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ヴィールとポチの、最初の七日間
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- 海音寺 潮の関係者
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海音寺 潮が、海洋王都リッツパークの商業地区に出現したワームホールに飛び込んでいく、その少し前の日のこと。
「ほーら。行くぞー、ポチ!」
晴れ渡る空の下、健康的に日焼けした鉄騎種の少年ヴィールが、円いフリスビーを投げた。遥か遠くへ飛んでいこうとするフリスビーを、ポチと呼ばれた体長三十センチほどの鮫が、空を飛びながら追いかけていく。
ポチはフリスビーに追いつくと、はむりとその端を加えて、ヴィールの元へと運んできた。
「よーしよし。いいぞ、ポチ」
ヴィールは褒めながらポチの頭を優しく撫で、撫でられたポチも嬉しそうに尾を左右にパタパタと振る。
その様子を目を細めながら眺めていた潮は、ヴィールとポチの最初の頃を想い出していた――。
「爺さん。何か、オレに出来ることはないか?」
引き取ったばかりのヴィールの言に、潮はふむ、と考えこむ。そこに、切羽詰まったような何かを感じたからだ。
実際、この時のヴィールの内心は切羽詰まっていた。親には幼い頃に捨てられてそれ以降はスラムで育ち、奴隷として囚われそこから逃れてみれば禁断の森に足を踏み入れて命を喪いかけると言うのが、ヴィールの人生だった。その窮地から救ってくれた潮に望んで引き取られたはいいが、ヴィールの中には学校にまで通わせてくれる潮の恩に応えたいと言う前向きな感情がある一方で、潮にまで捨てられたくない、そのためには何か役に立たなくてはと言う恐怖と脅迫観念じみた感情もまた存在していた。
「そうじゃのう……ならば、明日からポチの朝夕の散歩を頼むとしようか」
年の功と言うべきか、その辺りのヴィールが抱えている感情を、潮は見抜いている。そんな相手には、申し出を無下にせずに何かしら仕事を振った方がいいと言う判断から、潮はポチの散歩をヴィールに振ることにした。何より、潮は明日からもそうなのであるが、依頼を受けて時々不在になることがあり、その間にヴィールがポチの散歩をしてくれるのならば本当にありがたいことであった。
「わかった! 任せてくれよ!」
潮の言に、ヴィールはパッと顔を輝かせて、自信満々にポチの散歩を請け負った。
そうして始まったヴィールによるポチの散歩は、すぐに暗礁に乗り上げた。初日こそ、ポチはヴィールに従って付いていったのだが。
「ポチ―。今日も、散歩に行くぞ」
二日目。散歩用のリードを手にして、ヴィールがポチを散歩に連れて行こうと呼びかける。その姿を見たポチは、おろおろと慌てて挙動不審になった。
それを気にしないでヴィールがリードをポチにかけようとすると、ポチは強引にヴィールの手を振り切って逃げだしていった。
(今日は、散歩に行く気分じゃなかったのかなぁ……?)
潮に頼まれた仕事を果たせていないのは気になりつつも、ポチは生き物なのだしそんな気分な日もあるのだろうと、この日のヴィールは流すことにした。
だが、三日目もポチはヴィールから逃げ出した。そして四日目。
「ポチ。今日こそは、散歩に行こう?」
既に二日散歩に連れて行けていないこともあり、ヴィールの心には「今日こそはポチを散歩に連れて行かないと」と言う焦りが生じていた。そのため、ヴィールはこれ以上なく慎重に、ポチを逃さずに散歩に連れ出そうとする。だが。
ガブリ!
