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舞い込んだ仕事
登場人物一覧
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その男は、自分のことをNと名乗った。
本名を名乗らないということをあからさまにしているが、別段、それを咎めるつもりはなかった。
この世界ではさして珍しいことではないからだ。
それが明るみに出ることで自身の生命に関わるような、なんてのはまずいない。大抵は後ろ指をさされ、社会から爪弾きにされることを防ぐためだった。
オカルトとはそういう世界だ。玉石混交のこの世界でさえ、法則から大きく逸脱した事柄は受け入れてもらえない。
時折、声高で大真面目にそれらを語る者もいるが、何に影響を受けたのか、その道の人間からしても目を逸らしたくなるような素人ばかりだ。
だが、こういう仕事をしていると、極々稀にでは有るが、本物に行き着くことがある。
そういう経験から言って、このNという男は、間違いなく当たりの部類であった。
仕立ては二級品だが、ストライプ柄のスリーピーススーツ。髪は綺麗に撫でつけられていて、オードトワレの匂いが少しキツイ。今日は肌寒いと言うのに、後で窓を開けねばならぬことに辟易しながら足元をちらりと見やれば、靴の先が剥げていた。そこまで気が回らないのだろう。
「踵に踏んだ跡ってのは、少し頂けねえな」
「……なにか?」
「いいや、気にせんでくれ」
まずもって、オカルト雑誌の編集室に訪ねてくる人間ではない。来たとしても冷やかしだろうが、よく知りもしない分野に無闇に首を突っ込むような気質にも見えなかった。
そんな男が、前金まで用意して調査依頼をしたいと言う。まずもって、『らしい』臭いが好奇心を擽った。度を超えたフレグランスにも目を瞑ってやろうというものだ。
話を聞くと言うと、それだけで男の顔が綻んだ。わかりやすさには好感が持てる。きっと、もう何件も回ってさんざ断られた後なのだろう。
自分達は藁かという思いも無いではないが、マイノリティであることも自覚しているため、そこを突いて数少ない当たりを逃したくもなかった。
最悪、外れでも前金は入ってくる。本物でなければ記事にもできる。どちらにしろ、旨味の強い話では有るのだ。
「さて、それじゃあ、聞かせてくれ。最近眠れなくて金縛りにあうか? 実家の蔵で知らない文字の本を見つけたか? それとも、上司が半魚人だった? ああ、これは冗談だ。忘れてくれ」
話しやすくなるかと飛ばしたジョークだったが、ウケなかったらしい。クスリともしない男に、へそを曲げられてはかなわないとすぐさま謝罪を入れる。
男は言い出しそうにしながらも、やがて言葉が纏まったのか、ぽつぽつと語り始めた。
「実は、友達が――」
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男の話はこうだ。
彼の友人が、旅先より帰って以降、様子がおかしいのだという。
急に仕事を辞め、食料を買い漁り、自宅に閉じこもって出てこないのだ。
何があったかと男が友人を尋ねても、支離滅裂でまるで会話にならない。まったくもって正気ではない。しかし、だからとて親しい友人を心の病だとして病院に閉じ込めたくはなかった。
それから何日かして、友人の下に一通の封筒が――
「嗚呼、すまんが少し待ってくれ?」
「…………?」
訝しむ男をよそに、席を立ち、スプーンに三杯の粉で泥のような珈琲を淹れる。十分にかき混ぜてからそれを持って席に戻り、座った自分にそのカップを渡してくれた相方へ礼を言ってそのままテーブルの上に置いた。
「最近ろくに寝てないもんでね。かーっ、沁みるねえ。まったく旨くはないんだが。いや、ありがとう」
そう言って、受け取ろうと手を伸ばした相方にカップを渡し、そのままテーブルに置き直して、男に続きを促した。
「すまないな、話の腰を折って。続けてくれ……どうした?」
「いや、その……なんでもない。そうだな。これくらい『らしい』方が良いのかも知れない」
「……?」
奇妙なことを言う奴だと思ったが、それよりも彼の話の続きの方が気になったので(気になったからだ、そうに違いない)深く追求することはしなかった。
何日かして、友人の下に一通の封筒が届いた。友人がそれを話してくれたのではない。何度目かの訪ねていった日に、郵便受けからはみ出ているのに気づいたのだ。
友人はきっと確認もしていない。そのことを閉ざされた入口の扉越しに伝えると、友人は今までにない反応を見せた。
明らかに怯え、戸惑い、泣きじゃくりながら同じことを繰り返し始めたのだ。
「俺は見ていない、許してくれ。そればっかり言うようになったんだ。次の日も、その次の日も、それしか言わないんだ」
「…………なあ、その封筒、あるか?」
「え、ああ、持ってきてるよ。あいつは、気にしないと思う。いや、気にできないと、思うから」
男から封筒を受け取り、全体を眺めるが、宛先も差出人の名前もない。当然消印も見当たらず、つまりこれは、誰かが男の友人宅まで赴き、郵便受けに入れたということになる。自分で、誰かが封筒を見つけられるように、郵便受けから少しはみ出させた状態で、入れたということになる。
まず思い当たるのは罠の可能性。封を空けることをキーとして呪いやそれに類する何かを発動させるのは容易ではないが、可能だ。
「これ、中は?」
「……見た。あいつには悪いと思ったけど、どうしても気になって」
「いや、ならいいんだ。素人って怖いよな」
「……?」
空けてみれば、中には一枚の写真。
「何だこりゃ。スプーンか?」
「ああ、スプーンだ。別におかしいところは何もない。普通のスプーンだ。いや、スプーンを写真に撮るってことは変かもしれないんけど」
「まあ、そりゃそうだな……」
スプーンを持った写真。確かにこんなものを撮影するというのは変に思えるが、スプーンにはなんの異常も見当たらない。念の為裏返してみたが、裏面には何も記載されていなかった。
「誰かの悪戯じゃないか。友達はさっさと病院に連れて行くべきだ。どこに行っても、そうやって追い返される。あいつがあんなふうに怯えるなんておかしいんだ。でも、誰も助けてくれない、それで、あの、頼むよ! もう、ここしかないんだ」
「受けるよ」
「どうせアンタも疑ってるんだろうけど、それでも――え?」
「受けるさ。俺達に任せてくれていい。友達の旅行先は詳しく分かるか? ある程度の経費も計算させてくれ」
「あ、ああ、調べればすぐに、わかると、思う」
「じゃあ頼むよ。この写真、こっちで預かってもいいか?」
「だ、大丈夫だ。あいつがなにか言ったら俺から話すよ。あ、あの、本当にありがとう! すぐ調べてくるから!!」
男はそう言って走りながら出ていった。換気をせねばと腰を上げかけて、その前にもう一度写真を眺めた。
スプーンを持った写真。スプーンには何もおかしなところはない。魔術的な要素をも見当たらない。
「こりゃ本物だ。少なくとも、イカれてやがる」
写真をテーブルに置いて、立ち上がる。室内に充満した香りを払ってしまわねば。友人思いの良い男だったが、ファッションのセンスはいただけない。
体を伸ばし、関節を鳴らして、窓を開けに行く。ついでに片付けてしまおうと、飲み干したカップを手にとった。
あとには写真が残るだけ。
スプーンを持った写真。
スプーンを持った、手首から先が無い写真が。