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朱く染まる、その理由
登場人物一覧
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『黄昏夢廸』ランドウェラ=ロード=ロウス(p3p000788)は数秒間、停止していた。
驚きで両眼の瞳孔は開き、全身に「朱い液体」を浴び、尻餅をついている。
彼の目前には、彼に向かって液体をぶちまけた10リットルのバケツがひとつ。
もしかして、これは誰かの血液、なのだろうか?
しかしこんなバケツいっぱいになる血液が、こんな辺鄙な路地裏にあるはずがない。
あったらあったで、かなりの問題になるはずだ。
だとすると……?
「これは、朱肉用の詰替……?」
ランドウェラはゆっくりと首を傾げ、小さくつぶやく。
“朱肉”といえば。
印鑑などで使う、あのスポンジに馴染ませるアレだ。
「調査だというので見に来たものの、これはまた」
異様と言うべきか、はたまた滑稽と言うべきか。
そもそもなぜ、こんな場所に朱肉用の詰替があったのだろうか。
しかも、10リットルのバケツの中いっぱいに。
「もしかして、誰かの忘れ物?」
いや、こんな忘れ物があってたまるか。
おかげでこっちは引っ掛かって転んで、全身が朱く染まってしまったのだから。
「あぁ、朱肉インクのにおいがする」
腕のあたりをくんくんと嗅いでみる。インク独特の、あのにおいがする。
少量ならば嫌いではないが、ここまでがっつり浴びてしまうと、当然嫌になるものだ。
「誰なんだ、こんなものを放置して帰ったのは」
ランドウェラはコミカルにぷんすこと怒る。
頭から被ったのが何より格好悪いし、恥ずかしい。
運よく周囲には誰も居なかったものの、それが屈辱的な感情をより一層強くした。
大きくため息を吐く。
「犯人がわかったら、とっちめてやる」
そんな子どもみたいな──いや、11歳だから合っているのか──言葉を発するランドウェラ。
だけど、全身に浴びたのが朱肉インクで良かったかもしれない。
もしもこれが本物の血だったら、燻っていた感情が爆発していたかも。
僕は何より楽しいことが好きだ。優しい人が好きだ。
だけど、それを阻む者は大嫌いだ。
さらに今は、好物のこんぺいとうが不足していて、機嫌が芳しくない。
もしも、そんな悪い人間が目の前に現れたら、
「……殺していたかもしれないね」
そう、虚空に向かって言ってみせた。
その表情は実に美しいが、全くあたたかみのないものだった。
冷たく何かを見下し、悲しみ。そして微かに憂うような表情。
彼はいったい何を思って、こんな表情をしたのだろうか。
それは我々が知り及ぶことは、おそらくないだろう。
しばらくして、ランドウェラは気がつく。
「朱肉インクって服に付いたら、取れにくいんだっけ」
皮膚に付着しても取れやすくはあるが、衣服にはどうだったか。
「インク系ってあんまり取れる印象じゃないんだけどな、どうだったかな」
そんな風にあっけらかんとして言ってみせる中で、ちらりと
その方向にひっそりと隠れていた野太い男たちの悲鳴が聞こえてきたが、ランドウェラは気にしていなかった。
「あ、あそこに人いたんだ」
なぜ悲鳴をあげられたのか、それは何となくわかったような気がしたが。
「もしかして、あの人たちの朱肉インクだった?」
まぁ、いいや。
近くに来られたら、何を仕出かすかわからないし。
向こうも、そして僕も。
「はぁ。インクを落とすの、大変そうだ」
そんな風にため息交じりに言いながら、髪や顔についたインクを布で拭き上げていく。
「この布に付いたインクも洗濯だけで取れるか、心配だな」
先ほどから、インクの心配しかしていないランドウェラ。
しかし、そのくらいがちょうどいい。
きっと本当の意味で楽しくなくなったら。
そんなことも、考えていられないだろうから。