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少女たちの願い
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外は雪が降っているらしかった。梅の香りがどこまでも漂うはずだった空間には雪がしんしんと降り積り、地面を覆い、白く染め上げていく。梅の莟にも雪は時折かかり、薄い色のそれを隠して、自身の重さに耐えきれなくなったように落ちていく。そうして再び何も無かったかのように雪は降り続け、すべてを隠していくのだ。
昨日は暖かかったのに、とルミエールは思う。春を待ち望み、雪をかき分け、冷たい空気を裂くようにして咲いた花たちで昨日は溢れていたはずだ。それなのに今は全てが白く、その白の隙間から元の色が覗ける程度だ。椿の赤も、蝋梅の白も雪に覆われて、鮮やかな春は巻き戻されたようになってしまった。雪が溶ける頃には花は落ちてしまっているのだろうか、種や花粉を残してくれるのだろうかと考えて、窓際に腰かける。何か花を守ってあげられたらと思うけれど、摘み取ったところで花は死ぬ。ルミエールの背丈ほどの木々は運べない。何もしてやれることはないのだと、窓ガラスに指を伸ばす。ひんやりとした感触が皮膚を通して伝わってきて、ほうと一つ息を吐いた。
「暖炉に寄りなよ。風邪をひくよ」
卮濘が肩掛けを持って、ルミエールの側に行く。冬にも関わらず肩と胸が大きく開いたワンピースは身体を冷やすに違いないだろうに、ルミエールはここに来てから一層惜しげもなく皮膚を晒すようになった。腕から肩、デコルテは冷ややかな空気を浴び、肌の白さを際立てている。爪ばかりが血の通った淡い色をしていて、卮濘はその色をじっと見つめた。
「ねえ、可愛い願望器。風邪をひいたって、もう良いじゃない?」
卮濘の裸足の指に、ルミエールの裸足が触れる。指の先から甲にかけて擽られ、ある一点で止まった。
「だって私たち、病にかかってしまったもの」
足の甲から足首にかけて、ルミエールの足先が強く擽り、そこに生えた花を撫でた。引き千切ろうとするかのように指先で挟んでは、気まぐれに離す。
「あなたの足を蝕む菫はどこまで広がったのかしら」
ルミエールと揃いのワンピースの裾を、ルミエールは爪先で器用に持ち上げた。スカートによって隠されていた足が晒され、窓から差し込む陽光に照らされる。足に絡みつくように生えた白い菫が雪の光を取り込んだように、その白さを増す。
「ルミエールの月下美人も育ったね」
卮濘は窓の冊子に片手をついて、片手でルミエールの胸元に触れた。そこに咲いている透ける様に白い花は、ほとんど満開に近づいていて、周囲にも蕾をつけている。その花から漂う香りを吸うように卮濘は顔を近づけて、鼻先でそれに触れた。甘く柔らかい香りが鼻を通って、肺を満たしていく。
「あと何日保つかな、この花」
「月下美人は一晩しか保たないと言うわ」
「でもその花が咲いてから何日も経っているね」
あなたの言うとおりね。ルミエールは微笑む。この世の醜いものと美しいものを全て飲み込んだような、そんな雰囲気を漂わせているが、その裏にはひどい痛みが隠れているのを卮濘は知っている。例えなんかじゃない。文字通り、身体を裂くような痛みが。
先に身体の異変を感じたのは卮濘だった。足元に皮膚を這うような痒みがあるのに発疹や赤みが出るわけでもなく、ただ皮膚の内側に妙な痒さがあるだけだった。冬の時期にありがちな乾燥によるものかと思い、少女を精巧に模して造られたなめらかな肌にワセリンを塗りたくってみたが何も変わらず、痒みを押さえる薬を塗っても飲んでも何も変わらなかった。
この身体に医療が必要かと聞かれるとまた話が変わってくるが、感染する病であれば医師が詳しい。そう思って大きな病院に向かっている最中に、ルミエールに会った。
『どこへ行くの』
その日はひどく冷えていたと卮濘は記憶している。午後は雪が降る予報だったとかで、ルミエールはレースで飾られた傘を持っていた。
『病院に行くんだ』
