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勇者と魔王
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――この奇跡は、魔王として生まれた一人の男が『人として生きる術』を求めて齎したものである。
そう始められた手記をテーブルに置いてから少女は小さな欠伸を漏した。随分な時間になってしまった。
そろそろ眠らねば明日になったら叱られて仕舞うだろうか。空になったマグカップは流し台に置いておけば良いと言い付けられていた。
「ルアナ」
呼ばれてから少女は立ち上がった。はあい、と間延びした返事を返して。さて、明日から屹度良い日になるはずだ。
●
ひゅうひゅうと音が鳴る。戸を叩く風の勢いは強く、さざめく自然のおおらかさにグレイシアは眉を顰める。
真白のシーツが敷かれたベッドに腰掛けてグレイシアは「ルアナ」と呼んだ。小さな少女は何処か不安そうに脚をぶらりぶらりと揺らしていたからだ。
「……ルアナが眠りについてから処置を行なうが……それまではこうして話でもするとしよう」
ルアナは強張った体から力を抜くように小さく息を吐いた。信頼している相手ではある。それでも未知数の処置に対して恐れを抱かぬ訳ではない。
背を撫でてくれる掌は心地良く、いつだって甘えるように擦り寄っていたものではあったけれど、今はどうにもそれさえも恐ろしいものであるかのように感じられた。
「……終わったら、やりたいこと沢山あるんだけど、最初におじさまの作ったケーキ、お腹いっぱい食べたい」
「ケーキだけで腹いっぱいにするというのは考え物だが……検討しておくとしよう」
「えー、ダメかなあ? じゃあ、ハンバーグはどうかな。おじさまのビーフシチューも好き。
それに、それから……ううん、それでもおじさまの作った料理が好きなんだ。だから、お腹いっぱい食べたいな」
「ああ、それなら検討しやすくなった」
「そうでしょう? ケーキだけ食べてたら太るよって言うからだよ! もう『おねえさん』だからね」
自慢げに笑うルアナにグレイシアは笑みを噛み砕いたような、どこかぎこちない表情で頷いた。
目の前の少女はただの『女の子』ではなく、グレイシアとてただの大人ではない。二人の間にある関係性は親族の血の繋がりでもなければ、恋情でもない。
最もややこしい宿命と呼ぶべき縁の糸だ。優しいおじさまとして慕うルアナを『勇者』であると知っている。そして、慕われる己が『魔王』であることも知っていた。
二人の世界では勇者と魔王は殺し合う宿命なのだ。御伽噺にあるとおり、優者は魔王を打ち倒すために産まれてくる。
だが、その因果は続く。何せ、役者が揃わねば物語は始まらないからだ。だからこそ、魔王は対となる『己を殺す存在』を認識しなくてはならなかったのだ。
それが何の運命のいたずらだというのか。
それはグレイシアからすればその関係性があれば勇者と魔王の奇妙な宿命に触れることなく平和的解決が行なわれる可能性でもあったのだ。
――当然、魔王として殺される事は認知していた。受け入れても居た。それでも、だ。目の前の少女に己を殺させることが忍びなかった。
幼い彼女の中に本来の人格が存在している事を知ったときには、次はあの幼い少女が惜しくなったのだ。これまでの日々が愛おしく、ずっと続いていくと信じていた。
魔王にとってのモラトリアムは、男の生活に大いに影響を及ぼしたのだ。これからも家族のように過ごしていきたいと。
嘘だらけの日常を過ごしてきたくせに、笑わせるとグレイシアは自嘲した。
それでもルアナは受け入れてくれたのだ。彼女を勇者で無くすために。彼女を
「……おじさま」
「ああ、そろそろ眠くなっただろう?」
「んんー、そうだねえ。ねえ、おじさま」
「……どうかしたのか?」
そっと問うたルアナにグレイシアは微笑んだ。優しい笑みだ。そう見えるように意識した。ぎこちなく思えたかも知れないが、彼女への親愛は本物なのだから。
「おやすみなさい。起きたら約束を守ってね」
「ああ、必ず――」
眠ってしまった幼い少女を俯せにし、グレイシアは一度顔を掌で覆った。それから深い息を吐き、その表情は魔王のものとなる。
ここで殺してしまえば易い事を。勇者を殺せば魔王の勝利となるのに。
グレイシアは己の中にあった魔王としての知識と混沌で新たに得た知識を組み合わせ、ルアナという娘を生かせ続ける為には紋様を他に移さねばならないのだ。
彼女の中にある本来の人格は言った。それも、苦しげに魔王が生きていることを否定するように苦々しげに。
――悠長なこと言わないで。このままだと『ルアナ』は二度と目を覚まさなくなるわ。ルアナを助けたいなら『私』を殺すか、『私』に討たれるか。
世界とはそんな強制力を持っているのだ。ルアナの勇者としての証を特注した人形に移す。魔力で双方間のパスを作り上げれば――いいや、これも難しい。
