春の食卓

登場人物一覧

　それは、春ののどかな昼下がり。決しておおきくはないが、三人暮らしには十分の広さがある屋敷の広間で、男が新聞を読んでいた。
　ギプスで固定された右腕を肘掛けに乗せて、利き腕の左腕で頁をめくる。軽い足音が近づいてきて、幼い少年がキッチンから顔をのぞかせる。
「父さん、できたよ」
「ああ」
　息子の言葉に頷いて、男は新聞を読む手を止める。ゆっくりと立ち上がろうとするも、片腕でのバランスはすこしばかり取りづらい。少年は戻ってきて、静かに彼の肩を支えた。
「すまないな」
「ううん、いっせーので立とう」
　いっせーの。息子の手助けのおかげで、怪我をしていない両脚はしっかりと立ち上がる。ふたりはそのまま食卓へと向かい、父親はいつもの席へと座った。
「今日はウェラが昼食を作ってくれたのか」
「うん。上手にはできてないと思うけど……母さんのレシピ通りじゃないかも」
　父の言葉に、ランドウェラはちょっぴり申し訳なさそうにする。けれど、そんなことはないさ、と男は息子の並べてくれた料理を見た。
「ウェラが私のために作ってくれたんだ、美味いに決まっているさ」
　さぁ、食べよう。そう言って食事の前のお祈りを済ませ、男はクリームスープをひと口。
「……うん、やはり美味い」
「ほんと？」
　様子を窺うランドウェラに、父はやわらかく目を細める。
「私が嘘を言ったことがあるか？　具材がきちんと煮込まれていて、コクがあるな。これを食べられない母さんはもったいないことをしたな」
　今日はどうしても外せない用事があった妻は、一日家を空けている。息子に怪我をした夫を託し、夫に幼い息子を託した彼女は、いってきますのキスを落としていった。
「ウェラも冷めないうちにお食べ」
「うん」
　和やかな昼食の時間、ふたりはたくさんの話をする。学校で新しい友達ができたのだとか、この前の授業がとても楽しかったのだとか。いつも控えめな少年は、両親へとうれしげに近頃あった出来事をすこしずつ報告していく。
　寡黙な父親は、家族と居る間だけはその雰囲気を緩ませる。時折頷いたり相槌を打ちながら、彼の話をしっかりと聞いてやっていた。

　食事を終えると、ランドウェラは食器を片付けようとする父親を制止する。
「僕がやるから、父さんは座ってて」
「せっかくだ。私にも出来ることは手伝わせてくれ」
　やさしくそう言われれば、断る理由もない。それじゃあ、と少年は頷いて、食器をキッチンまで持ってきてもらうことにした。
　器用な父は片腕で汚れた皿をてきぱきと持ってきて、息子はそれを丁寧に洗っていく。濡れた皿を息子が拭いて、父がそれを食器棚へと戻す。
　なんてことのない作業だけれど、母は普段これを毎日やっているのだと、ふたりで彼女への尊敬の念をあらたにしていた。
「夕食は私も手伝おう。母さんの分まで用意しておけば、きっと喜んでくれるだろう？」
「うん、一緒につくろう！　あ、でも、包丁は僕が持つからね」
「何故だい？　利き腕は無事なのだから、片手でも問題ないが……」
　不思議そうにする父に、ランドウェラは首を横に振って、片手をぐっと握って拳の形をつくる。
「包丁を持たない手は、具材を猫の手で持つんだよ。だから父さんには、別のところを手伝ってもらうからね」
　妻の教えを忘れない息子に、なるほど、と男は頷く。ここ数日の間、自分の怪我を心配して何かと世話を焼こうと頑張っているランドウェラの姿を見るために、わざと困ったふりもしていた。
　それが親として良いことなのか、正直言って自分では判断がつかないけれど。息子の笑顔と妻の見守る眼差しに、男はそれを良しとした。
「ウェラ」
「なあに、父さん」
　そっとギプスの右腕を左手で撫でつつ、愛する息子へと声をかける。
「腕が治ったら、お菓子屋さんに行こう。お前のすきな金平糖を硝子瓶いっこ、買いに行くんだ」
「いいの？」
　目をまんまるくした少年に、ああ、と男は微笑む。
「手伝いをしたご褒美……あるいは私からの礼だと思ってくれ、約束だ」
　その言葉がうれしくて、ランドウェラは満面の笑みを見せた。
「うん！」

　ぱたん。その小説を閉じた少年は、不機嫌そうに本を端へと追いやる。時折ノイズの奔るその本に描かれた父子の幸せそうな光景は、ロードにとって痛みを伴う内容だった。
「……くだらねえ」
　これは、あったかもしれないIFの物語だ。現実ではありえなかった、そんな夢の出来事だ。
　居もしない誰かにそう突きつけられているようで、ただただ苛立ちがつき纏う。
　いっそこの場でこの本を破壊してやろうかとも思ったけれど、ロードはその場を立ち去る。

　――そんなことは、とっくの昔にわかっているんだ。