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月下の秘事
登場人物一覧
ああ、あの方にこの姿を見られるのが怖い。
血を求める癖、呪いに阻まれ滴を舐めることも出来ないこの不様な自分の姿を。
憧憬と密やかな恋慕を抱くあの方が、こんな不完全な姿を見て何を思うか。それが怖い。
夜半、魔物の群が来ると予測されていた街の外れ。
彼女は薄手のワンピースを一枚纏っただけの、酷く無防備な姿で、満月の下にその白い肢体を晒していた。バサバサに伸びた髪は血そのものめいて朱く、瞳はまるで浮かぶあの月のように金光を帯びて夜気に冴え冴えと煌めいている。
髪を整えてもいない、化粧を乗せているわけでもない。それでいて尚、その美貌はいや増すようだった。磨かれた宝石のごとき美ではない。触れたものを皆裂き貫く、割れた硝子の雨のような美しさ。
「嗚呼、煩わしい、煩わしい……よりにもよってこの満月の日に。なんて忌まわしい犬ども。この姿を晒すのは嫌いなのよ。――あの方に見られたと思うだけで、この身に流れる血も凍るわ」
うっそりと呟く女の名は、吸血鬼、始祖――『熱砂への憧憬』
町外れの森の向こうから、ガサリガサリと音を立てて藪を掻き分け、魔物の群が飛び出した。街人達が
Erstineは常ならば携えているはずの絶氷の佳刃すら持たず、ごきり、と両手の五指を広げた。
かたや、今寝台から降りてきたような軽装の、細腕の女が一人。かたや、街人達が恐れに恐れた災厄の狼が二〇から。趨勢は火を見るよりも明らかかに思われたが、
「――受けた仕事は果たすわ。おまえたちに出来ることは一つ。そこで止まって、」
顔の高さに上げた右の指の間から、Erstineの金眼が敵を睨む。
「
ど、と音を立てて地面が削れた。Erstineが地面を蹴り飛ばしたのだ。捲れた土が地面に落ちる前にErstineは魔物の群に接敵した。余りにも速い。
狼が身を捩らせて衝突を回避せんとする前に、女は力任せに右腕を振るった。五指の先から朱き光。爪から迸る魔力が可視化し、朱き五連の剣閃めいて夜闇を斬る。
『ぎゃうっ?!』
『ぎゃいっ……!』
巻き込まれ首を抉られて三体ばかりの狼が吹っ飛び動かなくなる。三体ばかりでは足りぬとばかり、Erstineは爪先に体重を乗せてステップ。狼共が浮き足立ったところに飛び込み、舞うようにターン、爪を振り回した。
その様、まさに朱き暴虐。巻き起こる朱き竜巻の前に狼風情が策をとれるわけもない。憎悪を込めた
『オオォンッ!!』
三方向から狼が飛び込む。右前、左前、後ろ。前方は一挙動で退けられるが、後ろから来る一体はそれだけでは止められない。Erstineは半歩踏み込んで前から来た二体を両手の爪で貫殺、振り棄てる。
向き直る前に背中から襲いかかる一体の狼! それを、
「次から次へと――」
Erstineは無造作に踵を、地に打って迎えた。
雷轟!
Erstineの身体から赤雷迸る! 吸血種としての魔力を雷撃に変換する術。魔力を雷に変換したその余波、音だけで飛びかかる狼を牽制したのだ。狼が怯むように鼻先をErstineから逸らした瞬間には趨勢は決している。
Erstineは迸る赤雷を右腕で絡め取るようにしながら、朱爪一閃。雷纏う爪で狼の身体を引き裂いた。通電し沸騰した狼が焼け焦げ、断末魔さえ許されずに地面に落ちてブスブスと煙を上げる。
「煩わしいと言ったでしょう。――あの方に見られずに仕事を終えたいの。だから最初に言ったはずよ。疾く、死ねと」
無慈悲なる夜の女王が謳う。朱き爪、赤雷を纏いて。
遠くから、新たな群の遠吠えが聞こえる。それに勇気づけられたように、残った数体の狼たちが女に向けて四肢を張り、罵るように吠え立てた。
「――分からないならそれでもいいわ。言葉が通じずとも、爪は通じるもの」
Erstineは再び爪に魔力を込める。
嗚呼どうか、この姿があの方の目に入りませんように。
これから行う殺戮が、血に飢え今も牙を噛み締める不様が、あの方に伝わりませんようにと――
ただ、それだけを祈っている。
月下、狼の断末魔と、赤雷爆ぜる音が踊っていた。
――これは誰にも識られることのない、満月の下の舞踏の話。