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夜明けに臨む
登場人物一覧
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二年前の雨の日。
あの日から俺たちの関係は少しだけ変わった。
ただの“姉弟”からほんの少し、一歩だけ進んだ関係に。
少しだけかもしれない。
けれど俺たちにとっては大きな変化だった。
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「テンマ」
「……」
「テンマ、起きて」
優しさを含んだ清涼な声が、俺の耳をくすぐる。
リョウ。俺の姉。右目は義眼で日によって色が違うけれど、生来の左目は湖みたいな色の女。
俺の大切な人だ。
今日は良い天気だ。少しずつうたた寝の気怠さから覚めゆく俺の瞼にも眩しさが判るくらいに。この晴れ具合を見るに、昼がそろそろ近いらしい。
あの雨の日から、俺たちは同じベッドで寝るようになった。
何が変わったのかは巧く言い表せない。ただ、俺は少しだけ深くリョウに触れる権利を得て、一緒に眠る権利を得て、でも未だに手を出せない意気地なしだという事だけははっきりしている。
正直もちろん手を出したい。が、明確な言葉も一切なく此処まで来た俺は、いざとなって自信を無くしている。
「テンマったら。ちょっと、……きゃっ」
実は彼女が起きたときには目を覚ましていた俺だ。朝飯を作る音を聞きながら、そうしてリョウがこちらに来る気配で目を覚ました俺だ。
揺すぶる繊手を柔らかく握ると、これまた柔らかく、力加減をして引く。衣服か彼女自身か、優しい薫りを胸いっぱいに吸いながら、俺は飛び込んできた彼女の上半身を抱き込んだ。
「何よ、起きてたの」
「起きてた」
と答える俺の声は少し掠れていた。
不満そうな顔が見たくて薄く目を開くと、リョウは声の通り少し不満そうに間近で俺を見ていた。
なんだかおかしくて笑う。何よ、と拗ねたような声は、これまで過ごしてきた十数年間より余程感情が載っていた。
俺とリョウの関係が大きく近付いたあの日から、リョウはこれまでの玲瓏とした印象とは異なって、俺に対してだけは(誇張でないと信じて欲しい)感情を声に載せるようになっていた。
空気に流されないところは変わらないし、其の感情だって俺だから判るくらいの僅かなものだが(他の奴らに判ってたまるか)、其れでもリョウはこれまでより確実に俺に心を許してくれていた。
不満な時は不満そうに。不安な時も姉だからと強がりつつ不安そうに。俺に素直に感情を晒してくれるようになったのは、立派な進歩だと思う。
この関係を何と呼ぶのだろう。姉弟以上? 恋人未満? いや、関係の名前なんてどうでも良い。俺たちはただ、一緒にいられさえすれば其れで良かった。
繋いでいる手が離れなければ其れで良い。この抱き締めた細っこい温もりがいつまでも傍にあってくれれば、俺は其れで十分だった。十数年想い続けた温もりが、俺に抱き締める事を許してくれている。其れは望外の幸せで、俺というちょろい獣が牙を収めるには十分すぎる理由だった。
「スープ冷めちゃうわよ」
「猫舌だから良い」
「――そんなの初めて聞いたんだけど」
「初めて言った」
なにそれ。
そう言ってリョウは少し笑う。
其の顔は陽光に照らされて、何よりも美しくて、俺は思わず息を止めた。
今日は薄桃色の右目。湖面の色をした左目。僅かに細められた目蓋の曲線すら愛おしくて、俺は親指でそっと彼女の頬を撫でた。そうして鼻で彼女の鼻先に触れる。なんとなく俺の中でこの動作は『愛している』の儀式のようなものになっていた。
口付ける勇気は未だにないから、其の代わりのようなものかもしれない。柔らかな頬を掌全体で愉しみながら、鼻先でそっと口付けの代わり事をする。
リョウは穏やかに細めた目で俺を見ている。俺は其の左目に、彼女の静かな肯定を見る。拒まれない、其れがこんなに幸せな事だなんて思わなかった。心があっという間に暖かなもので満たされていく。
この流れならいけるのではないか。欲張った俺がそっと鼻先を離し、唇へと視線を落とした時。