卮濘の一言に、ルミエールは首を傾げ、卮濘が痒みを訴えている足の甲を覗き込んだ。
卮濘は見ての通り何も異変がないのだと示すように、靴を脱いだ。靴下も脱ぐと冷たい空気に足先が晒されて、ルミエールの視線が真っすぐに降り注ぐ。
卮濘はただルミエールを笑わせるつもりだった。何もないのに身体に異変があるのだと言って、笑って送り出してもらうつもりだった。しかし靴下を脱いだ途端に足の痒みが痛みに代わり、笑顔がひきつった。
ぱり。皮膚から音がした。
ルミエールが声にならない悲鳴を上げる。彼女が咄嗟に数歩後ずさりする気配を感じながらも、そちらに目をやることができなかった。
足の甲に水泡のような膨らみができている。恐る恐るそれに触れようとすると、直前に皮膚が破れて、内側から緑色のものが顔を出した。皮膚を破られる痛みと、身体の内側を何かが侵食していく痛みに蹲っているうちに、それはみるみるうちに育っていって、やがて白い花を咲かせた。
『卮濘』
ルミエールの切羽詰まったような声がして、やっと顔をあげると、彼女は自らの首に巻いていたマフラーを解いたところだった。
花狂い病。ルミエールの頭に思い浮かんだのはそれだった。先日依頼で赴いた村で住人が罹患していたもので、皮膚を突き破って身体に花が咲く症状が特徴の病だそうだ。発症の原因は不明、治癒の方法も不明。分かっていることは病状が進むにつれて痛みがひどくなり、やがてはのたうち回って死ぬということと、踊り狂ったように痛みに苦しむことから花狂い病と呼ばれているということだけだ。
その時罹患した住人は隔離されて、暴れて自身を傷つけることのないようにと拘束されていた。他の住人は祟りを恐れて患者には近寄らず、死に近づいている住人がいることを心の奥底に押し込めて、自らも発症することばかりを恐れていた。そんな中ルミエールに出来たことは、痛み止めを飲ませることだけだ。すくってやることは、出来なかった。
ルミエールがマフラーを卮濘にかけて、その手を引く。平静を装いつつも強張っているルミエールの表情を呆然と見つめて、卮濘は苦し紛れに微笑もうとした。しかしそれよりも、ルミエールが胸を押さえて蹲る方が早かった。華奢な肩が崩れ落ちる。
『ルミエール、それ』
ルミエールの手の隙間から、植物の葉が覗いていた。ルミエールが押し込めようとしてもそれは葉を広げ続け、手のひらからこぼれていく。
『これは花狂い病と言うらしいの』
驚いているはずなのに、ルミエールの声は淡々としていた。卮濘が発症したときはひどく動揺していたのに、自分の発症には大した驚きを見せないのが不思議で、卮濘は慌てて貸されたばかりのマフラーを彼女の首にかけた。胸元が見えないように結んでやる。
ルミエールの手が震えている。痛みなのか恐れなのか考えはしたけれど、問うことは躊躇われて、依頼で訪れた村の様子を静かに語っているルミエールの手を握った。彼女の硝子のような青い瞳と、視線が絡む。
このまま逃げてしまおうか。先にそう言ったのはどちらだったか。卮濘だったかもしれないし、ルミエールだったかもしれない。確かなことは、どちらも拒まなかったことだ。冗談で誘ったわけでも、手を取り合ったわけでもない。病院に行くことも、病状について調べることも出来るのに、その一切を投げ捨てて、たった二人になることを選んだ。それだけだ。
隠れるように借りたコテージに、残された短い日々を過ごせるだけのものを持ち込んで、静かに静かに暮らした。イレギュラーズの誰にも、ここに暮らしていることは告げていない。気ままに食事を摂って、気ままに外を眺めて。柔らかな布団を敷いて、羽が柔らかく詰め込まれた毛布にくるまって、好きなだけ眠った。痛みは日ごとに強くなっていって、卮濘の身体には白の菫が広がっていき、ルミエールの胸元には月下美人が咲いた。月下美人の甘い香りで部屋が満たされて、菫の愛らしく小さな花で部屋に白色の光が散った。
花がどこまで広がったのかを探るようにお互いのそれに触れて、残された時間を数えるように、その香りや花弁の形を確かめる。そうしているうちに身体を走る痛みが二人を繋ぐもののように思えてしまって、花に触れると愛しさにも悲しさにも似た、奇妙な息が零れるのだった。
