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薄紅色の夢
登場人物一覧
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薄紅色の花びらが風に乗ってアイル・トーン・ブルーの空に舞う。
暖かくなった頃に咲く花を私は気に入っていた。
四年間の初等教育を終える歳の春。
私達は恋には権利が必要であること、その根拠を知る事になる。
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始業を告げるチャイムの音に私は自分の席についた。
オークの長机はアンティークの意匠が散りばめられている。均整の取れた美しい形。
友達はこれを古くさいと言うけれど、私はこの違わない美しさが好きだった。
先生の教えてくれる事は面白いし、知識を吸収する事は苦では無い。
こんな深窓の令嬢みたいな感傷に浸っているけれど。
私は決して大人しい性格ではない。
どちらかといえば。
「アンジェラー! そっち行ったよー!」
「任せて! ソフィ!」
青空に高く打ち出されたボールが太陽の光に反射して落ちてくる。
ぽすりと嵌まったグローブの中。
少し前までは一生懸命ボールを追いかけていたのに。今は簡単に取れてしまう。
「やったー! 流石アンジェラ!」
「へへん! どんなもんだい!」
同じチームの友達が集まって、私をもみくちゃにする。
何故なら、このボールが私の手の中に収まっているから。
最終戦逃げ切りのスリーアウトだった。
皆の笑顔が私に向けられていた。
「ねえ、アンジェラ。二学年上の先輩にとてもお洒落な人がいるの知ってる?」
休み時間に前の席に座るソフィがくるりと振り返った。
キラキラした純粋な瞳に、こちらまでつられて笑ってしまう。
「ミシェエラ先輩のこと?」
二学年上の彼女は文武両道、女王候補の一人。黒髪が美しい涼しげなヒト。
「そう、ミシェエラ先輩。素敵よね。あんなに綺麗なヒトが居るなんて」
恋する乙女みたいな顔でソフィは頬を赤らめた。
「私もあんな風になりたいなぁ」
「アンジェラなら大丈夫だよ! この学年の女王候補はアンジェラだってみんな言ってるよ!」
ソフィアの声と同時に始業のチャイムが鳴る。
授業の内容は、王乳と生殖階級、働き人についての話。
『真社会性人類』と呼称される私達の生き方を深く読み解く内容。
アリに似た社会形成。女王と男性。私達みたいな女性。
それと、働きアリや兵隊アリに相当する『働き人』の存在を先生は黒板に書いていく。
乳幼児までは共に王乳を飲んで育つ私たち人と働き人。
学校で能力を発揮出来なかった者は投与を中止され、働き人となる。
そこに疑問など無く。ただ、そうある事が正しいのだと理解していた。
「先生ー、でも私たちのクラスには居ないです」
「そうだな。お前らは女性の中でも特別なんだよ」
ここは優秀な生徒が集まる特別クラスで、女王候補だって居る。
なれなかったとしても、生殖階級になるのはおおよそ確実で、みんなおおらかだった。
窓の外を眺める。
青い空を割ってもくもくと煙を吐く煙突が見えた。
その下には灰色の工場があり、働き人が黙々と仕事に勤しんでいる姿が見える。
公共の場を綺麗にしなければならないという本能がそうさせるのか。
私はそれを特に感傷も無く、ただ眺めていた。
「あれ、どうしたの? ローヤルミルク飲まないの?」
隣のクラスの友達。ジェシカが持ったトレーには『いつも』の瓶が存在しなかった。
代わりに置かれているのは普通の牛乳。
「私、今日から飲まなくて良いって」
「そうなんだ。働き人になるのね」
以前にも増して成績が悪くなったジェシカにはローヤルミルクの投与を行わないと『社会』が決めた。
「皆と同じものが食べられなくなったら、卒業だね」
「まあ、急に働き人になったらホルモンのバランス崩れて体調崩すっていうし。徐々にだよね」
このジェシカもそのうち『何でも無いもの』になっていく。
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「ねえ、アンジェラ。今度はあっちのクレープ食べてみようよ」
「良いわね。ソフィ」
春の風が心地良い。