追い詰められたポチは、ヴィールの腕に強く嚙みついた。
「うっ!」
鉄騎種にとっては大したことはないとはいえ、思いもよらぬ腕の痛みに、ヴィールは怯んでしまう。ポチは、その隙を衝いてヴィールの手から素早く逃げ出していった。
五日目、六日目に至っては、ポチはヴィールの姿を見るだけで逃げ出した。その素早さ、まるで脱兎の如く。ヴィールが執拗に追えば、ポチも必死に噛みついてヴィールを怯ませ逃げる。それが、何度も繰り返された。
ヴィール自身は気が付いていなかったのだが、この時のヴィールの形相には鬼気迫るものがあり、それに怯えたのもポチが逃げ出した一因だ。もっとも、ヴィールがそうなったのもある意味無理からぬことではある。初日を除いて、何日もの間ずっとポチを散歩に連れて行けていないのだから、ヴィールとしても必死にならざるを得なかった。
七日目。今日こそは散歩を成功させようと必死になっているヴィールは、逃げるポチを追いかけて追い詰めることに成功する。
「なぁ。頼むよ、ポチ。今日こそは、オレと散歩に行ってくれよ……」
ヴィールはじわり、じわりとポチに迫り、ポチを取り押さえようとする。だが、その雰囲気がポチにも伝わったのか、ポチもまた必死になってヴィールに抵抗した。腕と言わず、首筋やわき腹、太ももにまで噛みついてみたり、果ては体当たりを仕掛けてヴィールを押し退けようとする始末だ。
少年とは言え鉄騎種の力であれば、それでもポチを取り押さえることは出来ただろう。だが、予想を超えたポチのあまりの抵抗の激しさに、ヴィールの心が先に折れてしまった。
「何で……どうして……オレの、何がいけないんだよぉ……! このままじゃ、爺さんに見放されちゃうよ……! うううう、うああああああ……!」
部屋中に、ヴィールの慟哭が響く。突然泣き出したヴィールを前に、ポチは距離を置きながらも、困惑したようにあたふたするしかできなかった。
そんな中、依頼のため不在にしていた潮が帰宅してくる。
「これは一体……どうしたのかのう?」
「爺さん……ゴメン。オレ、任せてもらったポチの散歩が、全然出来なくて……」
困惑する潮に、ヴィールは泣きながら謝罪する。そんなヴィールをなだめながら、潮はポチを散歩させようとしたらいつの間にかこんなことになったと聞き出した。
「安心せい。そんなことで、わしはお前さんを見放したりはせんよ。それよりも……散歩に連れて行こうとしてこうなったのなら、初日にどんな風にしたのかやってみてはくれんか?」
「うん、わかった……」
潮の指示に従おうとヴィールがリードを取り出すと、途端にポチがガタガタと身体を震わせて怯え始める。さらにヴィールがリードをポチに結わえ付けると、ポチはバタバタと苦しそうに暴れ始めた。
「……なるほど、それじゃな。ヴィール、もう外してやるんじゃ……それが、ポチの何処に巻かれていたかわかるかのう?」
「え……何処、って……?」
潮の問いに、答えがわからず首を捻るヴィール。
「ここじゃよ……ここに、息をするためのエラがあってのう。それをきつく締め付けられたから、ポチは苦しかったんじゃよ」
そのヴィールに、潮はリードが通っていたラインを示す。そのラインは、確かにポチのエラをしっかりと通っていた。さらに、ヴィールはポチの目に涙が滲んでいることに気づく。
「そっか、ポチは苦しかったんだね。それなのに、全然気付かなくて、本当にごめん……」
初日の散歩でずっと苦しい思いをポチにさせていて、それに気付かず二日目以降も同じ苦しみを強いようとしていたから、ポチはそれを嫌がって逃げた。それをはっきりと理解したヴィールは、深々と頭を下げてポチに詫びる。
そして、潮からの助言を受けてヴィールがリードを巻けば、今度はポチは嫌がることも苦しむこともなく、すりすりと嬉しそうに身体をヴィールに擦り付けてから、素直に散歩に連れ出されていった。
(これで、一安心……じゃな)
そんなヴィールとポチの様子に、潮は安堵し胸を撫で下ろすのであった。