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裂と阿真の話~日はまた昇る~
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- 裂の関係者
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黒雲がわき、伊作と伴蔵の漁船を覆う。雨が降っている。横殴りの激しい雨だ。
「伊作おんじ! 嵐だ!」
箕をひっかぶりながら伴蔵は叔父の伊作を呼んだ。凄腕の漁師である伊作は、こういう時も落ち着いた顔だ。
「こらあ、嵐でねえ、ましゅらだ」
「はあ、これがましゅらか」
伴蔵は船の上からあたりを見渡した。遠くから唸り声が聞こえてくる。胸をかきむしるような、苦しい声だ。
「でくわすのは初めてか。普段は遠くの海にいるんだが、たまにこういうこともある」
ましゅらなら話は早い。東へ進めばいいのだ。ましゅらは西へ進むと伴蔵ですら知っている。この近海では、嵐に似た大雨が突然来て、すさまじい勢いで西へ進んでいくとだけ、伴蔵は教えられていた。
「そうだなあ。おまえもいい年だ。話してもよかろ」
伊作は船を東へ向けながらそう言った。
かつて、この村に裂と阿真という仲睦まじい二人がいたが、人の身からこぼれ落ち、魔種のめおとになった。しかして、妻に先立たれた夫は、いまだ彷徨っている。伊作は語りだした。
「むかしむかし」
~~~~~
空が星に覆われる頃、裂は小島の洞窟にいる阿真のもとを訪れた。奥へ進もうとした裂を、阿真の細い懇願が止める。洞窟の奥からは食欲を誘う血の匂いがした。
「見ないで、裂。お願いよ。あたしの姿を見ないでほしい」
わかっていると裂はつぶやき、採った魚を石の上へ並べた。
「ここに置いとく。食ってくれ」
「ありがとう、裂。ごめんね」
すすり泣きがそれに続く。裂は外へ出た。
世界がイレギュラーズに救われ、魔種は表舞台から消えた。やがて時が流れ、裂と阿真は権能を失っていった。ふたりがそれに気づいたのは、阿真へ異変が起こったからだ。
体がちぎれていく。イヴォンの権能を引き継ぐことで構成されていた彼女の肉体が砕けるように崩壊していくのだ。最初は手荒れかと思った。だが違った。腕や脚へひび割れが入り、黒い血がしたたるようになった。裂にもまた、異変が起きていた。体が重だるく、以前のように動けない。イレギュラーズとの戦いで誇った剛腕と、肝の座った頑丈さは、みるみるうちに失われていった。それでいて腹は減るのだ。以前から持っていた飢餓感はさらに強まり、食っても食っても満たされず、しまいには貝を殻ごと口にした。口に入れば何でも良かった。食欲は自然と、隣にいるいとしき存在、阿真へ向けられた。
彼女へ食らいつかないのはひとえに、裂の意地だった。もはや理性でもなんでもない。裂は阿真を守りたかった。そのために人の身から堕ちたのだ。阿真との時間は心安らぎ、そして、同じくらい地獄のような苦痛を裂へ叩きつけた。心根だけはうぶだったあの頃のままで、肉体は魔種へ変わったのだ。魔種へ堕ちるのは、人類の中でも最大級の禁忌だ。それに触れてしまったのだから、罰を受けるのはいたしかたなかろう。裂はそうとまで達観していた。
思いは不変。けれども現実は容赦なく不出来を暴き、時は流れていく。全身をひび割れが多い、ついにその美しい顔へもひびが入った時、阿真は小島の洞窟へ身を隠すようになった。
「裂、ごめん、ごめんよ、ほんとうにごめん、だけど見られたくない、見られたくないよ、見てほしくないの。裂に、ほかでもないあんたに、あたしのこんな醜い姿、見られたくない……」
割れた体からはじくじくと黒い血が流れ、赤黒い液体にまぎれた肉が垣間見える。裂としては共に有りたかったが、女心を思うと己のわがままを通すのも気が引けた。
だから流されてきた船を見つけたのは、幸運だった。小さな帆船だった。乗員はすでに脱出してかなりの時間が経っているようだ。雨ざらしになっていた帆を裂は剥ぎ取り、阿真へ渡すことにした。阿真はそれを受け取り、洞窟から顔をだした。ひさしぶりの二人きりの時間に、裂と阿真は酔いしれた。ただ隣にいてくれればそれでいい。シンプルで重い、執着に似た感情。その感情のままにふたりは身を寄せ合い。見るともなく星を眺めた。
遠く静かに波が歌っている。猫の額ほどの小さな砂浜に二人は転がっていた。
「阿真、具合はどうだ」
「うん、すこし痛いけど、平気」
「平気なもんか。俺が医者を探してくる。なんとかしてみせるから」
「うん、裂。ムリはしないで。だってねえ、裂は、まだ誰も殺めてない。裂だけなら、きっと極楽へ行ける。あたしは……ダメだけど……でも裂だけならなんとか。そうだ、閻魔様に頼むねあたし、どうか裂を極楽へやってくださいって」
帆で頭からかぶる阿真のいたいたしいこと。白い帆がじったりと黒い血で汚れていく悲しみ。その向こうから手を伸ばし、裂と腕を絡み合わせる阿真のいとけなさよ。いまにも、もろりともげ落ちそうな細い腕の、小さなぬくもり。裂はまぶたをとじ、眉間をおさえた。
