなどないのだ。
今はただ――小さくなったノイズに束の間の平穏を得る。それだけのはずだった。
「――!!」
突如、荷馬車が衝撃に揺れる。奴隷達の小さな悲鳴、息を呑む気配が聞こえた。
同時、馬が悲鳴を上げるのを始まりに視界が回転する。大階段を転げ落ちた時と同じ感覚。身体が浮き上がり荷馬車の中を転がりそうになる。必至に掴まり状況を確認した。
荷馬車が狭い道を踏み外し横転したのだ。
奴隷達が身体の痛みに呻く。
その瞬間、コゼットの身体が突き動く。無意識に、自身を縛り付ける呪いのような環境から逃げ出すように、荷馬車を飛び出し、我武者羅に走った。
どこからか奴隷商人の罵声が聞こえた。
追っ手が来る。逃げなきゃ――どこへ――考える間もない、とにかく走るのだ。
崖を駆け下り、森を駆け抜け、身体が動かなくなるまで走った。
そうして身体が動かなくなったとき、大の字に寝転がったコゼットの耳を支配したのは、心を収縮させる言葉でもなく、不快に響くノイズでもなく、ただ早鐘を打つ自分の鼓動だけだった。
初めて知る、静かな――とても静かな世界だった。
「……だいじょうぶ――大丈夫」
呪いは解けて、今はただ目の前に広がった世界を受け止める。この先に何が待っていても、きっと『大丈夫』なのだと確信していた。
原初の記憶は、そうしてコゼットに刻み込まれた。