私とソフィは繁華街に来ていた。
新しい春服を買って、上機嫌でクレープを食む。
幸せな時間。何処にも不幸の欠片なんて存在しない。満ち足りたひととき。
ふと、視界に働き人が掃除をしている姿が目に止まった。
地面の段差に躓いて転けたそれを助け起こす人は誰もいない。
足の傷を見ても気にも止めず掃除を再開する働き人。
痛くないのかなと、思った瞬間。
強い風が吹いて私の帽子を空へと舞い上げる。
「わっ!」
視線で帽子を追いかけた刹那――
私は『空の上』に居た。
「え、なにここ?」
さっきまでの繁華街の景色ではない。全く知らない場所。
「ソフィ! どこ!?」
さっきまで隣に居た友人の姿が見えない。ひとりぼっち。
私は人生で初めて恐怖を覚えた。
「だ、誰か居ませんか!」
シンと静まりかえった空の上。神殿のような建物が見える。
もしかしたら、あの建物に行けば誰かがいるかもしれない。
私は石畳が敷かれた通路を歩いてその建物の中に入った。
中には美しい意匠の柱と回廊。
「おや、お客さんでごぜーますか」
ざんげと名乗ったシスター服の女性はこの世界の事を教えてくれた。
無辜なる混沌。イレギュラーズ。異世界からの来訪者たるウォーカー。
『真社会性人類』としてレールの上を歩いてきた私には、この世界の理が奇妙に思えた。
同時に。知的好奇心が擽られたのだ。
元いた世界では未知という誰かが築いた既知の上で緩やかに人生を育んでいたけれど。
ここは違う。本当の意味での未知が広がっている。
「まずはローレットへ。こちらの門からどーぞでごぜーます」
ざんげの無表情な声に乗って。私は地上へ降りたった。
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――
「わぁ……っ! みんな顔が違う!?」
最初に思ったのはそれだった。
人は女王の単為生殖で生まれてくるから、こんなにも顔が違うということは、どれだけの女王が共同統括しているのだろうか。
辺りを見回しても、誰一人として同じ顔をしていない。
むしろ顔が動物になっている人も居る。
動物どころか、機械や植物の様な形をしている人までいたのだ。
「あわ、わ。頭が混乱してきたわ。でも――」
特有のフェロモンを発する『働き人』の姿が見当たらない。
普通の人が掃除をして、荷物を運んでいる。
「この世界、仕事を働き人に任せない仕事大好き人間多すぎない?」
不思議な事がいっぱいで私は胸が期待に膨らんでいた。
ローレットと呼ばれるこの世界の組織に入れば、きっと元の世界にも帰れるようになるだろうし。
不安が解消されればお腹も空いてくるというものだ。
「もう、夕暮れ時だね。晩ご飯と王乳楽しだなぁ」
私はこのときまで想像もしなかったのだ。
この世界に『王乳』が無いことを――
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「王乳(ローヤルミルク)? 聞いた事もないわね」
ローレットのカウンターに立つプルー・ビビットカラーはこの世界に来たばかりだという少女に微笑み掛けた。アンジェラと名乗った少女は酷く動揺している様子が見て取れる。
「私、それが無いといけないんです! そうしないと女王候補じゃなくなってしまう」
可愛らしいスカートの裾を握りしめてアンジェラは俯いた。
「あらあら、悲しみのシルキー・ブルーね。それが無いとどうなってしまうのかしら? ブラッディ・レッドの炎、生命の色彩に関わるもの?」
「えっと……っ」
プルーの難解な言い回しに言葉を詰まらせる少女。
『この世界にはローヤルミルクが無い』
その事実だけがアンジェラを打ちのめす。王乳が無いということは自分が『働き人』になってしまうという事に他ならないのだ。
「嘘だ……っ!」
アンジェラはローレットを飛び出す。
「私は信じない。何処かに王乳はあるはず!」
そう言いながら走るアンジェラは道端の石に躓き、盛大に転んだ。
「痛っ!」
少女は痛いと思った。
ここに来る前に見た働き人とは違う。痛みを感じて涙を浮かべる普通の人間なのだと。
「私は女王候補だもん」
――――
――
アンジェラの心とは裏腹に。
日々を追うにつれて王乳の欠乏による変化は徐々に現れ始めた。
「……味がしない」
何を食べても味が分からず、美味しいと思えなくなった。