「馬鹿言っちゃいけねぇや。お前のいない極楽なんざ興味ねぇよ。閻魔に直談判だ? そんなことはしなくていい。お前といっしょよ。あの世もこの世も。何度だって生まれ変わって、何度だってめおとになるんだ」
「ありがとう、裂」
その日から裂は阿真を伴って医者を探した。海に潜み、漁師たちの噂話から医者の居所を聞きだし、夜の闇に紛れて帆でくるんだ阿真を抱き上げ医者の家へ押し入る。もともとの情報源が噂頼みな上に、そうやってなんとかたどりついても、たいていは悲鳴を上げて卒倒してしまうものだから医者探しは難航した。カムイグラはもちろん、シレンツィオ、海洋にまで足を伸ばした。人ではない身であるから、時間だけは膨大で。だからこそ、諦めきれなかった。裂の胸に根付いたほのかな希望は、絶望から目をそらす唯一の薬だ。阿真のいない世界など考えられない。すべては阿真のためだ。空腹のあまり意識を失いそうになるつど、裂は夕日に染まる阿真の笑顔を思い浮かべ、腕の中の小さくなってしまった体を抱きしめた。
血で汚れ、真っ黒になった帆を被っている阿真は、おばけの仮装をした少女みたいだった。腕も、脚も、もげて小さくなり、もはや自分で動くことができなくなってしまった阿真は、裂に抱きしめられるたび、無邪気な声で笑った。
「裂、裂。ありがとう、うれしい、いっしょにいてくれてありがとう、うれしい、うれしいよ、ありがとう、うれしい」
体がちぎれて軽くなっていくたびに、阿真は無邪気になっていった。泣くことは少なくなり、代わりに透明で澄んだ声で笑うことが増えた。
「知ってる、裂? 極楽って西の方にあるんだって。そこでは何もかもが清らで水晶でできていて、なんにも苦しいことはないんだって」
そんな夢物語まで語るようになっていた。笑みこぼす声こそが、裂にとっては純粋で美しい水晶そのもので、割れて割れて小さくなってしまった阿真を赤子のようにゆすりながら、裂は医者探しを続けた。あまりおおっぴらにやると、人から狩られてしまうから、どうにか医者の居場所を知ってもくりかえし訪れるのは難しい。それでも、夜の闇は彼らの味方だった。
ある日、裂は旅の医者の話を耳にした。高名な医者で、民のため献身的に各地を巡っているらしい。その医者の目的地を突き止めた裂は、待ち伏せて彼に阿真を見せることにした。折よく海岸沿いの道を歩いていた彼の先回りをし、海から陸へ上がって向こうから見つけてもらうのを待つ。
「今度の医者は気絶しねぇといいな、阿真」
「そうだね、裂。裂、月はどっち? 星はどんな風? 教えてちょうだい、教えて、教えて」
心地よい夜だった。裂は岩の上に座り、目を細めた。
「お月さまぁあっちだ。みえるか、阿真。細い月だ。俺らをほどほどに隠してくれる、いい月だ。星も綺麗だ。夏の三角がよく見える。どうだ、阿真」
「うん、よく見えるよ。きれいだねえ。織姫と彦星は、今年は会えるといいねえ。愛する人がいなくなってしまうなんて、さみしくてさみしくてやってられないものねえ。一年に一度でいいから、会えるなら会いたいよねえ」
「そうだなぁ」
天の川から星が降り落ちてきそうな夜だ。きらきらと、ちかちかと、星は裂を祝福しているかのようにまばたく。今宵こそはと裂は感じていた。阿真を医者へみせてやれる。きっともとに戻す手がかりを得られる。なぜだかそう信じることができた。
足音が聞こえ、裂は振り向いた。あんなにも欲した医者は、思っていたよりも若い男だった。旅装束に身を包んだ彼へ、裂は頭を下げた。ウォーカーだと名乗った医者は、裂の手から丁重に帆でくるんだ阿真を受け取り、むしろを敷いたうえで診察をはじめると宣言した。一枚、また一枚、ボロ布と化した帆をめくっていき、やがて医者は手を止めた。
「診察が必要なのは、あなたのほうですね、裂さん」
「あぁ? 俺がどうしたって言いたい?」
「あなたが奥様だとおっしゃったこれはもう、ただの布の塊ですよ」
世界がぐわんと揺れた。裂は医者の手から布の山をひったくり、自分の手でめくっていく。いない。いない。いない。阿真だと信じていたそれは、傷んでくしゃくしゃの汚れた布を乱雑に丸めただけのものだった。
「阿真、阿真、どこだ、どこへ」
思考が反転し、裂は夜の海へ真っ逆さまに落ちた。西だ。阿真は西にいる。唐突に、啓示のように、そんな考えが浮かんだ。一足先に、閻魔へ会いに。そうに違いない。そしていまごろ極楽で、水晶に囲まれているのだ。西へ行こう、西へ。阿真へ会いに。男の思考は、そこで止まった。
~~~~~
嵐のなか伊作と伴蔵はまっすぐに東へ船を進めた。
あれほど暗かった雲が切れ、太陽がまた燦々と輝きだす。あたたかな光はお天道様の慈悲と恩寵そのものだ。伴蔵は後ろを向いた。黒雲は西へ流れていく。あの男は命続くかぎり太陽に背を向けて、暗闇を探すかのようにひたすらに、西を目指すのだろう。重く低い唸り声が伴蔵の耳をかすめる。それは悲鳴によく似ていた。