「ねえ、本当に冷めちゃうわよ」
リョウの少し冷えた手が俺の頬に触れる。
どうやら今朝はここまでのようだ。余り我儘は言えない。これは弟故の弱みか、其れとも惚れた弱みだろうか。
俺は結局そのまま口付ける勇気もなく、彼女を解放すると上半身を起こすのだった。
春にしては眩しい光が、窓から差し込んでいる。香って来る美味しそうなスープの匂い。俺の腹は正直に、ぐうと音を立てた。
そんな俺を覗き込むリョウ。其の頬は僅かに赤く染まっていて、其の桃のような色に俺の視線は釘付けになる。
「……また後でね」
リョウはそう言うと、そっと身体を離してリビングへと歩いていった。
……後で? 後でなら良いって事か? 俺はリョウの言葉に固まってしまっていた。思考ばかりがぐるぐると回って収まらない。いつもクールな彼女がたまに積極的になると、俺はどうしたらいいか判らなくなる。けど、これまた幸福を感じてしまうのだから、すっかり飼い慣らされているような気もする。
そんな、いつもと変わらない朝。
――そう。
――俺は其れくらいの小さな幸せを握っていられれば其れで良かった。
――ただ、リョウと朝を迎えて、昼を一緒に過ごして、夜に一緒に眠れれば其れで良かったのに。其れは俺たちが俺たちである限り、自然に享受できるものであった筈なのに。
――なんで其れを、よく判らないものに奪われなきゃならないんだ?
●
其の日は突然訪れた。
「――……」
俺は意識を引き戻されて目を開ける。
暗い。しんと外は静かで、きっと真夜中なのだろう。目が覚めてしまった俺は、傍らに足りない事に気付いてそちらに視線を向けた。
リョウがいない。
……トイレだろうか。
だとしても、俺はこのまま眠りたくなくて待っていた。この時点で、俺の中の何かが警報を鳴らしていたのかもしれない。
――帰って来ない。
時計を確認する。5分。帰って来ない。
10分。帰って来ない。
そしてベッドの傍らを確認して、其処に熱がない事を確認すると――俺はがばりと身を起こした。
なんともじめりとした厭な予感がした。深い深い沼の底へ落とされるかのような予感だった。
まずは家の中を探す。
トイレにはいない。リビングにもいない。余り使わなくなったリョウの部屋の扉を開く。いない。
そして彼女のドレッサーを確認した。……義眼の数を数える。7個。全てある。義眼を付けずに何処かへ行った? リョウにそんな事が有り得るのか?
俺は奇妙さを感じたけれども、其れでも一縷の望みをかけて衣服に着替え、外に出た。
家の中にいないなら外にいるだろうという推測だった。
真夜中の幻想は流石に静かだ。
時折草木が擦れあう音が聴こえるばかりで、誰の寝息も聞こえない。
――リョウはこんな深夜に外に出る人間じゃない。
そう主張してくる冷静な俺を脳内で殴って黙らせる。家の中にいないなら、家の外にいるはずだ。
リョウが好きそうな場所は? 風のよく通る、街を一望できる場所。
俺は一つだけ覚えがあった。昔、幻想にやってきた頃の事だ。
●
「依頼?」
俺は思い出す。
幻想に来て初めて依頼を受けたと、リョウが羊皮紙を持って帰った日の事を。
「ええ。“デートスポットに良い場所を見付けたが忙しくて下見が出来ない。下見を代行して、印象を文書にして送って欲しい”ですって」
なんでそんな依頼を受けたんだ、って其の時の俺は呆れ半分だった。どうせならお使いの類を受けた方が楽だったろ、其れ。
「何で買い物代行とかじゃないんだよ」
俺は思わず口にしていた。
リョウは不思議そうに俺を見る。紫陽花を思わせる赤紫の右目。
「楽そうだと思ったからよ。場所も指定してあるし……そうね、夕方になったら行きましょ」
何とも合理的。合理的か? いや、リョウらしいというべきか、何というか。
俺たちはゆっくりと昼食を済ませ、夕暮れを待つ。其の間に俺はというと“リョウをいつか改めて連れていくのも良いかもしれない”とひっそり考えを改めていた。其の頃の俺は恋の熱に浮かされた若造のようで、何かを見る度に夢を見るように、リョウを思い浮かべていたものだ。
まあ、今もそうだろうと言われれば反論の余地はない。
夕暮れになって、俺たちは件の場所に行くことにした。
