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誕生日。願いの日。
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それは貴方の生まれた日。
もういない貴方の誕生日。
きっとだれも、祝うものはいないのでしょう。
それでも……。
セレスタン=サマエルという『人間』には、二つの墓がある。
サン・サヴァラン大聖堂に存在する、遂行者としてのそれと。
オリオール家一族由来の墓。
そのどちらにも、彼の肉体は収められていない。
彼の肉体は消滅した。
それが、悪魔に魂をささげたものの罰とでもいう様に。
墓参り、とは、誰のために行うものなのだろう?
そこに眠る誰かのためのもならば、そこに肉体のない墓にて捧げられる祈りとは、誰に向けられる祈りであるのだろうか?
そこに眠る魂のため、と、誰かは言うかもしれない。
あるいは、天上に眠るものへ届くのだ、と、言うのかもしれない。
……でも、悪魔に魂を売った彼は――。
きっと魂もなく。
天上に眠るのでもなく。
どこに眠るのかもわからない。
冥府であろうか。
地獄というものであろうか。
……救いのない話をするならば、どれもわからない、というのが実情だ。
あるのかどうかすらわからない。逝ったのかすらわからない。
魂の実存を証明した者はいるまい。天国も地獄も、きっと死んだことのないものにはわからず、死んだ者は現世に関与することはない。
ならば何もわからない。人の身に、死後の世界を語ることなどはできないのだ。
では、なぜ、人は、墓に祈るのだろう。
リアリストな誰かはこういうのだろう。
祈りとは、つまり祈るもののためにあるのだ、と。
今生きる者のためにあるのだ、と。
それはある意味で、現実的な解であるともいえた。
生きる者のための、祈り。
生きる者の心の中にある、死者のための祈り。
そういった意味で、隠岐奈 朝顔の祈りとは、自分の心と頭の中を整理するための時間であるのかもしれなかった。
セレスタン=サマエルさん、と心の中でつぶやく。果たして、その出会いは刹那の邂逅に間違いあるまい。
因縁があったわけではない。
ただ、その『報告』を聞いただけで、どうしても、居てもたってもいられなくなったのだ。
セレスタン=サマエルという人間についての、人となり。
理想と現実のギャップに苦しみ、それでも理想的な人物であろうともがき続けた、セレスタンという男と。
そんなもう一人の自分の在り方に苦しみ、自分自身を救ってやりたいとあがき続けた、サマエルという男。
二人の、『ひとり』。自分と、自分。
結局は、『自分を真に理解し、愛せるのは自分自身だけなのだ』という、哀しい結末にたどり着いてしまった、その者の――。
在り方。
それが、朝顔の胸中を、酷くざわつかせた。
朝顔という人は、恋をする人であった。
恋をし。
叶わず。
その記憶を差し出し。
傷つき――。
そんな自分が、セレスタン=サマエルという人間と似ていると思ったのは。
否、セレスタン=サマエルという人間が、自分と似ている、と感じたのは。
必然であったのかもしれない。
当然のように、惹かれる。
いや、最初は、そういったものではなく――。
ただ。
会わなければならないと、強く思ったのだ。
会って。
何かを伝えなければならないと。
強く。
強く――。
オリオール一族の墓に、彼の名を刻むことができたのは、ジル・フラヴィニーの尽力故か。あるいは、セレスタン・オリオールという人間の無念さを、ようやく天義という国が受け入れてくれたからであるのか。
いずれにしても、セレスタン・オリオールという人間の名は、ここに刻まれることとなった。