皮膚の内側が引っ張られる感覚がして、ぷつりと皮膚が裂けた。足の甲から引き抜かれた菫はルミエールの指先に挟まっていて、彼女の細い息と共に床に落とされた。身体に根を張っていたであろうそれには不思議と血はついておらず、薄い色の根が床の色に浮いている。
ルミエールは先ほどまで悲しさと愛おしさを混ぜ込んだような瞳で卮濘の菫を見つめていたのに、どうにも気まぐれを発揮したらしい。「引き抜いたらどうなるのかしら。痛いのかしら」と言い、そのまま菫を引き抜いた。
「私ねえ、今反抗期の気分なのよ」
ルミエールは床に落ちた菫を足の指で撫でたあと、ちらりと卮濘を見た。
「愛する存在が自らの預かり知らぬ所で奇病にかかり、最後を看取る事すらままならなかったとなれば、きっと深い傷になるでしょうね」
一生心に残るでしょうね。そう微笑むルミエールの声は悪戯を思いついた時のような奇妙な明るさがあったが、瞳には悲しみや虚しさ、寂しさが浮かんでいる。
一緒に死んでほしいのだ、ルミエールは。気が付いた卮濘が手を伸ばすと、ルミエールはどこかほっとしたように表情を和らげた。ルミエールもまた卮濘に手を伸ばし、指先を絡める。
「私も、死んでもいいの?」
やっとこの時が来たのだと、ルミエールは思う。ずっと、苦しかったのだ。世界を愛し続け、愛しんだ人たちを悲しませないために生きたいと願ってこそいたが、人生というものは楽しいことや嬉しいことばかりではない。多くの不条理や悲しみはどこにでもあって、それらに出会う度に、小さな身体でそれを背負い続けた。そうしているうちの心がすり減ってしまって、生きることにも疲れてしまったのだ。
「見たことのない何処かへ行きたい気がしていたの。でもきっと私、何処へも行きたくなかったのね」
だから、これで良かったのだと思う。
「叶わない願いを抱いて、永遠を夢見て、ありふれたどうにもならない事を哀しんで。なにより、自分が変わっていくことを許せない。本当に馬鹿ね」
漸く、終わりにできるわ。言葉にすればほっとするようで、卮濘に向かって穏やかに微笑む。胸を中心に身体はひどく痛むが、それを悟らせないように、美しい少女の微笑みを浮かべた。
卮濘の身体に、じわじわと花が広がっていく。痛みを堪えて、ルミエールに寄り掛かった。
「変容を止め、この想いを永久に残し続けるために。私も一緒に死ねるなんて」
痛いのは苦しい。だけど、死というもの自体に恐れはなかった。人は永遠には生きられないし、いずれは死んでいくものだ。二人の身に降りかかった死が奇病によるものだったというだけ。それに、この本来の世界から分岐したの場所で、自分自身を見つけたような気がしたのだ。ようやく実感できた命を死が彩るのだと思うと、喜びや期待が胸に溢れてくる。
「愛を不変にする方法を知っていて? 愛を抱いたまま死ぬことよ」
死を迎えれば記憶はそれ以上上書きされない。死の際に全ての時間は止められて、永遠になるのだ。
ルミエールが死の旅路の共に選んだのは卮濘だった。そう気が付けば胸が満たされるようで、切なさに似た愛おしさが浮かび上がってくる。死への希望と等しく膨らんだそれを隠すことなく、卮濘はルミエールを抱きしめた。
「あなたと一緒になんて、そんなの幸せすぎて。本当に」
「死んでいく気分はどう? 痛い? 悲しい? それとも心地いいかしら?」
「最高に気持ちいいよ。どこまでも遠くにフっ飛んじゃうくらい、脳内麻薬が溢れてる。だから……、ルミエール」
痛みに耐えきれず崩れていく身体。かろうじてベッドに二人で倒れ込んで、強く強く抱きしめ合った。
「風に乗って、どこまでも流されよう」
卮濘はNe-World存在定義概念拾参項『死神』として、死後の新たなる旅立ちを約束する。
愛を確かめた二人の身体を、植物が覆う。白い花があちこちに咲いて、豊かな香りを漂わせる。人の命を吸って咲くそれらに、少女たちの命が取り込まれていく。
訪れる静寂。花に覆われたままでも、抱き合う少女の姿は残っていた。