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私は空になりたくない
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- 鹿王院 ミコトの関係者
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雨が降っている。
雨が降っている。
それは容赦なく体温を奪い、今や瀕死のこの身を容赦なく貶めていく。
そうだ、それは死にかけていた。
それ、は、クジラのような姿をしていた。
大きさも、シルエットも、まさしくクジラのようだった。
しかし、地上で呼吸をするクジラがいるはずもなく、陸の上で生息するクジラがいるはずもなく。そして、そのどちらもまた当てはまらぬその生き物は、やはりクジラと分類されうるべきものではなかった。
ヒト、というカテゴリのそれらに与えられた名は『大妖 無貌紺碧の空鯨』。
自在に天空を泳ぎ、出自不明の単一個体であり、只々巨大であるという、そこにあるだけで異常とされた存在。
無貌紺碧の空鯨が、なにか意志を持って害をなした記録はない。無貌紺碧の空鯨が、妖の何某かと関連性が見受けられた痕跡はない。無貌紺碧の空鯨が、誰かを必要とした記録もない。
しかしそれは、あるだけで、あってはならないとされたものだ。空を自在に泳ぐ巨体。妖をも腹に収める食漢。それだけで、それがいるだけで、あらゆる生物には脅威だった。
それがいまや、死にかけている。命の危機に瀕している。それでいながら、空鯨の思うことはひとつだった。
(これは、なんだったのだろう)
空鯨はいまだ、自身という概念がわからなかった。自分というものが何であるのか。哲学的な話ではない。自身がどう分類されるものであるのか。いまだ理解していなかった。
空鯨は自分の名前を持っていない。誰も名付けてはくれなかったからだ。そして誰も名前というものを教えてくれなかったからだ。
空鯨は、いつだって自分を探していた。自分がなんであるのかを追い求めていた。ある時、魚に憧れた。あのように優雅に泳ぐさまが羨ましく思えたのだ。ただ泳ぐように突き詰められたその姿に憧れるのならば、自分もまた魚であると言えるかもしれないと、そう思えたのだ。
だから、その時から空鯨は魚だった。広大な海を泳ぎ、泳ぎ、泳ぎ続けた。
だけれども、空鯨は魚にはなれなかった。海の中の誰も、その異常を魚とは認めなかった。空鯨は海の中で何をしたわけでもなく、そこにあるだけで異常だとされた。
ある時、鯨に憧れた。そのように大きな姿で雄大に在る様が羨ましく思えたのだ。雄大に海を進むその姿に憧れるのならば、自分もまた鯨であると言えるのかもしれないと、そう思えたのだ。
だから、その時から空鯨は鯨だった。雄大であり、雄大であった。そのように大きなったことで、小さなものは眼に映らなくなってしまった。
だけれども、空鯨は鯨にはなれなかった。雄大な生命の誰も、その異常を鯨とは認めなかった。空鯨は雄大な生命のひとつでありながら、何をしたわけでもなく、そこにあるだけで異常だとされた。
ある時、空に憧れた。あのように天に広がり続けている姿が羨ましく思えたのだ。ただ広大であるその姿に憧れるのならば、自分もまた空であると言えるのかもしれないと、そう思えたのだ。
だから、その時から空鯨は空を泳いだ。空を行く姿は本当に自由だった。そのように空を泳ぐ巨大な生物がおかしなものであるだなどと、気づかなかった。
そして当然、空鯨は空にはなれなかった。空に取って代わるなど、誰にもできなかったのだ。
故に、無貌紺碧の空鯨はいまだ、なにものでもない。なんという生き物でもない。
それがいま、死にかけている。その身を刻まれ、細切りにされ、あらゆる赤を流しながら、それらもまた雨に流されていきながら、それでも空鯨はそんな事ばかり考えていた。
じゃり、と。何かが聞こえた。見下されている。それは自分を刻んだものだ。自分を細切れにしたものだ。空から、叩き落したものだ。
人間だった。
それもまた、自分ほどではないが赤を流していた。当然だ。いや、当然ではないのか。その人間は空鯨を叩き落し、ここまで刻んだにしては傷つかなさすぎている。
だってほら、空鯨はここで死にかけているが、この人間はどうやら、生き残ったらしいじゃないか。
「それでまだ、生きているのですか。なんて生き物だ」
それが、話しかけてきた。いいや、話しかけてきてはいなかったのかもしれない。空鯨は誰にも話しかけられたことがないものだから、それが話しかけてきているのか、それともただの独り言なのか区別がつかなかった。
「あなたは、いったいなんなのですか?」
その質問は今度こそ空鯨に向けられたものだったが、空鯨はそれには答えられなかった。空鯨自身が、なによりそれを求めていた。
