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雨だれのサァカス

登場人物一覧

フラーゴラ・トラモント(p3p008825)
星月を掬うひと
フラーゴラ・トラモントの関係者
→ イラスト

 雨が降っている。
 ばたばた、ばたばたと、音がなっている。
 テントをたたく音だ。ばたばた。ばたばた。叩く。雨が、テントを。サーカステントをたたいている。
 何かを呼ぶように、なにかから逃れるように。ばたばた、ばたばた。
 ばたばたばたばた。
 ばたばたばたばたばたばた。
 ばたばたばたばたばたばたばたばたばた。
 雨。
 落ちる。
 ぎゃあ、と――。
 子が泣いた。
 赤子が泣いた。ぎゃあ、ぎゃあ、と。産声か、あるいは。
 母が怖くて、泣いているのか、と――。
 その獣は、その雨の日に、ヴィヴィアンと名乗る女の腹のうちより生まれ出でた。


 さぁさぁ、良い子も悪い子も寄っておいで。これより幕が上がります。雨だれのサーカス。
 今日の演目は、真っ白な獣。一匹のピエロが演じます。喜劇でございます。喜劇でございます。


 サーカスの大スター、【サーカスのガーネット】ヴィヴィアン来る――。
 踊り狂う原色のぽすたぁも、その獣にはなんだかわからない。
 ただ、びかびかいろいろな色が躍って、綺麗だなぁ、と、思った。もちろんこれも、明確に言語化できたものではない。
 獣は、白い髪と白い肌をしていた。薄汚れたぼろを着て、獣のための首輪をつけていた。獣に言葉は必要なかったから、あーとか、うーとか、ぐうるるる、とか、そういう風に鳴いていた。獣は人間の姿をしていたけれど、獣だった。人間を人間たらしめるものは何であろうか? 自覚であろうか。あるいは、他者が人と規定するがゆえに人たり得るのだろうか。
 であるならば、あらゆる意味で、その獣は人間ではなかったのかもしれない。少なくとも、このサーカスの人間は、その獣を人間扱いしてなかったし、その獣にとっては、自分が人間である、という『自覚』はまだ持てるほどの情緒の発達をしてはいなかった。そして人を人たらしめる文化の一つ、言葉と文字も、獣は持ち合わせていなかったから、綺麗だなぁ、というそれは、なにかわくわくと、うー、がうう、となる『想い』であって、その獣が『綺麗』という言葉やその意味を理解していたとは言えない。
 なんにしても、である。一般的な『倫理観』を持つものであれば眉を顰め世の悲劇を嘆くような状況に、その獣は置かれていた。少なくとも人の腹の内より生まれた、分類上は人間であるであろうその獣は、前述のとおり、しかしこのサァカスにおいては獣であったのである。

 獣は、ある日団内の誰かが産み落とした。ああ、これはもはや団内では周知の事実であったが、ヴィヴィアンというサーカスの花形スタァ曲芸師が産み落とした私生児に違いなかった。ヴィヴィアンは花形のスタァであり、客にもたいそう人気があったが、それでもその内面は華やかさとはかけ離れた、どす黒い毒花のような女だった。男遊びは派手で、誰もかれもが、あの獣は俺の子なのだろうか、と気をやきもきしていたが、ヴィヴィアンは「あれは私の子ではないから」と言っていたから、男たちもたいそう救われていた。
 ヴィヴィアンは、もともとその白い獣を産み落とすつもりはなかった。子供を作るつもりもなかった。だが、仕方なしに生まれたその子供を、最初はサァカスの動物の餌にしてやろうと思って檻の中に放り投げた。2,3日もすれば食われて死ぬだろうと思った赤子は、何とも薄気味の悪いことに、白い狼のメスの乳を吸って生きていた。
「ああ、なんと気持ちの悪い獣なんだい」
 ヴィヴィアンは心底吐き気を覚える心持であって、いよいよサァカス裏のドブにでも捨ててこようかと思ったのだが、仏心を出したのは、サァカスの団長の男だった。
「まぁ、まぁ、見世物くらいにはなるだろうぜ。白い狼に育てられた、人間ケモノだ。
 花形といえばヴィヴィアン、お前だが、脇を彩るあだ花くらいは、この貧乏サーカスにはいくつあっても足りないくらいだ」
 団長の真意などは今となっては不明であるが、いずれにしても、獣はここで命を拾ったわけである。

