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いとのさき
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- ヴァールウェルの関係者
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重く痛みを湛えた体は、今はもう不調の欠片もない。いつまでも寝ている訳にはいくまいと、迅香は早々に起き出して朝餉の支度を始める。自らの不注意で負ってしまった怪我を完治させて暫く経つが、うっかりのんびりしていようものなら、いつの間にか主が厨に立ってしまうのだ。自分の仕事だからと言っても、彼が先に厨に入ってしまえば聞く耳を持ってくれない。そんなこんなで幾度かの攻防を繰り返し、迅香が自らの役割を全うするには、常以上に主より先んじて行動しなければならなくなった。
足早に厨へ向かい、扉を開ける。無人の部屋に軽く息を吐いて、迅香は素早く調理の準備を始める。程なくして小走りの足音が聞こえてくるのに、迅香は振り向いて居住まいを正した。
「おはようございます、ヴァールウェル様」
「……おはようございます、迅香」
出遅れた、とでも言うように困り顔で寄せられた眉根。早いですね、と敗北の悔しさのようなものを滲ませて言う主に、迅香は軽く苦笑して返す。
「これが、貴方様に仕える私の仕事ですから」
「……」
不服そうに表情を曇らせる様は、大らかな彼らしくない。どうにもここ暫く、彼はいつも通りでいてくれようとしないのだ。理由は訊かない。主に対して疑問を持つなど思い上がりも甚だしい。――そう言い聞かせる事で、迅香は思い当たる違和感に見ないふりを続けていた。
とぼとぼと厨を去っていく主の姿を察して、その後ろ姿は振り返らない。軽く頭を振って思考を朝餉の支度に戻し、迅香は手早く作業を進めていった。
掃除に、洗濯。気を抜けば率先してヴァールウェルは迅香の仕事を奪っていこうとするので、一秒たりとも油断は出来ない。それでも年季の入った熟練の手腕は簡単に屈するものでもなく、今日も迅香は無事に朝の仕事の全てを死守する事が出来た。
昼餉までの僅かな空き時間、迅香は縁側に座り、ぼうっと庭を眺めている主の姿を見た。桜の時期にはまだ早く、寒波に色を失った草木は閑散としている。庭の景色を愛でる主の姿は四季を通して茶飯事だが、未だ肌寒い時分に観賞が捗る景観はない筈だ。
お身体に障ります、といつぞやのように声を掛けるのは、先頃まで怪我を負って寝入っていた自分が言えた事かと憚られた。ならば羽織の一つでも持ってくるかと考えたが、常なら当たり前に出来ていた筈の従者としての振る舞いに、どういう訳だか足が竦む。こういう時、自分は主にどう接していたのだったか。――無防備に眠る彼の姿に魅入られた少し前を思い出す。眠気に蕩けた舌足らずで名を呼ばれて、その体を抱き上げた感触を。蜜色の瞳がこちらを見るのに、逸る胸がざわめいた心許なさを。
「迅香」
そぐわぬ思考が霧散する。立ち竦む迅香の姿に気付いたのか、ヴァールウェルがこちらを見て微笑んでいた。ぐっと唇を引き結び、罪悪のような何かを飲み下す。はい、と零れるように落ちていった返事は僅かに掠れていた。
「隣、どうですか」
傍らの板間をぽんと叩いて示す主に、迅香は逡巡する。
「……では、お茶を淹れて参りますので――」
「迅香」
理由を見つけたとばかり、席を外す口実で背を向けようとする迅香に、引き止める声が飛ぶ。まるで先回りしたかのような速さでもって掛けられた声に、目を見開いて迅香は対した。
「……こちらへ」
「……御意」
今この場においての形式張った返答は、主の望むところではないのだろう。それを理解した上で、ほんの僅か撓んだ猶予が恐ろしくて。迅香はそう答えては、気休め程度の距離を取る事しか出来なかった。
「……本当は」