入念に、入念に繋ぎ続ける。人形とルアナの間にぴったりと隙間を作らぬように。指先で手繰った魔力は一つも間違ってはならない。
グレイシアの魔力を帯びてルアナの背の紋様が輝いた。このままそれを人形へと導くことが出来たならば。
「ぐっ―――」
ルアナの呻き声にグレイシアは眉を寄せた。苦しいだろうか、辛いだろうか。術者には繊細な魔力操作が求められるが、それだけではない。
紋様を
(ルアナ)
ただ、心の中で名を呼んだ。本来ならば呼ぶ事さえも出来ぬ名前であっただろう。
自らを討つはずだった少女の名前を繰返す。紋様は眩く光を受けた。ルアナの呻き声が激しくなり、身が僅かに傾ぐ。
くぐもった泣き声が聞こえたが、グレイシアは「すまない」と零すことしか出来まい。次第に強くなる光は収縮し、その場にグレイシアの魔力諸共掻き消える。
「ル、ルアナ……!?」
慌てて彼女の背を眺めたならばその場には何も存在はして居なかった。成功か。ルアナの背に存在した紋様は人形に移されている。
安堵に胸を撫で下ろし、後は目覚めたルアナの反応次第かと彼女を覗き込んだとき、グレイシアの眼前で人形はふわりと浮かび上がった。
「方法としては悪くはないけれど、及第点はあげられないわ。不完全ね」
紋様を宿した人形はそのまま人気無い外へと飛び上がり進む。グレイシアは慌てた様子でその背中を追掛けた。
人気無いその場所は星がよく見える丘だった。天蓋には美しい星が飾られる中で、ルアナの依代となった人形は宙に浮かび上がりながら嘆息する。
「不完全よ」
「どう言うことだ?」
「……『勇者』は『魔王』の力に反応するわ。だからね、貴方に『魔王』の力が僅かでもある限り『勇者』は『永遠に勇者のまま、魔王を滅する存在である』なの」
「……それ、は」
グレイシアは乾いた声音を漏した。唇を擦れ合わせて息を呑む。引き攣った声を漏したグレイシアに
「結局、私たちは戦うしかないのよ」
「戦うのが吾輩と勇者だけであるなら……ルアナが勇者と魔王の因縁から解放されるのであれば、吾輩に悔いは無い」
本当に嫌な人。勇者はそう呟いた。何時だって、この男は
魔王とは非情でなくてはならないだろうに。コレまで何度も何度も繰返してきた勇者と魔王の物語を忘れたのか。
魔王を打ち倒す事が叶った世界は束の間でも平和を取り戻すのだ。その裏で、勇者は魔王を倒す為に自らの命をも賭すのだ。魔王を倒す一撃は《命》そのものだった。
だからこそ、魔王が死したその時に、勇者も同じように息絶える。
繰返してきたその因果からまだ逃れることは出来ない。何せ、目の前の男は魔王で、この場に存在する人形は勇者だからだ。
「幸い、混沌でお互いの力は殆ど削がれてる。祈りなさい。運が良ければ双方生き残れるわ」
「混沌に来てから、今日までが奇跡のような時間であった。それならば、奇跡がさらに続いてもおかしい事は無いだろうな」
くつくつと笑った勇者にグレイシアも唇を吊り上げた。
此処には少女ルアナは居ない。彼女には何も関係の無い異世界の勇者と魔王の戦いだ。
人形の周辺に魔法陣が浮かび上がる。グレイシアはそれを受け止めるべく、反する魔力の魔法陣を作り出した。
指先を鳴らす。炸裂する魔力の中を勇者は走り抜けてくる。いつかの日も、こうして
先延ばしにして、そして、不出来なワルツを踊っている。
こんな、世界の命運も何もかもを欠けちゃいない、ただ、その体に残ってしまったお互いに残った『魔王』と『勇者』の力の残滓を消し去る為だけのちぐはぐな踊りを。
●
「ううーん……?」
ぐうと背伸びをしてから
「どうやら、奇跡はまだ続くようだ……」
葉巻に火を付けて、傷だらけの男は嘆息した。珍しく地面に直に座り込んだ男は流石に疲弊したとでも言いたげに額に掌をやる。
流石に消耗が激しかったか。休息をとらねば倒れてしまうか。それにしたって、ルアナは如何しただろうか。
彼女が目覚めているならば、早くその前に向かってやらねば――
「おつかれさま、おじさま」
はた、とグレイシアは動きを止めた。
それは幼い子供の声ではない。幾分か成長した穏やかな女の声だ。落ち着き払ったその声音に、その口調は余りにも不似合いだがグレイシアは彼女が起きたのだと直感した。
ゆっくりと振り返れば、彼女がいた。柔らかな長い髪を揺らがせる
幼い少女ではない。妙齢の女の姿だ。それはグレイシアが召喚される前にただの刹那に目があった勇者の姿である。
本来のルアナ・テルフォードは穏やかな微笑みを浮かべている。
「……あぁ、少々手古摺ったが、無事に終わったようだ」
「……そっか。本当にお疲れ様、ありがとう」
彼女はほっとした様子で胸を撫で下ろしてから微笑んだ。その姿を見ればグレイシアは気付いて仕舞う。彼女はルアナだ。ルアナそのものなのだ。
――おじさまと学校に行くなら、わたしもいく! 生徒でいいもん!