それでも、どこか奇妙な感じを、朝顔はおぼえている。というのも、朝顔が出会ったのは、究極、セレスタン=サマエルという人間であって、厳密に言えば、セレスタンとも、サマエルとも、ちがう、第三の人間であるようにも感じられたのだ。だから、朝顔は一貫して『セレスタン=サマエル』と呼び続けていた。刹那の出会いに応じたのは、間違いなく『セレスタン=サマエル』という、ある種哀しいまでの彼ら『二人』の理想であったのだから、それがふさわしいような気も、正解であるような気もする。
となると、ここに葬られているのはセレスタンで、サン・サヴァラン大聖堂に眠っているのがサマエルなのだとしたら、なんだかひどく悲しい気もした。セレスタン=サマエルという理想の人間は、結局どちらにもいないような気がする。
これは言葉遊びにも似ていて、セレスタン=サマエルとはセレスタンでもありサマエルでもあるのだから、つまりどちらにも眠っている、という方が正しいのかもしれない。おそらく多くのイレギュラーズたちはそのように認識しているだろう。彼らの中では、それは納得のいく当然の帰結だ。
話をさかのぼってみれば、祈りとは今生きているための物であるのだとしたら、そこにはつまり納得が必要だと思った。納得とは、朝顔にしてみれば、セレスタン=サマエルという人間をしっかりと眠らせてあげられる場所が欲しいという気持ちだったが、そんな風に考えるのが自分だけなのだとしたら、そのセレスタン=サマエルという人間がねむる生ける墓石というのは、自分であってもいいのかもしれない、なんて少しわがままな気持ちもある。
それでも、結局は何か、祈る『対象』のようなものは必要で、それは結局、多くのイレギュラーズたちがやってくるサン・サヴァランであったり、ジルや一部の人間しか訪れないであろう、オリオールの墓地であったりもする。結局は言葉遊びだ、とは思うものの、こうして静かなオリオールの墓に参って、こうして祈りをささげているわけだ。人がいないというのは、なんだかありがたくも、哀しくもあるものだが。
こうして祈りをささげてみれば、何となく、頭の中にいろいろなものが組みあがっているような気がした。例えば、セレスタン=サマエルという人間についてだったり、自分だったりした。
空っぽの抜け殻だった、と、朝顔は思う。隠岐奈朝顔の抜け殻、で、あったのだ。そんな朝顔にとって、セレスタン=サマエルという人間の死は、ひどく、心をざわつかせるものであった。
彼(と記すが)に共感した朝顔にとって、彼がただ死ぬことだけは、耐えられなかったのである。絶望であった、と言ってもいい。
はじめましてをいいたいんだ。
それを、どの様な気持ちで胸に抱いたのかは、もうきっと思い出せない。
今はそれよりも鮮烈な答えが、心の中に残っていたから。
「また、初めましてをいいたい」、と。
それが夢だ、と語って逝った、彼が。
心の中に、残っていた。
それは朝顔にとって、希望だったのだ、と思う。希望。抜け殻のなかに零れ落ちた、小さな水滴、希望という名の水が、朝顔の中に注がれて、抜け殻が確かに、意志と力を持つような気がした。そうしたことで、ようやく空っぽだった隠岐奈朝顔という人間が生まれて、立ち上がったような気がした。
「そう考えると」
と、朝顔は笑った。
「一緒だったのでしょうね」
貴方が生まれたときに、私は死んで。
貴方が死んだときに、私は生まれた。
そういうものなのかもしれないと思うと、なんだか、うれしいような、くすぐったいような。でも、哀しいような気持にもなるのだ。これが、逆だったならば、こんな気持ちも抱かなかっただろうか。あるいは、まったく同じであったならば、悩むこともなかっただろう。
会いたい、とは口に出さなかった。なんだか、彼を困らせるような気がした。実際、彼は困ったような顔で笑うだろう。「まだその時ではないのではないかな」と、言ってから、それでも優しく笑うだろう。なぜなら彼は、理想の彼であるのだから、彼の理想を、彼は演じるのだろう。でもそれは、彼にとって悲しいことではなくて、なぜなら彼は、名実ともに理想の彼になったのだからだ。苦しいのではない。悲しいのではない。ただ当然のように、当たり前のように、理想を演じ続けられる。あまりにも幸せで悲しい、彼という個人の終着点。
