SS詳細
ひとにまぎれるもの
登場人物一覧
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振り回された鉤爪の先が、喉首を皮一枚で通り過ぎる。
上体を反らし、辛うじて難を逃れたものの、その一時の安堵に身を委ねるわけにはいかず、意識を前方へと集中させた。
片目を抑えて奥歯を強く噛みしめる。痛い。痛い。緊張を、意識を、生命を容赦なく刈り取ろうとする痛み。それに懸命に耐えながら、ナナセはふたつの思考を同時に巡らせていた。
次の一手をどのように凌ぐか、そして、この状況をどう覆すのか。
劣勢は明らか。これを見逃してくれるような相手とは望めない。
距離を意識する。即座に飛びかかられようと対処できる。これはまだそのような距離であり、向こうもそれをわかっているのだろう。巨大な鉤爪が僅かに割いた皮膚の一部を丹念に舐め取りながら、しかしその視線は油断なくこちらを見据えている。
じり、と、小さくすり足で向こうが距離を詰めれば、じり、と、同じだけの距離を開ける。
圧されている。気圧されている。状況はけしてよくはなく、打開できねば生命が危うい。しかし、摩耗した精神は己の意志とは裏腹に、別のことも考え始めていた。
乃ちは、どうしてこのようなことになったのか、そういったものにだ。
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妖魔『紛異人』はマガイビトと読み、いわゆる、チェンジリングの一種である。
赤子の頃にすり替えられ、ある一時までは他の人間と同じように育つのだ。
成長するに連れ、育ての親と似た顔立ちになるという特性があり、また社会的に溶け込むことも得手としているため、本性を表すまでは気づかれることがない。
そうして、成長をし、ヒトを圧倒できるだけの膂力を蓄えたところで、本性を表すのだ。その本性とは人喰いのそれである。彼らは一定の頃より、それ以外での栄養を接種できなくなるのだと考えられているが、実のところ定かではない。誰も、自身を食用とする怪物に近づきたくないからだ。
紛異人は人間の平均を遥かに上回る強靭さを誇るものの、厄介な点はそこではない。それらの迷惑極まりないところは、人間社会に溶け込んだ半生に集約しているのだ。
ひとつ、本性を現した際に、周囲の対応が遅れやすい。ヒトを狩るためにその手を大きな鉤爪に変貌させ、牙を剥き、攻撃性を見せるものの、その顔はこれまで親しんだ子であり、友であり、場合によってはパートナーたることもありうるのだ。愛着が、信頼が、正しいロジカルへの邪魔をする。食われるなどと最後まで信じず、紛異人に着く育て親というのもあるくらいだ。
ひとつ、技術を身に着けてしまう。人間社会に溶け込むということは、その中で生活をし、仕事をし、時には家業を受け継ぐこともあるということだ。以前は『人喰い農夫』などと呼ばれていた紛異人であるが、その理由は農村での出現率が高いためであったが、いつの頃からか、特殊な技術を持った家庭と取り替えることを好み始めた。鍛冶師の家に紛れれば武器を作り、猟師の家に紛れれば弓に長ける。今回のそれは、術師の家に紛れていた。そう、術式を身に着けているのである。
ひとつ、擬態が得意であり、人間社会を覚えてしまうため、取り逃せば鉤爪を隠し、また別のコミュニティに紛れてしまう。討伐するならば、狩人の存在を悟られてはならず、一度の邂逅で何もかもを終わらせる必要があった。
本来ならば、鹿王院などという大家の伝手を辿り、正式な手順を踏んで依頼している時間などない。そうしている間に、小さな冬村など食い尽くされ、誰にもことを知られぬまま、紛異人は逃げ出してしまっていただろう。
だから、ナナセがその村に訪れたのは偶然に過ぎない。たまたま仕事で近くに寄り、この村に知人の術師が居を構えていたことを思い出し、挨拶に訪ねてきただけだったのだ。
しかし、ナナセは村に足を踏み入れてすぐに、その異変を感じ取った。
死臭がしたのである。
それはただ、死体の臭い、というわけではない。血生臭さ、というだけではない。村全体を覆う悲痛さ、暗澹さ、すすり泣く声、やけっぱちになる声、憂鬱、無気力。
それらを綯い交ぜにした独特の空気は、死によってしか作り得ないものだ。
なにか大変なことがあったのだろう。そう察したナナセは、知人の家に急いだ。
「ナナセ君。君ならなにか知っているでしょう。ねえ、あの子がそうだなんて。別のなにかだってことはないの?」
事情を聞いたナナセに、中年に差し掛かった女性、知人の術師がすがりつくように問いかけた。
