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儀式的傷心アプローチ。或いは、清算の物語…。
登場人物一覧
●月夜の儀式
「月が雲に隠れたわ」
窓から夜の空を見上げて、マリカ・ハウ (p3p009233)はそう言った。
暗い部屋だ。
部屋の中央にはベッドが1つ。その上には、1人の“悪霊”が横たわっている。
その悪霊の名はクウハ (p3p010695)。
彼は少し困ったような顔で、視線を左右へと動かした。
ベッドを囲むように、血の匂いがする黒いインクで床に奇妙な紋様が描かれている。さらに紋様の各所には火のついた蝋燭。ハーブでも混ぜ込んでいるのか、どこか虫除けにも似た不思議な香りが漂っている。
「なぁ、俺は本当に気にしてないんだぜ?」
蝋燭の明かりを頼りに、古い書物を読み込んでいるマリカへ向かってクウハはそう言葉を投げた。
マリカは本から視線を上げず、口の中で言葉を転がす。クウハの台詞に、なにごとか返事を変えそうとしたのだろうが……結局、マリカは何かを口にすることは無かった。
「死霊術だろ、これ? こんなことで“烙印”を消せるのか?」
「こんなこと……ね」
「っと、悪い。別に死霊術をけなすつもりじゃなかったんだが」
マリカが行おうとしているのは、死霊術を用いた“烙印”の霊的治療である。その魂の根幹にまで刻み込まれた“烙印”を消し去る方法として、マリカはこの儀式を思いついた。
本を片手に、マリカはベッドの方へと近づく。
「目を閉じて」
「……あぁ」
マリカの指示に従って、クウハは静かに目を閉じた。
それを確認したマリカは、ベッドの周りを歩きながら口の中で呪文を唱える。或いは、それは呪文では無く祝詞の類であったかもしれない。
1つ、2つ、3つ……マリカの歌うような声に合わせて、蝋燭の明かりが消えていく。
「……っ」
そのたびにクウハの胸の奥深く……例えば、意思や魂と呼ばれる“ところ”がざわついた。まるで、内臓を直接に素手でひっかきまわされているかのような不快感。
だが、クウハは苦悶の声を飲み込んだ。
じくじくと、体内を膨大な数の蟲が這いまわるかのような痛みがある。クウハの視界が……否、部屋全体が、血のように赤く染まっていく。
生死の境に立っているのだ、と。
この部屋は今、この世とあの世の境にあるのだと、クウハは直感する。
けれど、しかし……。
「……あぁ」
マリカの零した吐息のような声。
それと同時に、クウハの感じていた違和感も、部屋に満ちていた異質な空気も、何もかもが雲散霧消する。まるで、全部が“嘘”だったかのように。
「駄目だった。触れられない」
額から汗を流しながらマリカが掠れた声で呟く。
随分と無茶をしたのだろう。呼吸はすっかり乱れていて、細い肩は激しく上下に揺れている。
クウハはベッドから身を起して、床に蹲るマリカを見た。
「……無理矢理に引き剥がすことは出来たかもしれない。でも、そうするとあなたの魂を欠損させてしまうから」
「……そうかよ」
そんなところだろうな、と。
クウハは理解する。否、最初からクウハは知っていた。
他ならぬ自分の魂のことだ。“烙印”が、クウハの魂に……その根幹にまで深く刻み込まれ、もはや一体化していることを理解していた。
だから、マリカの治療は無意味だったのだ。
マリカに限らず、きっと誰にもクウハの烙印を消すことは出来ない。
「ま、いいさ。気を取り直してさ、食事でもしようぜ」
「いいえ。まだ他にも方法があるかも知れないから……もう1度、別の方法を探すから」
追い詰められた幼子のように、床を睨みつけたままマリカは震えた声で答えた。
「気にしなくていい、っつってんのによ」
マリカが何を考えているのか、思っているのかは知っている。
クウハが“烙印”を刻み付けられた場面に、マリカもいたのだ。だから、マリカはこう思っている。「クウハが烙印に苛まれているのは、自分の責任だ」と考えている。
強迫観念にも似た罪悪感。
罪は償わねばならない。
悪は罰されなければならない。
だから、マリカは古い本まで持ち出してクウハの“烙印”を消そうとした。クウハは、マリカの思惑を理解していたから、きっと“不可能”であろうことを知りながら彼女の儀式に付き合った。
その結果は“儀式の失敗”。
クウハにとっては、予定調和の結末である。
だが、マリカはどうだろうか。考えるまでもない。目の前の光景がすべてであった。震える声と細い肩が答えであった。
「分かってたことだろ。駄目で元々だった。自分を責めるのはやめろって」
この言葉を口にするのは何度目だろうか。
数えるのも馬鹿らしくなるほどの回数、クウハはこの言葉を口にした。
だから、マリカの答えも分かっている。
「駄目よ。私のせい、だから」
彼女なら、そう答えると知っていた。
クウハの言葉は、彼女の心に届いていない。
「……だったら」
けれど、もう終わりにしよう。
誰も幸福にならない、無意味な時間は終わりにしよう。
存在しない罪を背負って、贖いようのない罰を受け続けている彼女を見るのは、もううんざりだ。
●悪霊の取引
「だったら……それじゃあ、少しでも悪いと思っているのなら」