「いいえ、ただの感傷ですね。妖にそんなものを向けるなんて、らしくないな」
その人間はふう、と大きなため息をつくと、自分を見下ろすために屈んでいた姿勢を戻した。
「すいませんが、こちらも底をついていまして。苦しいでしょうが、止めをさしてはあげられません。心苦しいことですが、そのまま朽ちてください」
言って踵を返すその、人間。それは「らしくない、らしくない。いや、しかし」と何やらつぶやきながら、遠ざかっていく。
それが、たまらなく苦しかった。
だって初めて、自分を問うてくれた。自分を何かだと思ってくれた。自分を生命だと考えてくれた。嗚呼、嗚呼。どうして、どうしてこの身には声がないのだ。呼び止められないじゃないか。言葉を返せないじゃないか。嗚呼畜生、どうして魚も鯨も空も声を持っていないんだ。あんなやつら、全然なんにもこれっぽっちも羨ましくない。
人間だ。人間がいい。人間でありたい。この身に声を宿し、あの人間と話したい。空鯨は、その何者にも分類されていない存在は、あるだけの異常ではない。そんなものになんかなりたくない。人間だ。人間がいい。どうしてなれないんだ。どうしていま死にかけているんだ。やっと、やっと見つけたのに。見つけてくれたのに。私は、たった今生まれたというのに。
嗚呼、本当に。
死にたくない。
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その日、怪獣『ザルバノス』は自身に何が起こったのか理解できなかった。
ザルバノスは恐竜種に似た怪物である。その巨体と牙で、なんだって貪ってきた。彼はこの世界で自分が王様なのだと理解していた。誰も逆らわない。誰も逆らえない。すべてがすべて、彼の腹に収まるために生まれてきて、彼の腹に収まることを強要されている。そう信じて疑わなかった。
疑わないままだから、今まさに食われていることを理解できなかった。
はじめはただ、小さい飯がいるとしか思っていなかった。ちょこまかと逃げられては面倒なので、大きな足で踏みつけて、ぐちゃぐちゃにしてから丸呑みにしてやろうと思った。活けで食うのが、昨今の彼の趣味なのだ。
だが次の瞬間、ザルバノスの右後ろ足は消えてなくなった。それが『小さい飯』に力任せに引きちぎられ、小さな口に噛みちぎられ、咀嚼され、嚥下されていったことを、両脚を失って転がるしかなくなった今でさえ、わかっていなかった。
だが、急激に生命力が失われていることを感じていた。いいや、根こそぎに奪われていくことを感じていたのだ。
それはひと噛みするごとに、食らった肉以上の生命をたいらげていく。両脚が小さなそれの腹に収まった頃には、ザルバノスは瀕死の有様であった。
そこにいたって、彼はまだ己の惨状を理解しない。理解できない。彼は自分が害されるということに心底無知であったのだ。誰一人、なにひとつとして、彼にそれをできたものはいなかったのだから。
それが今、食われている。食らわれている。小さな捕食者はばりばりと皮も肉も骨もそのままに喰らいながら、しかしどのような唸りもあげたりはしなかった。
ザルバノスが生命を喰らいつくされたのと、ほぼ同時。
ひとりの人間が、その場に現れた。
男だった。名前をナナセという。
彼は暴虐を尽くすザルバノスの討伐を請け負った身でありながら、見つけたものは首だけを残して絶命したそれであったのだから、本当に驚いた。
そして、その前に立つ血まみれの少女にも。
「ご無事ですか!?」
思わず大声で訪ねた。彼女がザルバノスを殺害してのけた捕食者だなどと思いもしない。だって、彼女は正しく人間だったのだから。
近づいて、その身を確認して、安堵のため息をつく。怪我はどこにもない。その血は彼女のものではない。そこにきて、まずいことをしただろうかと、思い至った。見知らぬ男に体を探られるなど、うら若き乙女には耐え難いことだっただろう。しかし心配の甲斐もなく、少女は表情に乏しいながらもどこか呆けた顔でこちらを見つめるばかりだ。
「と、とにかく、怪我はないようですね。あなたはいったいどなたでしょう。名前を、言えますか?」
そこで、少女ははっとしたように瞼を瞬かせた。自分の喉に手を当てて、何かを確かめるように擦る。何度も何度も擦って、少女はまるで、今、たった今声を手に入れたかのような辿々しさでナナセに答えた。
ずっと、ずっと考えていた思いを伝えるかのように。
「これ、いさな、ほしぞら」
「いさな、ほしぞらさん、ですか?」
奇妙な言い方だ。自分のことを、これだなどと。しかしその疑問は次の『それ』で吹き飛んだ。
少女は『それ』と、言ってナナセのことを指さしながら。
「おかあさん」
「…………はい?」
- 私は空になりたくない完了
- GM名yakigote
- 種別SS
- 納品日2024年01月27日
- ・鹿王院 ミコト(p3p009843)
・鹿王院 ミコトの関係者