 それから何日か、何か月か、何年かたって、獣が人の形で、自分で動いて走り回れるくらいに大きくなった。獣は檻の中が住処で、サァカスの中では人間扱いされなかったけど、それが当たり前の環境にいた獣は、それが悲劇的なものだとはついぞわからなかった。それが当たり前で、檻の外にいるのが人間で、檻の中にいるのはワタシたち、なのである。ワタシたち、とは、例えば、白い狼とか、ライオンとか、虎とか、熊とか、そういうものだった。それを獣というのだということは、何となく、外の人間の鳴き声で分かったような気がしたし、その人間の中でも、ことさらに『心地よい声』をあげる、ヴィヴィアンと呼ばれる女が、獣にとっては、何か特別な存在であるように感じられていた。
 獣は見世物であって、労働力であった。首輪をつけられて、ぼろを着せられて、簡単な雑用に駆り出されていた。獣は文句ひとつ言わなかった。そういうものだったからだ。殴られても蹴られても、鞭で打たれても、いたいとか、苦しいとか思っても、それはその瞬間に発生する何か大きくなるものだった。それが後を引きずることはなかったし、そういったものを、未だ獣の情緒は持ち合わせていなかった。
 それよりも、働いているうちは、『ヴィヴィアン』の傍にいられることが嬉しかった。ヴィヴィアンの声は、獣にとってとても心地よかった。まるで、くらいくらい穴倉の中にいて、何も見えずに、何も感じず、ただただ温い水の中で揺蕩っていた時に、それを通して聞こえた。最も近くて、最も最初の声に、近いような気がしたのだ。獣に、母という概念はない。とはいえ、獣が、獣の腹の内から生まれる、ということは知っていた。自分に乳を吸わせてくれた、白い狼の腹の内から、真っ白な子狼がぽろぽろと生まれたのを、獣は目撃していた。ああ、きっと生命とはこういう風に発生するのだろうな、と、獣は獣なりに理解していた。となると、自分という獣もまた、なにか白くて、大きくて、暖かなものからぽろりと零れ落ちたのだろうと、獣は理解している。その、白くて大きくて、暖かなものが、ヴィヴィアンという人間であったならばいいな、と、獣は思っていた。

 『お母さん』という鳴き方、あるいは鳴き声があるのだと知ったのは、いつものようにサァカスの檻の中で、白い狼たちと見世物にされていた時だった。多分、獣と同じくらいの年齢である男の子が、大きな女の人間の服の裾をつかんで、そう呼んだのだ。
 お母さん、というらしい。大きな女は。
「お母さん、あの白い狼は、あの子たちのお母さんなの?」
 と、子供は問うた。指をさす。白い狼を指さして、お母さん、お母さん、と、子供は言う。
 白い狼は、お母さん、なのだ。ならば、と、獣は思った。ならば、ヴィヴィアンとは、お母さん、というものなのではないか、と。獣を、ぽろりとこの世に落としてくれた、大切な、大切な、ものであるのだ。そうであったらいいと思っていたし、獣は獣ながらに聡明な子であったので、周りの人間の反応を感じながら、何となく、そうなのだという確信を持った。
「おあああん」
 と、獣は鳴いた。おかあさん、と、言ってみたかった。が、学も、練習もない獣には、その言葉を紡ぐことはできなかった。
「おあああん」
 獣は鳴いた。子供たちが指をさして笑った。
「お母さん、獣が鳴いているよ」
「おあああん」
「獣が、鳴いているよ」
「おあああん」
「鳴いている! 鳴いてる!」
 おかあさん。おかあさん。
 おあああん。おあああん。おあああん。
 獣が鳴いている。