彼女の子が、子だと思って育てていたものが、紛異人であったのである。それは術式の訓練中に本性を現し、彼女の夫、育ての父を殺害すると、そのまま、その場で食事を始めたのだ。
異常を感じ取り、その場に駆けつけた彼女が見たものは、今まさに夫を喰らおうとする怪物の姿である。急ぎ術式を展開し、攻撃を試みるが、それに分が悪いと感じたのか、怪物は夫の腕だけをもぎ取ると、その場を走り逃げたのだという。
追いかけることもできた。しかし彼女には夫の安否を確認する必要があり、何より、逃げていった怪物の顔を見た。見てしまったのだ、そこに我が子の顔が張り付いているのを。
それがなにか、彼女は知っていた。だが同時に、知りたくはなかった。信じたくはなかった。せめて自分の娘がなにか悪いものに憑かれていて、それを取り除けばもとに戻るのだと信じたかった。
しかし、ナナセは首を横に振る。
彼女もわかっていることだ。それを彼女自身の知識が、経験が、プライドが証明している。あれは紛異人と見て相違ないのだと。
その場で泣き崩れてしまうが、彼女は理解している。妖魔を狩るために必要なのは、冷静さと判断力であって、感情ではない。知恵のある相手であれば、なおさらだ。
しかし、自分では討伐できないこともわかっていた。我が子の顔をした怪物に手をあげられるほど冷徹に離れない。
だが、見逃してくれというつもりもない。あれは自分の夫と子を殺害したものであるのだから。
だから、頼み込んだ。彼女が知る限り、術師として最高峰に立つ彼に。
「お願いよナナセ君。あの怪物を、討伐してちょうだい」
すでに涙を流していない彼女に向けて、ナナセはなんの逡巡もなく頷いた。
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結論から言うと、浅慮な行いであったということは疑いようもない。
ナナセはひとつ仕事を終えた帰りであり、疲弊している。また、ろくな補給もできてはいないままだ。その戦力は平時と比べて、おおよそ四割といったところだろうか。
無論、ナナセ自身が自分の状況を正しく認識できていないわけもない。彼とてまた、自分が万全でないことなど百も承知でいた。承知でいた、つもりだった。
だからこそ、ナナセはこの一も二もなく引き受けてしまった追加仕事を、極力短時間で終えようと決めていた。
村から少し離れた野山。雪の積もるそこで、紛異人はやけにあっさりと見つかった。
木の陰に隠れているためか、向こうがこちらに気づいた素振りはない。妖魔は周囲を警戒するふうでもなく、ずんずんと山奥へと足を進めていってしまうが、ナナセからすれば、一度視認すれば問題なく、彼自身の条件を満たしている。
ナナセの頬に一筋、裂け目が生じ、それは瞼のように開くと、内側から眼球がもうひとつ、顔をのぞかせた。
ナナセの固有術式。裏眼式である。その視線は見定めた相手をけして見失わない。これでもう、紛異人がどこに行こうと、ナナセには手に取るようにわかるというわけだ。
だから、追い詰めるのは至極簡単なことだった。紛異人の動きを掴み、ねぐらをあっさりと突き止めると、ナナセは見つからぬよう身を潜めたまま、術式を構築していく。隙は大きいものの、威力の高いそれは、決着を早めたいナナセの思惑を叶えるものだ。
構築が完了。同時に物陰から飛び出て、怪物へと走り寄る。あらぬ方向を向いていた妖魔はしかし、その瞬間を待っていたとばかりにナナセへと向き直った。
僅かな動揺。しかし、様々な特徴を持つ妖魔との戦闘において、想定外の事態などいつものことだ。そして、それを生業とするナナセが、それで行動に支障をきたそうはずもない。
しかし、しかしだ。紛異人の次の行動には、ナナセとて足を止めることを余儀なくされた。
妖魔は虚空を掴むように腕を伸ばすと、何かを握りつぶすような仕草をして。
ナナセの左目に激痛が走り、思わず構築したばかりの術式を解いていた。
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「駄目じゃないオニイサン。対抗式の得意な術者にこんなの使っちゃ、ねえ?」
左目を抑え、うずくまるナナセに、紛異人はあどけない少女の顔をしてそういった。
何をされたのか、それはわかっている。ナナセの裏眼式は対象の位置を常に把握し続けるものだ。それによって生じた術式なリンク。それを辿られ、反術式を送り込まれたのである。それは激痛と、間違いなく眼球が握りつぶされたというイメージ。
術式によって生まれた眼球は頬に開いていたが、ナナセの認識として、眼球の位置とは本来の双眸のものだ。