淡々と、静かな声で問いかける。
否、それはもはや問いでは無かった。
いかにも悪霊らしい、悪辣な笑みを浮かべたクウハは足音も無くベッドが跳び下りると、マリカの方へ近づいていく。
それからクウハは、そっと、慰めるようにマリカの肩に手を置いた。
「なぁ、記憶を取り戻す前は……以前のオマエはそんな風じゃ無かっただろ」
かつてのマリカを覚えている。
記憶を取り戻す以前のマリカは、“今”とはまったく……本来の性格とは、びっくりするほどに似ても似つかぬ気質であったことを記憶している。
今のように俯くようなことは無かった。肩を震わせることも無かったし、罪の意識など意識の片隅にだって存在しなかった。
“お友達”……マリカの傍らにいつも付いて回る悪霊の軍勢にクウハを迎え入れようとさえしていたではないか。
クウハを篭絡し、“お友達”に取り込もうとしていたではないか。
もちろん、クウハはそれを断ったけれど。
抗い、拒否したけれど。
あぁ、そんな時間も楽しかったと、今では思う。もちろん、今のマリカが嫌いと言うことも無いのだが……だから、これは“1歩を踏み込む”前に過去を思い出し哀愁に浸っているだけのこと。
クウハは他者の眷属である。
だから、どれほど請われようと、願われようと、マリカの率いる死の軍勢に加わることは出来ない。
誰に手向ける者とも知れぬ葬列にクウハが加わることは出来ない。
出来ないけれど、しかし……。
「“お友達”になってやる」
それが“誰の望み”かはクウハ自身にも分からないけれど。
マリカの気持ちに……“本当の”気持ちに応える手段が、1つだけあった。
●溺れるように落ちていく
クウハに手首を掴まれて、マリカは思わずたじろいだ。
上体を後ろへ逸らすようにして、クウハの顔から視線を背ける。だが、手首を掴まれていては、逃れることは不可能だ。
「ちょっと、何を……」
クウハの語る言葉の意味は理解している。
かつてのマリカ……記憶を取り戻す前のマリカがクウハに語った言葉は本心だ。それは間違いない。マリカはクウハという悪霊を欲した。“お友達”として迎え入れたいと思った。
結局、それは叶わなかったが。
叶わないことが、楽しかった。
そんな風な付き合い方も、愉快であると感じていた。
記憶を取り戻しても、過去の自分が消えて無くなるわけじゃ無い。だから、あの時に発したマリカの言葉が真実であることは間違いない。
そこに嘘や偽りはない。
マリカは自分に正直だった。正直だったからこそ、何だって出来た。
そこに恐れや恐怖は無かったし、自分の気持ち……或いは、本能に従って行動した結果、誰かが不幸になっても、傷ついても、それを憂うことなど無かった。
「離して」
腕を引く。
だが、力ではクウハに叶わない。
クウハの手が背中に回される。身体を引き寄せられて、顔と顔とが近づいた。
吐息さえも感じられる距離。
窓の外で風が吹いて、月を覆い隠していた厚い雲が流れた。
白い月明かりが、2人のシルエットを……重なる影を床へと落とす。
「…………私は救われてはいけないの」
あの頃のマリカの言葉は、嘘偽りのない真実である。そして、今もそれは変わっていない。
変わっていないからこそ、あの頃の願いを再び口にすることは躊躇われた。
罪を背負った自分が、悪行を重ねた罪人が、幸せになるなどあっていいはずがないのだから。幸せになっていいはずがないのだから。
「……手を離して」
「断る」
淡々とした短いやり取り。
お互いに、お互いが発するだろう言葉に予想は付いていた。クウハはマリカの性格や性質を理解しているし、マリカもまたクウハという悪霊の本質を知っている。
とんだ茶番だ。
おかしくなって、どちらともなく笑みを零した。
罪人が救われてはならないとするのなら。
罪を犯した者が、一生涯に渡って幸せになってはならないとするのなら。
この世界には、この混沌とした世界中には、救われてはならない者が溢れているはずではないか。誰もが不幸であり続けなければならないはずではないか。
あぁ、それを正しいと宣う者もいるだろう。
罪を決して許せぬ者もいるだろう。
悪には徹底した贖いと、生涯に渡って背負う罰を求める者もいるだろう。
「知ったことじゃない」
罪は罪だ。
罰は罰だ。
そして、幸福は幸福である。
それぞれは連動した概念ではなく、個々として独立した要素である。
罪と、罰と、幸福を、一連のものと繋げて考えるからおかしなことになるのだ。
「……まぁ、どうでもいいんだ」
どうだっていいんだ。
口の中で言葉を転がし、クウハはマリカの身体を優しく抱き寄せる。
今度は、抵抗されなかった。
クウハとマリカ……2人の影と影が重なる。
クウハの意向を受け入れることが贖罪になるのだと、マリカがそう考えたからだ。
まったくもって、我ながら性格が悪い。
悪辣極まる身勝手な理論だ。弱みに付け込み、望みを叶えようとする悪人そのものの思考である。
自嘲する。
自嘲して、だが、まぁ……悪くは無いのだ。
何しろクウハは悪霊である。
悪霊が、悪霊らしく振る舞うことを咎める者がどこにいるのか。
2人の影が重なった。
背徳と、多幸感の渦の中に、クウハとマリカは落ちていく。
溺れるように、落ちていく。