 獣はお母さんが好きだった。だから、睨まれても、疎まれても、叩かれても、けられても、そばにいようとした。
 おあああん、が好きだったから、そのように鳴いた。鳴いたけれど、そのたびに、気持ち悪いと、蹴り飛ばされた。
 おあああん、おあああん、鳴いても、鳴いても、それが伝わることはなかった。これが言葉になったとしたら、より悍ましく、ヴィヴィアンはその獣に恐怖を覚えたに違いない。獣が言葉を使えなかったことは、不幸であり幸福であった。本当に、どん底に、獣をたたき落とすことがなかったのは、獣が言葉を使えなかったからであった。
 その日も、獣はおあああんに寄り添っていた。厳密にいえば、限りなくヴィヴィアンが逃げ出さないぎりぎりの距離に――それでもだいぶ遠いが――いられただけであったが、それは獣にとっては、寄り添う、ということであった。限りなく、おあああん、に、近寄れる、という幸福に間違いなかった。ヴィヴィアンは、そんな獣を薄気味悪く思いながら、遠巻きに――物を投げても当たらないくらいの距離で――覗いてくる獣を、本当に、本当に疎ましく思いながら、今日の雑務に従事していた。その日は午後から雨が降って、サーカスの客入りも些か減るであろうことが、ヴィヴィアンの憂鬱の種でもあった。加えて、先日の一件で、ヴィヴィアンは団長に呼び出されていた。この先日の一件が何であったかなどを、誰かほかの人間が知る必要はないだろう。他愛のない話であり、知ったところで何の意味も価値もない話であったからだ。
 獣は、ヴィヴィアンが人目を忍んで、団長のテントに入っていくのを、いつものように穏やかな気持ちで見つめていた。おあああんは、とても綺麗だった。きらきらとしていて、ひとめをひいて、あの原色のポスタァのように、胸の内をワクワクとさせるものを持っていた。いつまでも見つめていたい気持ちだった。大好きだった。おあああん。
 獣がそのまま、雨に打たれながらもヴィヴィアンを待っていると、にわかにテントの中が騒がしくなっていた。それが口論なのだとは、獣にはわからなかった。その言葉の内容が、奔放なヴィヴィアンをとがめる、男の嫉妬であり、男女の口論であることなどは、獣にはわからなかったのである。ただ、獣はそれを、おあああんの、危機だと認識した。大好きな、おあああんが、泣いている。いじめられているのだ。だったら、助けに行かなければならないと、とっさに思った。
 獣は四つん這いになって走った、あの、乳母である白い狼のようにだ。白い狼が、獲物を狩る方法を教えてくれた。噛みつけばいいのだ。ワタシたちの牙は鋭い。ワタシには、白い狼のような鋭い爪はなかったけど、牙だけは、負けないくらいにたくさん生えていた。
 獣がテントに飛び込むと、団長がおあああんの腕をつかんでいた。もうそれだけで、獣の頭の中は真っ赤になった。真っ赤で、ぐつぐつと煮えて、もう、何もわからなくなっていた。
 獣が何事かを叫んだ。
 がるるがが、とか、おあああん、とか、うぐ、うがぁ、とか、そういう、ものだった。次の瞬間には、獣は団長にとびかかって、その首筋にかみついていた。鋭くとがった犬歯にが、団長の首に食い込んだ刹那、獣は白い狼がそうしていたように、団長の首筋をかみちぎって見せた。
 ばしゃり、と、血が噴水のように飛び散った。白い獣が、赤く染まる。鮮血の中で、獣は笑った。
 まもれた。おあああん。まもれたよ。
 泣きたいくらいに嬉しかった。生まれて初めて、好きな人の役に立てたのだと、感覚的に、獣はそれを理解していた。
「あ、ああ」
 ヴィヴィアンが叫んだ。
「あなた! あなた! しっかりして、しっかりして、あなた!」
 あなた、と、それは言った。
 それがどういう意味なのか、獣にはわからなかった。
 それが、己の伴侶を指し示す言葉であることなどは。
 であるならば――獣の父とは、今しがた、獣が食い殺した男であることなどは。
 獣には――わからぬのである。

 雨が降っている。
 ばたばた、ばたばたと、音がなっている。
 テントをたたく音だ。ばたばた。ばたばた。叩く。雨が、テントを。サーカステントをたたいている。
 何かを呼ぶように、なにかから逃れるように。ばたばた、ばたばた。
 ばたばたばたばた。
 ばたばたばたばたばたばた。
 ばたばたばたばたばたばたばたばたばた。
 雨の中に、血が染みて流れた。


 さぁさぁ、良い子も悪い子もお帰りよ。これより閉幕。雨だれのサーカス。
 今日の演目は、真っ白な獣。一匹のピエロが演じます。喜劇でございます。喜劇でございます。
 なんとも哀れ。ああ、哀れ。愉快な愉快な、喜劇にございました――。

 閉幕。

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