だからこそ、朝顔は、この墓の前では、会いたい、とは口にしなかった。彼が、そう言うことが容易に想像できるからだ。貴方の前では、絶対に、会いたい、なんて言わない。だから、この『思い』は、心の中に押しとどめておこうと思った。今は。
さておき、彼のことを思えば、朝顔の四肢にも、ようやく力がみなぎってくるような感覚があった。これが、恋の力なのだ――などというつもりもなく、その淡い想いは、果たして何と名付けようか、とても悩むようなそれに間違いはない。
ただ、彼の喪失が、あまりにも苦しく、痛く。
ただ、彼の約束が、あまりにも温かく、甘く。
その想いは、今の自分だからこそ感じられるものであり、それ故に、今の自分を肯定するものであり。
ただ、恋、と一言に片づけていいものではない。
と、強く――そう思う。
「だから、今は。この気持ちに、名前は付けようとは思わないんです」
優しく笑う。
目の前の墓碑。
セレスタンという男、あるいは、その先にいる、セレスタン=サマエルという人間へ。
「……実は。
一つだけ、隠し事をしていたんです」
と、朝顔は笑う。
一つだけ。
たった一つだけの、隠し事。
「私の名前は星影向日葵。セレスタン=サマエル・オリオールを想う星影向日葵です」
名前。
ずっと隠していた、本当の名前。
「貴方に名前を呼ばれる時が来たら、きっと、本当の名前のほうが、良いって思ったから。
呼んで、くださいね」
優しく。
笑う。
よんで、くださいね、なんて。
少しわがままだったかもしれない。
でも、きっと喜んで――呼んでくれるのだろう。
それからも、語り掛けるように、向日葵は続けた。
「真面目すぎ。潔癖すぎ。自分に厳しすぎ。弱音を吐けない傲慢。
其れ等は貴方を追い詰めた欠点なのかもしれないけれど。
私は其れすら愛おしいって思ったんです」
祈りとは、今を生きる者のためにある。
今を生きる、自分のために。
で、あるならば、祈りとは、今、向日葵がささげるべき祈りとは、こういうものであるべきだった。
心の内を、整理して。
貴方に、伝える。
今はもう、ここにはいない貴方。
貴方の誕生日、贈り物を送る――のではないけれど。
貴方に、願いをごとをささげたい。
願い。
約束は、必ず叶えます、という気持ちと。
貴方のことを、愛しいと思うという気持ち。
言葉にすれば、心の内に、すぅ、としみいるような気持もあった。
言葉にすればするほど、理解して、解って、納得して、飲み込めるような気がした。
心の内に浮かんでいた、言葉にできないもののを正体を、一緒に解きほぐして、パズルを作るように、その正体を解き明かすみたいな気持ちになった。
「私は……"セレスタン=サマエル・オリオールが前世の他人"で妥協したくない。
貴方に初めましてをして、一緒に生きたい」
わがままで。
きっと貴方を困らせて。
また、困ったように笑わせて。
そうしてしまうの、だろうけれど。
でも。
解きほぐしたパズルの中心にあった、一つの想いは。
貴方に届けられる、一つの願いは。確かに、この言葉であったから。
貴方に、会いたい。
『貴方』に。
他の誰でもない、貴方という個。あなた自身に。
「だから記憶を持って、『貴方』として転生してきてなんて……祈るのは駄目でしょうか」
それは――祈りであり、願いであった。
それはどれだけ美しいものだろうか。
それはどれだけ、彼を困らせるものだろうか。
解っていても。
そういうことだけは、止められなかった。
向日葵が、ゆっくりと立ち上がった。他に誰もいない墓地には、それでも、春の暖かな陽光が差し込んでいた。
「あ、あと。
……ごめんなさい、ついでみたいになっちゃうんですけど」
申し訳なさそうに、向日葵は笑った。
「お誕生日、おめでとうございます。
生まれてきてくれて、出会ってくれて、ありがとう」
それだけは、きっと本心だっただろう。
向日葵はゆっくりと、名残惜し気に、墓石を後にした。
墓石の前には、青い花が、彼の寂しさを紛らわせるように飾られていた。