足を伸ばして座る主の傍ら、迅香は背筋を伸ばした跪坐にて添う。そうして、小さく落とされて懺悔めいた主の言葉に耳を澄ます。
「こうして貴方の時間を貰う事すら、傲慢だとわかっているんです」
一体、何を。長年の主君と従者という立場から、主の全てを受け入れ、その意のままにと過ごしてきたのが迅香だ。それこそ生命も、身体も、時間すら、迅香の全てはヴァールウェルの為に在ると言って良いくらいなのに。傲慢、などと。何よりも迅香自身が考えた事もなかった。
「……沢山考えました。貴方の事。あの日から」
「あんまり当たり前になりすぎてしまっていたから、考える事すら放棄していました」
そうして主は言った。自分達の間に流れる時間の流れは、その早さが異なるのだと。精霊種であるヴァールウェルは、自然発生した概念的側面が強い。木の精霊を名乗る彼の本質は地に根付く木や緑といった、この世界を形作る根本にも近いものだ。不老不死とまではいかずとも、その中に流れる時の早さはごく緩やかなものに違いない。目に見える成長を遂げ、体格も背丈も主を越していった迅香を例に出せば、ヴァールウェルが対照的である事は明らかだ。
「僕の時間は余りに緩慢で。それに対して迅香、貴方の時間は……一秒でさえ、とても貴重なものだというのに」
そんな中で主に尽くし、忠義を全うしようとした迅香に対して、ヴァールウェルはしみじみと礼を述べて感謝を表した。迅香にとっては当然の行動であって、主から謝辞を賜る事すらおこがましい。おやめ下さい、と主を制す迅香に、彼は沈鬱に表情を濁らせてこちらを見返した。
「……僕は、貴方の覚悟を軽んじるような事を言ってしまったのかもしれません」
「そんな、事……は」
即座に否定を返そうとして、言葉が続かなかった。あの日のやりとりの中に、思い当たる事があったからだ。とはいえ、迅香自身は彼の言うように軽んじられたなどとは思っていない。むしろ身に余る事だと思った。彼の言葉を退けたのは迅香の方で、それは唯一主の命に背いた一件でもあったのだ。
身を挺して主を敵の一撃から守り怪我を負った迅香に対して、そんな事は望まないと、自分の命を擲つような事はしないでほしいと、ヴァールウェルはそう願った。だが迅香にとっては、自分の身一つで主の生命を守れるのならばこれ以上の事はないと、当然頷く訳にはいかなかった。この一件に対し、主は互いの時の流れの違いも含めて、迅香の覚悟を軽んじてしまったと悔いているのだ。一分一秒がヴァールウェルに比べ、恐らくは短く貴重な迅香が、その時と命を、緩慢なヴァールウェルの生を長引かせる為に消費する。その覚悟を。――貴方様が、そんな風に思う必要はないのに。あの時確かに、その言葉に寄り添いたくなった自分がいた。共に生きたい、とこちらを見つめる主の瞳を、あれからずっと忘れられずにいるくらいなのだ。けれどそれは、従者には過ぎる。待遇も、そしてそれを受け入れる事によって表出するであろう自分の感情も。だから、彼に仕える者として、そのあたたかで甘やかな言葉を受け入れる訳にはいかなかった。
「……それでも」
ヴァールウェルが顔を上げる。不安や恐れ、他にも察しきれない様々な感情を内包しながらも、真っ直ぐにこちらを射抜くような力強い視線で。
「たとえそれが、貴方の信念を捻じ曲げる事になったとしても」
柔らかで優しい。そんな人柄のヴァールウェルから零れる、強い言葉。
「僕は貴方と共に生きたい」
あの日と同じ、けれど明らかに違う言葉。痛ましいくらい、今にも壊れてしまいそうなくらいに小さく震えていた彼は、堂々たる佇まいでこちらを見上げている。
「貴方の時間を、人生を、僕にくれませんか」
それは、新たな誓約めいて。
二人の間に落ちてきたその言葉に、迅香は息を詰まらせる。ヴァールウェルは彼なりに考えた上で、改めてこの結論を出した。二人の間を阻む時の流れを無視するのではなく理解した上で、それでも尚、迅香と共に生きたいと、迅香の過ぎた献身を諭している。信念を捻じ曲げる、といった先の文言から、彼の中では主従の関係すら反故にしても良いとさえ思っているのかもしれない。忠義が迅香の生を、ヴァールウェルの隣に添う未来を阻むというのなら、そんな枷は無くしてしまって良いのだと。
