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消えない
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降りだした雨は記憶を呼び覚ますには十分すぎた。僅かに身体を濡らし、飛び込んだのは誰もいない廃屋だった。木材が湿り、歩くたびに腐敗臭が漂う。ネズミでも転がっているのだろう。それでも、出ていく気にはなれなかった。
「礼拝殿、暫し我慢だ!」
ジョセフ・ハイマン (p3p002258)がはっと仮面の中で笑い、その身を無意識に震わせた。
「ジョセフ様、これで身体を拭いてください」
沁入 礼拝 (p3p005251)が持っていたハンカチを手渡そうとする。雨によってジョセフの逞しい身体が浮き彫りになる。ジョセフは礼拝を見つめ、かぶりを振った。礼拝の艶やかな髪から恵みの雫がそっと落ちている。
「礼拝殿、私は大丈夫だ。むしろ、礼拝殿が使ってほしい。それに私には秘策がある」
ジョセフは体温をこれ以上下げぬよう、濡れた衣服を脱ぎ、ぎゅっと絞った。壊れた椅子に衣服をかけ、微笑む。
「これで問題はない」
舞い上がった埃を手で煽ぎ、咳き込む。
「ジョセフ様」
「ん?」
か細い声。それでも、 礼拝はしっかりとジョセフの無数の傷を捉えていた。ジョセフは自らの腕を見つめた。全身を満たす傷跡。ジョセフは礼拝の視線の意味すらも解らずに誇らしげに腕の深い傷を指差した。一つ、一つ、ちゃんと覚えている。これはとても大切なもの。
苦痛を齎し齎されることは愛なのだ。異端審問官の師匠《養父》からの教えをジョセフは疑うことはなかった。
「ふむ、雨が止むまで傷について話そうではないか」
ジョセフは背を向け、「礼拝殿、この細かな傷は初めて師匠に付けられたものだ」と笑った。礼拝は黙っていた。遮ることは容易い。だが、見てほしい。ジョセフ《狂信者》は湧き上がる興奮を抑えきれずにいる。こんなにも誇らしげな男に誰が批判の声を上げれるものか。礼拝はハンカチを握り締め、息を吐いた。雨の音が鮮明に耳に届く。ジョセフの声はこんなにも遠いのに。
「ああ、まだ、10回も打ってはいないのだ。何故、気を失うのだ? これでは何も務まらない。所謂、私は無駄骨に終わるのだ!」
男はふんと笑う。振るわれた訊杖の先には小さな刃が付いている。男は少年《ジョセフ》の背を蹴り飛ばし、真っ赤に染まった訊杖で背を打った。
「立って、私に背を向けたまえ。いつだって覚えておかねばならないのだ。異端審問官としての役目を」
男は少年を見下ろし、汚れた刃先を薄い布切れで拭った。
「もう一度だ」
男は言った。拷問具として完璧にせねばならない。
「ふふ、あの時の師匠の指導は私にとって奇跡だった。師匠は訊杖を何百回も私の背に打ち続けた! そんなことが出来ようか! 温かな食事も服も教養すら与えられ、師匠は私の全てだった」
ジョセフは叫んでいた。彼のようになりたいと思った。この口調すら彼のものだ。沢山の愛を思い出す度に傷がかっと熱くなった。
「今度は此処だ!」
ジョセフは腕の傷を示した。礼拝が黙っていることすらジョセフは気が付かなかった。もう、雨の音すら聞こえなかった。湿った臭いさえも。
「礼拝殿! これは歯型だ。異端者に反撃されて付けられたものだ」
にたにたと笑うジョセフ。あの時、女の両足を鉄製の金属板で締め上げていたのだ。無数の突起が女の下肢を痛めつける度に女は獣のような声をジョセフに浴びせ、瞬く間に青ざめていった。
「私は失神した彼女の頬を打とうとした! 誰も白蠟のような女に噛みつかれるなんて思わないだろう。だが、あれは凄まじい力だった! 私は彼女の右目を潰すしかなかったのだ」
