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光あれ
登場人物一覧
●The Difference makes him ×××.
『知』る とは。
見て、触れて、それに対する理解を深めること。
何時か消えてしまうものである。
『識』る とは。
記憶の中にそれを刻み、培い、それを忘れないようにすること。
頭の中に納められるものである。
『見』る とは。
そこにあるものの色や形を目に映すこと。
風景の一部として映すこと。
『視』る とは。
そのものについて確りと理解しようという気持ちを持ち目に映すこと。
個として映すこと。
『良』い とは。
他よりも優れているということ。
これ迄よりもいい結果だということ。
『善』い とは。
受け入れること。認めること。
それらの上で、応援したいと願うこと。
──とある辞書より抜粋。
──カタチのない不確かな記憶は、何時かこの記憶からすり抜けてしまうのだ──
誰かが言っていたのを思い出した。
──目に見えるものだけが総てでは無いけれど、目に見えるもの総てを大切にすることはとても大切な事だ──
誰かが教えていたのを思い出した。
なら、世界を薄らとしか
なら、視えるものが少ない俺は、どうやってその“総て”を大切にすればいいのだろうか。
この世界の美しさを少ししか
だれがおれに、おしえてくれるだろうか。
●I want,
時刻は午後三時のギルド・ローレット。混み合う時間を避け、何時もの
席に座る。どんな時間帯でも日の入ることの無い、光には少しばかり弱い雁の特等席。
くん、と鼻を揺らす。目の前にいる人物の匂いが慣れ親しんだ武器商人の匂いであることを確かめてから、雁はテーブルの上にあるその裾を引いた。勿論、目の前に居る武器商人は、雁が何か言いたげにしている事を理解していたからにこやかにその様子を眺めていたのだけれど。
「商人さん。俺、夜を“
俺も偶に夜に出掛けたりはするし、少しくらい識ってはいるんだ。けど、夜には普段とは違う世界が広がっているんだろう? 聞いたところによると、夜は街の姿も違って、おばけとかいう生き物や、いつも邪魔にしか見えない街灯の明かりが灯されるんだって、聞いたんだ。と、少し早口で捲し立てるように、照れたことを隠しながらも興味がないわけじゃないんだ、と言いたげな様子で語る雁。
愛しい羽白のコ──雁が何かを知ろうとするのは、拾った身としてはとても嬉しいものだ、と武器商人は思う。弱視である彼の見える世界は人よりも少なく、人よりも狭い。だからこそ世界を識っている武器商人を頼ってくれるのが、とても嬉しかった。世界を識るために己を頼ってくれるのが擽ったかった。
「夜を? ……そりゃまた“
一緒に夜と戯れて、夜を呼んで、夜と歌って、夜と眠ろうじゃないか」
「! ……あぁ。ありがとう、商人さん」
若く見える容姿と細身な身体には些か不釣り合いな、黒く光るサングラスの奥にきらりと光った双眸。柔らかな紫の其れは、ボアのフリースジャケットを抱きしめた時の色のようだ、と武器商人は思う。
その瞳の奥の煌めきが知識で満たされたとき、さらに光を灯したのを武器商人は見逃さなかった。
『春の陽気』のいろ。
共に触れ、共に識ったときに、仄かに頬を赤く染めて笑ったあの表情が再び見られるのなら、それはどれ程の喜びだろうか。
だから。だから、武器商人は思うのだ。
雁が識りたい、と望むのなら、なるべく近くで手伝ってあげたいと。
「ええと、それじゃあ何時にしようか。商人さんは何時が空いてる?」
「ン? 羽白のコが言うのだから、今日かなと思っていたねェ。
羽白のコの都合はどうだい?」
「俺は大丈夫だ。……そ、それなら、今晩がいい」
「あィ、わかった。じゃあ夕暮れ……ふむ、二時間後に此処で待ち合わせはどうだろう?」
「うん、大丈夫。じゃあ、二時間後に」
銀の長糸揺らし、楽しみだねェと呟きながら揺らりと音もなく立ち上がる武器商人。
サングラスの奥の瞳を喜びで満たして、わくわくしているんだ! と内から溢れる興奮を抑えられずに立ち上がる雁。
ローレットの扉を抜けて手を振り、また後で、と別れた。
(商人さんと夜を探しに……どうしよう。俺はまた、識らないを識っているに変えられるだろうか)
不安に心を奪われて、不意に立ち止まる。
朧気にしか見えない視界は否が応でも心の器に不安と恐怖を混ぜ込んだジュースを注いでくる。
目の奥を焦がすような光はどうしても胸の奥を焼き付くような恐怖で染め上げてくる。
夜は、こわいものだろうか。
普段は眠る時間だ、とか、もっと暗くなった、とかしか思わない夜。
それを識ろうとするなんて変わっているだろうか。
ああ、それでも。
俺は識りたいんだ。
雁は思った。
俺の未だ識らない夜。
その美しさ。
その色。
その匂い。
その手触り。
その景色。
俺が視たことがないその総てを視たい、と。
少し遠くて長めの散歩になりそうだな、とも。然し嫌ではない。それは多分、未知を既知に変えてしまう楽しさを識っているからだ、と思った雁であった。
●Catch And Run.