デートには不向きな、突き刺すかのような夕日の中を進んでいく。住宅街から市場を抜け、郊外へと進んでいく。
俺たちは無言だった。無言でも気まずくない俺たちだった。姉弟だから考えている事は大抵判るし、まして想い人なら尚更だ。リョウはしれっとした顔をしているが、景色に興味がない訳ではないらしい。いつもより速足に歩く彼女をからかうことをしたくなくて、俺もまた、つられるように無言で歩いた。
其の場所は葉桜を抜けた向こうにある、夕日がよく見える丘だった。
「――きれいね」
ぽつり。
着いて初めて、リョウが静かに零す。俺は其れを取り落とすまいと懸命に両耳で捉える。
何と返すべきか迷って、俺は結局「そうだな」としか言えなかった。
実際、此処から見る景色は美しかった。夕日が山の端に沈んでいくのが見える。空の色が輝くような橙色から、宵の紫、そして夜の藍色へと変わって行く。
「……陽が沈むときが良い、って書いた方が良いな」
俺はそう呟いていた。
リョウはこちらを見てぱちくりと瞳を瞬かす。そんな目で見るなよ、俺もいまポロっと出て自分で吃驚してるんだから。
「……。そうね」
俺の気恥ずかしさが伝わったのか、リョウはただ相槌と共に頷くと羊皮紙の端にメモをする。文章を作るのはリョウの方が得意だから、依頼者への報告は任せても良いだろう。
俺たちはそのまま“暗くなった時の確認”という名目で――二人で陽が沈んだ後の空を見ていたのだった。
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そして今、俺はあの道を思い出しながら走っている。
リョウは其処にいるだろうか。いないかもしれない。冷静な自分を脳内で再び殴り倒す。いないなら捜せば良い。何処までも――其れこそ地の果てまでだって、俺はリョウを捜し続けるつもりでいた。
其の為に一生を投じたって良い。俺はリョウがいないと駄目なんだ、駄目なんだよ。
やっとありのままの心で一緒にいられるようになったのに、どうしてこんな事が起きる?
やっと笑ったり不機嫌なリョウを愛おしいと思って見詰められるようになったのに、どうしていなくなってしまったんだ?
リョウは自分の意思で何処かへ行ったのか? 其れとも、俺の知らないところでリョウに何かあったのか?
誘拐かとも思ったが、そう簡単に誘拐されるような女ではない。第一、抵抗する彼女に気付かない俺じゃないし、誰かが家に踏み入れば判る筈だ。
――じゃあどうして?
俺は何がなんだかわからないまま、件の場所に来ていた。
……リョウはいない。
俺は全力で走って来た疲労のままに、丘に膝を突いて宵の空を見上げた。そろそろ夜が明けそうな気配がした。
「リョウ」
俺の声が、虚しく夜明けの風に消えていく。
何処へ行ったんだ。何があったんだ。
返事してくれよ。何事もなかったかのように、俺の名前を呼んでくれよ。
そうしたら、俺は何もかもを許すことが出来る。もとより、リョウを責める事なんて滅多に出来ない俺だ。悪戯だと言われたって、ただ抱き締めて真摯に心配したとしか言えないだろう。
「リョウ」
何処へ行ったんだ。
俺は何も判らないまま大切なものを奪われた気がして、地面を掻き毟る。若草が大地から其の身体を伸ばしている、其の様すら憎々しく思えた。
其の時だった。
――テンマ
俺を呼ぶ声がした。
俺はがばりと顔を上げ、周囲を見回す。
――テンマったら
リョウだ。
俺が寝たふりをしているのを判っているのかいないのか、起こしに来た時のリョウの声だ。
「リョウ」
これが夢だったなら。
夢だったなら、どんなに良かったろう。
判らない。夢なのか? でも引っ掻いた土の感触はいやにリアルで、けれどリョウの声は確かに聞こえる。
あの日見た夕日の方、西へと顔を向けると、輝く何かが浮かんでいる事に気付いた。
「……リョウ?」
其処にいるのだろうか。其の光の中に?
俺は立ち上がり、土を払う事もせず汗を拭う事もせず、光へと手を伸ばす。
愛しさの気配がした。清涼な、左目と同じ湖面の気配を感じて、俺は光に手を伸ばし――
世界がぐにゃりと歪んだかと思うと、俺の意識は暗闇へと落ちていったのだった。