ジョセフは演説の様に両手を広げ、礼拝を見た。そこに広がる表情の意味すら分からない。ジョセフは何も見てはいなかった。
「今でもこの指が覚えている。そして、甘い悲鳴さえ……」
ジョセフは目を閉じた。女はすぐに息絶えた。そう、誰かの名前を何度も叫びながら。
「それから私はすぐに拷問具を清潔に保とうとしたのだ」
ジョセフは腕から血を流し、潰した下肢を切断し、拷問具に付着した血や肉や汗を熱心に取り除く。拘束し火あぶりや水責めにすることもあった。
「全ては次の愛の為に」
ジョセフは同意を求めるように礼拝を見つめたが、礼拝は心を痛めただけだった。仮面の奥の顔は輝いていることだろう。喉の奥が痛み、何かを口にしようとするが、礼拝はすぐに言葉を止めてしまう。愛とは何なのだろうか。礼拝の愛とは相手を自由にすること、足りないものを満たして己で選択する力を取り戻させることだ。でも、ジョセフは違う。苦痛を齎し齎されることが愛であるならば、いや、これが絶対的な愛であるとジョセフが信じているのならば、礼拝の愛はそれこそ、異端であろう。
「どうしたらいいのでしょうか」
礼拝の声は雨音に呑み込まれた。信じてきたものがジョセフにとって障害にしかならないのだと礼拝は思った。ジョセフを取り巻く環境はもはや盲目的でなければ生きていけないものではなかった。むしろ、その逆で狂信により足元を掬われる事の方が多くなってしまわないだろうか。
でも──
決して口にすることは出来なかった。ジョセフはとても、幸せそうだった。
「礼拝殿、最後にこの傷を見てくれないだろうか?」
胸の傷を指差した。礼拝は近づき、見上げる。フォークで刺したような二本の深い傷跡。唇が震えた。
「これは……」
「そう、自分で付けたものだ。異端審問官たるもの、どんな苦痛であるか知らねばならないからな!」
誇らしげに笑う。ジョセフは説明する。両端がフォーク状に尖った長い鉄を顎下と胸に当て、ストラップで固定するのだ。顎を下げたり唾を飲みこんだだけで鉄が肉に食い込んでいく。眠ることは出来ない。
「だが、私は五日目で眠ってしまった。その瞬間、鉄が私の顎と胸を貫いた。ふふ、吹き出した血はまさにこの雨のようだった!」
ジョセフは楽しそうにも悔しそうにも見えた。だからこそ、涙が零れていた。
「礼拝殿!?」
ジョセフは慌てていた。礼拝は泣いていた。耳を傾ければ傾けるほど、ジョセフの声が熱を帯びていく。どうして、そんなにも誇らしげなのだろう。身体に散った傷はこんなにも痛々しいのに。
「つまらない話だっただろうか」
ジョセフは言った。何故、礼拝が悲しみ、涙するのか理解できなかった。自分のことばかり話してしまったからだろうか。
「いいえ」
礼拝は左右に首を振り、ジョセフの胸の傷に手を伸ばし、そっと撫でた。傷口に沿って肉が盛り上がっている。痛かっただろう。でも、ジョセフにとって苦痛こそ、愛なのだ。礼拝は静かに泣いている。
「礼拝殿! 雨が止んだら、新しくできたフルーツショップに行こうじゃないか。珍しいフルーツがあると聞いたのだよ」
どうにか泣き止ませようとするジョセフ。それでも、礼拝は泣き続けている。むしろ、ジョセフが礼拝を気にかけるほど、礼拝はその優しさに堕ちていく。
「私は貴方が傷つけられた事を悲しく思います」
震える声。どうにか口にした言葉。息を呑む音がした。ジョセフは困惑し、立ちすくむ。何故だ。何故、彼女はそんなことを言ったのだ。分からない。喉が鳴り、救いを求めるようにジョセフは窓を見つめ、ハッとする。
「礼拝殿……」
礼拝は顔を上げた。ジョセフの指差した先に虹がはっきりと映っている。雨は既に止んでいたのだ。
「……とても奇麗でございます」
目を細め、礼拝はまた、涙を零した。