緊張した面持ちでリュックサックを背負った雁は、動き易い服装で武器商人を待っていた。ン、と武器商人が手を差し出すと、ん、と手を乗せて。石畳の街から土を踏み森を潜り抜け夜を求める。
少しずつひんやりとしていく空気に肌を震わせた雁の視線は、空に釘付けだった。僅かにしか見えないけれど、橙と、それから紫とが合わさった空模様。鮮やかな絵の具を混ぜ合わせたみたいなそれは、見上げることが無ければ知らない景色だった。
「これが、夜?」
「これは夕だねェ」
「……そうか」
これは夕、ゆう。と小さく口に出して反芻する姿すら愛おしい。小さな彼の手を離さぬように、と。武器商人は確りと手を握り直した。
「……商人さん。夕は、なんだ?」
「夕かい? そうだねぇ」
夕は、毛布に包まれたような安心感と、優しい声からの安寧。僅かな満足感と幸福感。仄かに感傷を抱えているのさ。
愛しさも苦しさも甘みも苦味も、切なさも恋しさも孕んだ、悪魔のような時だと思うねェ。
にぃ、と歪んだ口元が見えたような気がした。悪魔的で魅惑的なもの、という事だろうか? 夜を追ううちに置き去りにしてきた夕が少し寂しくて、雁は少しの間振り返って、また歩みを進めた。
普段は暗くなるから、とカンテラを握って歩くものだが今宵は武器商人がカンテラを握って先導してくれる。それだけで夜を識ったような気がした。
昼のあたたかさとは違い、夜にはつめたさがあった。鋭さがあった。美しさがあった。
雁の瞳は、耳は、掌は、夜に触れていた。
武器商人の掌の温もりは雁の導で、武器商人の声が雁にとって世界を識る術だった。
「今は街の中だねェ。ほら、人の声で満ちているだろう?
食べ物の匂いや楽しげな声がするねェ。ほら、衣擦れの音もする」
「さァ、森へと入るところだよ。空気は少し湿っているねェ。」
「まず、夜が時間帯というのは既に識っているだろう?
夜が暗いのも識っているよねぇ。でもね。夜は、星が美しいのさ。
空にひかりが浮かぶんだよ。幾つも、幾つも」
「ほし。それに、ひかり。……夜は、魔法のようだな」
ひかり。それは、昼の日差しのようなもので合っているだろうか、と雁は思う。昼時に溢れてくるひかり。掌を溢れ落ちるひかりは、どこか熱を孕んでいた。然し俺はひかりに弱いので、あまり日差しが好きじゃない。ならば、商人さんのいう『ほし』とやらは、あたたかいのだろうか。俺の目には痛いのだろうか。でも、商人さんは善いヒトだから、俺が痛がるようなことはしないだろうなぁ。なら、溢れるほどのひかりはあるのか? 浮かぶ疑問は尽きることがなかった。
雁はサングラス越しに空を見上げた。夕の空は少しづつ夜が滲みだしていた。
武器商人が手を引いて、雁はその手を頼りに。確りと握った手は離さずに、ただ二人で夜を追うのだ。『暗くて不鮮明だろうから、足元には気を付けて』『少し冷えるのはやっぱり“夜”のせいなのか?』などと、話しながら。
「……さァ、着いたよ。此処なら夜と一番長く居られるだろうさ」
見晴らしのいい丘へとたどり着いた。街明かりは少しづつ消え始めているようで、武器商人はふぅむと声を上げた。
おいで、と言い乍らもつまづかないように優しく手を引いて、武器商人は持参したレジャーマットの上に雁を座らせた。
「ありがとう、商人さん。……気温がどうなるか分からないから、スープを持ってきたんだ」
「本当かい? 羽白のコは優しいねェ……頂いても?」
「勿論だ。ふたりで飲もう」
雁は背負ったリュックサックから水筒を二つ取り出した。恐らくは二人で飲むために準備していたのだろう。片方を差し出すと、自身の分の水筒に口をつけて飲み始めた。二人で飲んだコンソメスープは、何時もよりもあたたかかった。
「美味しいねェ……ありがとう、羽白のコ」
「ううん、良いんだ」
●Knowing Knowing Knowing.