故にナナセの脳は片目を握りつぶされたのだと認識し、そのダメージフィードバックを全神経に行き渡らせた。
破壊されたのは術式で、本当の左目ではない。そうやって自分の脳を説得しようとしても、一度がなり立てた神経は早々に黙ってはくれない。だが、辛うじて上体を起こし、次の一撃を、首皮一枚でなんとか逃れることには成功した。
痛みが集中力を妨げる。思考がどっちらけになる。なぜ、が頭の中で何度も何度も反芻する。
なぜ、対抗式など流されたのか。それはこの紛異人が術者に育てられたからだ。術式を身に着けた妖魔が育ってしまった。
なぜ、紛異人は自分の接近に気づいたのだろうか。可能性をあげればきりがない。臭い、僅かな音、探せばいくらでもあるだろう。
なぜ、紛異人はナナセの術式を解析できたのか。それは―――。
目前から、紛異人の姿が消える。それを見て、ナナセの全身に緊張が走った。これは隠れたのではない。逃げ出したのでもない。ただナナセのことを確実に狩るために、その膂力を持って動き続けているのだ。動体視力では到底捉えきれぬ速度。しかし、本来のナナセならば早いというだけではなんの意味もない。彼の視線は、常に敵を追えるのだから。
反射的に展開する裏眼式。額の眼球が敵を追い、目まぐるしく動く。しかし瞬時に後悔をした。もう一度展開しても同じことだ。また潰されれば今度こそ、自分は痛みに耐えられないだろう。
ようやく視界に捉えたさきで、紛異人もまた、それを待っていたのだろう。少女の顔に、喜色ばんだそれを浮かべて手を伸ばすと、迷わず握りつぶし、ナナセには潰眼のフィードバックが―――。
こない。
歯を食いしばって待った痛みが来ない。ナナセはひるまない。その事実に紛異人は動揺して足を止め、その瞬間をナナセは逃さなかった。
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鹿王院本家。
その日、母と茶の時間を過ごしていた鹿王院水梛は突如顔を抑えるとうずくまった。
「水梛!? どうしたのかえ!!?」
母親が慌てて駆け寄るが、水梛の反応は、その震えは、痛みに耐えるというようなものではない。むしろ、笑っている。小刻みに肩をふるわせ、眼帯をした奥ですでに収まるべきもののない眼窩から一筋の血を流しながら、それでも彼女は、それをとても喜ばしいものとして笑っている。
「ふふっ。お母様、大丈夫です。我が子の支えになって、それがとても嬉しくて。本当に、まだまだ甘えん坊なのですから」
そう言ってお茶の続きを促す水梛に、彼女の母は怪訝な顔を返すばかりだった。
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呼吸が荒い。呼吸が荒い。
短時間とはいえ、濃密な戦闘の中に身を浸したからだ。もとより披露していた体に余計重いものがのしかかる。
立ち上がり、膝に手をついて呼吸を整えるナナセ。その足元には、鉤爪を生やした、少女のような顔をした怪物が転がっている。
もうその妖魔が動くことはない。ナナセの展開した術式は、その生命を完全に刈り取っていた。
呼吸を整える。呼吸を整える。
それを急いでいるのは、ナナセのやるべきことが、まだ終わってはいないからだ。
なぜ、怪物はナナセの術式を解析できたのか。
初見でナナセの術式を見破ることなどできない。それは自負からくる確信だ。彼とて、術式のリンクを辿れるような相手との戦闘はこれが始めてではない。
だがどいつもこいつも、汎用術式ならいざ知らず、鹿王院一族固有の裏眼式を初見で完全に見抜いたものなどいなかった。そして、この紛異人が、それらを術の面で上回っているとは到底思えたものではないのだ。
なぜ。
そう問えば、いくつも疑問が湧いてくる。
なぜ、あの村では死臭が充満していたというのに、逃げ惑う姿は見えなかったのか。始めて怪物を眼にしたのなら、もっと散り散りに逃げる様を見せていてもおかしくはない。ならば、紛異人の発生は今日ではないのではないか。
なぜ、自分は紛異人の所有術式を知らなかったのか。そのために、行動を読み違えた。誰よりもこの妖魔を見てきた人物に依頼されたというのに。
だから。
だから、あの母親が、この怪物の側についていたのではないか。
計画的に村を襲う手段を教え、人々が逃げられなくなる策を練り、ナナセの術式を教え込んだのではないか。
「本当に、考えもなく仕事を引き受けてしまったようだ」
まだ痛みでズキズキする左目を抑えながら、雪山を降りる。
目指す場所は決まっている。これは鹿王院の当主として、なすべきことだ。
さあ、祖母に習おう。
鹿王院は、一族に仇なす者を許しはしない。