山盛りのパスタも甘いケーキも牛すじカレーも口をつける事さえ苦痛を伴う。
咀嚼すればタールを噛みしめているような感覚に襲われ、それ以上の食事が出来なくなった。
食物の摂取をしなければならないというだけで味もしないパンをかじる。
ぽろりと涙が零れた。
「なんで……っ、美味しいご飯食べたいのに」
次から次へとあふれ出す涙に。まだ、自分の感情が在ることを知覚した。
聡いアンジェラは、己がもう戻れない事を頭では理解しているのかも知れない。
けれど、感情はその事実を否認する。
「どうして……っ! どうして!」
アンジェラはベッドの上で泣いていた。
性成熟の停止を認識できる手段はアンジェラには無いが、ホルモンのバランスの崩れによる衝動的な怒りは確実に少女の精神を蝕んでいる。
日中は保つことが出来る平穏な性格も。夜になれば忽ちに凶変した。
壊れにくい場所を選んで殴りつける。どうにもならない不安と怒りに息が切れた。
殴りつけた拳は痛いはずなのに。怒りに痛覚が鈍化する。
肩で息をしながら、ふと視線を落とすと右足首に嵌まる足枷が見えた。
月明かりを反射して鈍色に光るソレ。
「あ……っ、あぁ……っ嫌、いや!」
アンジェラは必死に足首の枷を外そうと手を伸ばす。
けれど、触れることは叶わず、指先が空気を掴むだけ。
「なんで、私が働き人なんかにならないといけないのよっ!」
己自身が何でも無いモノとして扱ってきた存在に堕ちる恐怖。
「やだ! やだ!」
アンジェラは拳を握りしめて己の足首目がけて振り下ろす。
足首に鈍い痛みが走り、赤くなりだしてもアンジェラは自分の足を叩き続けた。
「……掃除、しないと」
引き出しの中身が散乱して、滅茶苦茶に散らかった部屋をぼうと眺めていたアンジェラは動き出す。
夜空の瞳は虚ろ。星は瞬かない。
自分の意志で片付けているのか、それすらも曖昧で。
ゆっくり。ゆっくり。何の感情も無くアンジェラは部屋の掃除をした。
綺麗になった部屋の真ん中にぽつんと佇むアンジェラが、ぐっと拳を握り込む。
「神様、お願いします。元に戻してください……。普通で居たい。のに。普通で居たいだけなのに」
涙がまた零れて。
アンジェラは部屋の中を怒りに苛まれながら滅茶苦茶にした。
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アンジェラは目の前にある情報が水の中にあるように知覚する。
小さな子供が少女にぶつかった弾みで手に持った食料が地面に散乱した。
――片付けないと。
アンジェラは強くそう思った。
自分の食料が散らかったから思ったのではない。
公共の場が汚れてしまったから、自分が片付けないといけないと勝手に意志が働いたのだ。
綺麗になったマーケットの通路を見て、アンジェラは喜びと絶望を同時に味わう。
「……私、はうれしい、の?」
他人の為に、社会全体の為に奉仕することが嬉しいと感じた自分。
「うぅ……」
自分が自分では無くなっていく恐怖。
回避することが出来ないという事実。
軋みを上げ、ばらばらに砕けていく心の欠片。
耐えがたい苦痛に何も感じない。
何も感じないのだ。
あんなに痛くて苦しかったはずなのに。
これは開放か。あるいは。
伽藍堂の心に残るものはいったい何であるのだろうか。
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「あら、今日も仕事を探しているのかしら? アンダーブルーの傭兵さん」
「ええ。私は働かなければなりませんから」
虚ろな瞳でローレットのカウンターに佇むアンジェラ。
非力な少女が熟せる仕事など知れているけれど。
それでも、アンジェラは働き続けた。
少女達の笑い声が聞こえる。
遠い日の記憶に掠れた眩しい日々が微かに脳裏をよぎる。
今の自分とは関係の無い『誰か』の記憶。
薄紅色の花びらが風に舞ってアンジェラの視界を浚った。
あの日、ざんげに聞いた世界を救うことになってしまった運命。
その運命に導かれるままに、彼女は戦い続けるのだ。
働き人、イレギュラーズとして。
関係の無い誰かの記憶は。
けれど、きっと忘れてはいけない宝物なのだろう。
物語の頁をめくるように、時々思い出しては。
薄紅色の花びらに想い馳せて――