じんわり、じんわりと。侵蝕するように。
柔らかなヴァーミリオンの空がミッドナイトブルーで濁されていく。満たされていく。
そして幾許か経ったあと。空は紺碧で満たされる。幾重にも折り重なった紺碧は、透き通っているようにも満ちているようにも見えた。空にはパールともアラザンとも言えぬ星々が煌めきひかりを放つ。私を見て、と云わんばかりに。
「商人さん。これが──、」
「うん。これが夜だよ、羽白のコ」
弱視の瞳の奥に煌めく星を視たような気がして、商人ははて、と首を傾げた。傍らの水筒はあたたかいままだ。
「商人さんの目に映る夜は、どんなものだろう」
恐らく問いではないだろうが、問いにも聞こえるそれ。僅かな視界を夜で満たした雁の唇から零れたのは、そんな言葉だった。
「
先ずは、綺麗だと思うね。シルクのように滑らかで、宝石……種類なら──あぁ、ダイヤとかラピスラズリ、ルビーのような星屑が煌めいているねェ。
それから、空気をよく吸ってご覧。──ああ、善いコだ、そのまま何回か呼吸を繰り返してご覧。
……ふふ、少し冷たいだろうけど、綺麗な空気だと思わないかい?
喩えるなら──そうだねェ、初雪のような、ふわふわとした中にもキリッとした芯のある美しささ。穢れのない、純度の高い水でできた氷は、透明なのだそうだけれど、どうだい、夜の空気にはそんな神聖さを憶えたのさ。
羽白のコ。キミはどう感じたかい? キミの夜は
この夜に触れてみた感想は、どうだった?
どうだった、と言われても。嗚呼。難しいな。──と、言葉にしたいのにならない。
「……っ、はぁ……っ」
理由は簡単だ。感動しているからだ。
微弱な視界からは感じ取ることの出来ないほどの情報を、視界以外の四覚で捉えていた。細い身体をフルに使って情報を処理していたのだ。
聴覚──風の音を聞き、夜の音を聞いている。
静かながら美しく、厳かで壮大だ。
触覚──風に触れ、夜の温度をその肌で受けている。
冷たくて熱を奪い乍らも、それが不快感を与えることは無い。
嗅覚──風の匂いを嗅ぎ、夜の匂いを感じている。
ヒト独特の匂いの消えた、澄んだ空気が充満している。
味覚──風を食み、夜の味をその舌で味わっている。
少しひんやりとした空気には仄かに甘み。昼時の食べ物混じりの香りでは無い。
そして雁は、僅かに視覚からも情報を得ていた。
それは希望の『光』にすら思えた。
視覚──シルクに喩えられた『夜空』と、武器商人が宝石に準えていたひかり──否、『星屑』。
弱視乍らにその瞳で夜に触れ、夜を『識った』のだ。幻か夢か、そんなのは何方でも構わない。『識った』ということ。脳裏のイメージが鮮明と『視えた』ということ。それが雁にとっては嬉しかった。例えそれが唯の幻だったとしても。ほんとうに、ほんとうに嬉しかった。流れ星にでも祈ったのだろうか。そんなこと忘れてしまった。していなかったかもしれない。ああ、駄目だ、興奮している!
視えたような気がした。視えたと思う。視えていないのだろうか。これは脳裏の奥のイメージなんだろうか。唯の情景なのだろうか。嗚呼、わからない!
「商人さん、俺、俺……っ!」
「あァ……そうかい。視えたかい。それは、それは、……とても、善かったねェ」
そのまま夜に見蕩れる雁の頭を、武器商人は撫で続けた。
ずっとずっと。夜が明けるまで、何時までも。
●Good morning boy,good morning girl.
ちゅんちゅん、と鳥の鳴く声が響く。
「ん……?」
柔らかいベッドの上。雁はサングラスをかけてから、絶叫した。
ドタドタと階段をかけ下りる音が響く。雁は武器商人をぼんやりと見つけると、その裾を引いて勢いよく頭を下げた。
「し、商人さん……!! その、昨晩は、」
「あァ、気にしなくていいよ。羽白のコの寝顔が視れたのは、
ここは商人ギルド・サヨナキドリのとある一室。安心したのか疲れたのかは分からないが、雁は盛大に寝落ちをしたのである。そんな雁をおぶり、そのままギルドまで運んでベッドで眠らせてやった武器商人。依頼ならMVPが貰えるかもしれない。武器商人はエプロンを纏い朝食の準備をしていた。
「……でも、あんなに遠くからギルドまで、」
まだ口をもごもごと、納得いかないと言いたげな顔で武器商人の顔を視る雁。クスクスと笑ってから、武器商人はその頭を優しく撫でた。
「ヒヒヒ、野暮は言いっこなしさ、羽白のコ。そんなに気にするなら……そうだねェ、あのスープをまた作ってきておくれよ。それでいいかい?」
「……商人さんがいいなら、それで」
「あァ、構わないさ。……そうだ。おはよう、雁」
「! おはよう、商人さん」
窓からは眩しいひかりが差し込んでいた。目に痛いほどのそのひかりが昨晩の光を彷彿とさせる。
雁は窓からまだ淡い青の空を見上げた──。