――ふふ、ルアナ。子供じゃないよ。
――ふーん……。わたしは苦いの飲めないけど、飲めるようになったらおじさま好みの一杯、淹れられるようになりたい!
あの幼い少女は消え失せたのだ。騒がしくって、周囲を飛び回る蝶々のような少女。彼女の持ち得た賑わいは今、この場にはない。
「おじさま?」
「いや……」
グレイシアとまるで家族のように過ごしてきた少女ではなくなった事への動揺は悟られぬようにとグレイシアは息を呑む。
「ねえ、おじさま、この子って……」
「ああ、紋様を移した人形だ」
ルアナは頷いてからゆっくりと、人形の元へと向かった。この状態でも危険は無いだろうか、彼女は大丈夫だろうかと心配してしまうのだ。
グレイシアにとってのルアナ・テルフォードが本当に幼い子供であったことが良く分かる。
そんなグレイシアの感情なんてまるで知りやしないような素振りでルアナはそっと人形を拾い上げた。
「……本来『この子』は私と溶け合って、魔王を倒させる為のそんざいだった。
けれど……なんの偶然か、人格を持ち、今も生きている。ね、おじさま。この子に名前を付けてあげて。そしたら目覚めるわ」
「名前、か」
考えて見れば彼女は勇者だった。彼女からも魔王と呼ばれていた。
本来的には名前など必要なかったのだ。これまで勇者と呼んでいたのもそう分類されていたからだ。
グレイシアはまじまじと人形を見た。ルアナの手の中に居る彼女はぴくりとも動く事は無い。
「それならば、元の世界にも纏わる名前……
それは元の世界で希望の意味を持った。
希望。それは、彼女が目覚めて勇者と魔王が共に過ごす事が出来るというこの先を願ってのことだった。
グレイシアの言葉を耳にしたからだろうか。人形はルアナの手から離れるようにふわりと浮かび上がった。
「ふーん? じゃあ、私は今からSpes、ね」
「いい名前貰ったね。Spes?」
それで良いわよ、と言いたげなSpesにグレイシアはぱちりと瞬く。
傍らに立っていた大人の女は眩い光に包まれてから、何時も通りの幼い少女の姿へと変化した。
「あ、わたし前の世界の記憶あるしも召喚されてからのことも全部知ってるけど、基本的にこの姿のルアナでいるから!」
「……そ、そうか……」
「そうよ」
ルアナは、何時ものように幼い少女のように笑って見せた。明るく、晴れやかな微笑みに楽しげに声音が弾む。
その姿を眺めていたグレイシアは拍子抜けした様子で呟いた。あまりに気の抜けた声音であっただろうか。
「……奇跡とは、滅多に起こらないから奇跡というのだったが……」
「……おじさまが『いつか自分を殺すかもしれない』と分かっていて、
ルアナは可笑しそうにくすくすと笑って見せた。その笑みは見慣れたものだ。
「おじさまが、私を殺す事を選んでいたならば、勇者と魔王はずっとずっと、殺し合ったかも知れないね」
「そうだな」
「でも、おじさまはそうしなかった。
共に歩んできた日々は決して無駄では無かったのだ。天真爛漫に微笑んで見せるルアナに穏やかに応じるグレイシアは漸く日常が戻って来たと息を吐く。
その様子を苦い笑いを噛み砕きながら眺めるSpesは「前代未聞だわ」と呟いた。
「けれど、悪くはないでしょう? Spes」
「さあ。どうでしょうね?」
ふい、と視線を逸らす様子でそう言ったSpesにルアナは「おじさま、Spesは照れているのかも知れないよ」と揶揄うように言った。
「照れる必要が?」
「ないわよ。どうして照れる必要があるの?」
「……らしいが」
「ええー? うそだあ。絶対照れたよ。Spesは。だって、だって、むりだって思ってたでしょ?」
ルアナは本当に幼い子供の様に振る舞ってから「家族が増えたね」と微笑んだ。元魔王と、元勇者と、それから、希望の名を受けた宿命の証と。
彼らの生は、これからも続いていく。
これから、ずっと、家族のように。人間のように、当たり前の日常を謳歌して。