沢山考えた、と言っていた主の言葉を反芻する。戯れのような家事の奪い合いも、元より彼のこの結論から導かれていたのかもしれなかった。そこまで、従者であり、育ててもらった恩義すらある自分の事を考えてくれた。ならば自分も、もう
「お言葉、大変嬉しく思っております」
逸る胸を押さえ、千々に乱れた感情に翻弄されながらも、迅香は努めて静やかに言葉を紡ぐ。
「貴方様に仕え、御身を守るという使命を……不敬ながら投げ出して、そのお言葉に全てを捧げたいと、思ってしまう程に」
言い終えて、主から立ち上る晴れやかな空気と、緩んでしまいそうになる緊張感に、迅香はぐっと強く両の拳を握り締める。
「けれど私にはわからないのです。そのお言葉を受け止めて良いのかどうか」
「……どういう、事でしょう」
純粋に疑問を問う主は、そこに障害があるなど思いも寄らないといった表情をしていた。それを歪ませるのは本意ではないがと、迅香は胸を痛めながらも言葉を続ける。
「日頃より私は、ヴァールウェル様に対して従者としてあるまじき情を抱いておりました」
「それは、どういう……?」
ここまで言ったのなら、当然説明しなければならないだろう。それは例えば、縁側でうたた寝をする主の寝顔を盗み見て、そのすべらかな頬や口元、長い睫毛に釘付けになってしまう事だとか。触れた肌の熱や、柔く甘い声音に焦がれて仕方のない事だとか。添い寝を望まれて痛む胸の罪悪と、反する渇望だとか。その笑顔を見る度、自分を呼ぶ声を聞く度、胸と腹に積もっていく苦く甘く重い、何かの事だとか。
「……触れたい、と」
どう言葉にして良いものかもわからなかった。だから一番手前にあったものを適当に吐き出した。拙い、まるで子供の我儘のような単純な言葉は、けれど迅香の切なる願望に他ならなかった。
迅香の言葉を聞いたヴァールウェルは、面食らったように瞳を見開く。ぱちぱちと二、三瞬いて首を傾げた彼は、強く握られていた迅香の右手を取る。
「それを、僕が許したら?」
そうして、強張った迅香の手を優しく解いて、その手を自分の頬に滑らせる。掌に触れる体温と柔い感触に迅香が驚いて手を引こうとするのを、上から添えられたヴァールウェルの手が逃さない。
「触れてほしい、とは、思いませんか」
迅香の手を捕まえたままヴァールウェルは背を伸ばして、逆の手で今度は迅香の頬に触れてくる。至近に主の瞳を覗き、互いの頬に触れ合っている。指先から、頬から、耳裏から、じわじわと這い出した熱が体を火照らせていく。主の言葉と行動と、全てが想定と許容を超えていて、迅香は問い掛けに答える事も出来なかった。蜜色が柔く細められるのに、ただただ呆けて見惚れてしまう。
「貴方が僕で育んでくれた
愛情。ヴァールウェルの言葉に、自分が彼に抱いている情が愛情であるのだと気付かされる。何なら彼を害する可能性すらあるような、もっと危険な情だと思っていただけに、安堵と疑問が湧き上がった。
「僕はそれを、迅香にあるまじき情だなんて思いませんよ。貴方が僕の
愛情の、かたち。それを主は把握していない。そして迅香自身も。
「貴方を、僕に下さい。……迅香」
その言葉に、全てを捧げてしまいたいけれど。
「……もう少しだけ、お待ちいただけませんか。必ず、答えを出します、ので」
曖昧なまま、主の伸べる手を取る事は出来ない。己が本当に主にとって害を生ずるものでないと確信出来るまでは。未だ高鳴ったままの心拍に切れ切れの声で漸く返せば主は、構いませんよ、と微笑む。喉が渇きましたね、と席を立つ主の姿。放心状態の迅香は、それを追う事さえ出来なかった。
- いとのさき完了
- NM名杜ノ門
- 種別SS
- 納品日2024年03月27日
- ・ヴァールウェル(p3p008565)
・ヴァールウェルの関係者