SS詳細
降り積もらずに溶ける愛憎
登場人物一覧
- ファニーの関係者
→ イラスト
●白い吐息
ホット・ココアが似合いそうなほど、冴え渡った冬の真夜中だった。すんだ空気はどこまでも透明で、ささやきの何もかも聞こえてしまいそうだった。
ファニー(p3p010255)は空を見上げている。空には月と太陽があるが、明確に今日と明日の境目はない。けれども時計を見れば、次の日になったことがわかる。
また、「今日」が「昨日」になった。そして……。
ふぅ、とため息をついた。
吐いた息は白かった。
ファニーはこんな日にまで空を眺めていると自嘲した。
混沌の空は、かつての世界の空とは違っている。今も、昔も。いろいろあったが……ありすぎたが、星を観る習慣は失われることはなかった。
ファニー自身もまた違う。今のファニーには肉体がある。
かつて、骨だけではない身体を持っていれば寒さなんて感じなくなるだろうと夢想していたこともある。熱のある肉体とはどういうものであろうかと。きっと温かいはずだと思っていたが、なってみればわりと、そうでもない。肌を刺す冷気は、実感を持って感じられた。熱を持っているからこそ、体温が奪われると冷たいと感じる。
けれど、世界の輪郭は、少し広い。
(今日も寒いな)
星を見るのは好きだ。あんなことがあっても、今も、なお。
(晴天、雪は降らず。小鳥一匹いやしないし、花は雪の下。まったくステキな日ってやつだ)
今でも考えてしまう。こんな日は、もしかしたら、空から、一等星が降ってくることがあるのではないかと……。
「……ファニー?」
思い描いていた通りの、声がした。
(まさか)
シリウスの声。
人を惑わす甘い声……。魂すらも奪うような、美しい音色。至上の楽器のような、美しい声。
思わずファニーの思考が止まった。
(そんな。まさか。聞き間違いだろう。そうであってくれ)
強烈に嫌な予感がする。
振り返りたくない。しかし、ファニーは確かめなくてはならなかった。少し間をおき、はやる心臓をなだめながら、ファニーは素早く振り返る。
心の奥底には恐れがあった。
誰も、いない。
そのはずだ。そう思ったが……。
「あれ、やっぱりファニーだぁ」
そこにはあの夜とまったく変わらぬシリウスの姿があった。
美しく、人を虜にするシリウス。
まるで、旧知と偶然出会ったかのような微笑みを浮かべて、シリウスはファニーに手を差し伸べている。
シリウス。
甘い言葉でファニーを唆し、絶望に陥れた悪魔。利用し、踏みにじるためにファニーに近づき、骨抜きにした悪魔。「あの時」、シリウスがファニーを裏切ったとき、シリウスは隕石の下敷きになって死んでしまったはずだった。それを確かめるすべはなかったけれど……。
シリウスは興味深そうにファニーを眺め、頷いた。
「ファニー、人間の姿になれたんだねぇ、ちょっとびっくりしちゃった」
「……なん……で……」
ここにいるんだ。どうしてオレだと分かったんだ?
ファニーの疑問は尽きない。
シリウスは、驚きのあまり身動きが取れないでいるファニーにゆっくりと近づき、あごに手を差し伸べる。パッと振り払われ、やはり困ったような笑みを浮かべて、首を傾げた。
「魔力で分かるよぉ、あんなに甘いバニラの香り……忘れられるわけないじゃん?」
目の前の悪魔は夢でも幻でもない。
(嗚呼――殺し損ねたのか)
すべてを理解した瞬間、かつての記憶が色鮮やかに脳裏を巡った。火花とともに、殺意が再びファニーの身体を駆け巡る。
「シリウス…………この、裏切者があああああッ!!」
ファニーの叫びとともに、風の刃が飛びすさぶ。先ほどまで風のひとつもなかった地面を風は鋭くえぐった。舞い上がった雪が横殴りに飛び、晴天など嘘のようだった。かまいたちがヒュン、とシリウスの喉元をかすめる。しかし、ファニーの攻撃はシリウスを黙らせることはなかった。シリウスは面白そうにただ首をひっこめ、口の端を持ち上げて笑うだけだった。
「そうそう、こんな風な魔力だったよ。とてもよく分かる」
美味しそうに舌なめずりすらしてみせる。
ファニーは攻撃の手法を変えた。
頭上から、雷のように落ちてくる光線。シリウスはダンスでもするようにひょいとかわす。
「あ、やっぱり怒ってる? そうだよね、結構酷いことしたなって自分でも思って……うわっと!」
ファニーは怒りに任せてチカラをぶつけているだけだから、すぐにかわせる。
……かわせるはずだった。一撃ならば。
それは怒涛の連撃だった。光線はいくつにも束ねられているものとなった。角度を変えながら、シリウスを追いつめる多重の猛攻となっている。
「いきなり激しいね、ファニー」
「なんで……っ」
「どうして生きてるかって? お願いしたら、星がかなえてくれたんだよ」
口を開けば、ふざけた答えしか返ってこない。
「っと、これはまずいかな」
空中で身をひるがえし、シリウスは舞うのだった。追撃するファニーの光線は速度が僅かに足りていない。だから、ファニーはやり方を変えることにした。凍り付いた水たまりに光線を浴びせる。光線は跳ね返り、シリウスの翼をかすめた。
「うわっ、これ、洒落にならないよね。あの時みたいに都合が良いことが起こるとは思えないし……」
ああそうか、「召喚」されたのか。ファニーは察した。隕石に妬かれる前に、奇跡的なタイミングでシリウスはこちらの世界に来たのだ。
シリウスは、やはり世界に愛される。
もし神様がいるんだっていうなら、日ごろの行いなんてのを見ていやしないのか?
●悪魔の誘い
「逃がすかよ」
シリウスが逃げ込んだ森の奥は、ずいぶんと深そうだった。誘いこまれているかのようだった。かつてはシリウスの求めに従って。今は、怒りに任せた情動のままに……。
追わない、という選択肢はファニーにはない。
「シリウスッ……!!」
「おっと。追いかけてくれるなんて思わなかったよ。ねぇ、ファニー。その姿も素敵だね」
「魔力目当てだろ」
「まあね」
ほとばしる魔力は、昔よりもたまらなく、甘くなっている気がする。
(もっとも、その分、油断してはいられないみたいだけど)
ファニーの猛攻は、冗談ではなく激しいものだった。
ファニーの指先の一番星は死をなぞる。きらきらと、そして軌道の読めない光線が好き勝手に星座を描いている。想像力がケタ違いに向上しているような気がする。
きれいだ。
その軌跡にしばし魅入っていたせいで、シリウスは微かに目立たぬ星が降りしきっていることに気が付かなかった。二番星。ああ、この魔法の来歴も自分に由来するものなのかな、と夢想する。
想像以上に、いや、想像を上回って、ファニーの魔法は尽きなかった。そろそろ息切れする頃だろう、と踏んでいたが一向にその気配はない。それを、シリウスは喜びをもって迎えていた。
「ずっとずっと、甘くなる。ファニー、また、星の名前を教えてよ。あの時みたいにさ」
「それなら、これはどうだ?」
黒く歪む星が、またもや空から降ってくる。
「ああ」
かすかにシリウスは失望した。
「残念だけど、それは一度見たよ。あの時は避けられなかった。いや、対処のしようのない災害みたいなものだったけど、今はなんとかなると思うよ」
かわす手段はいくらでもある。次元を超えるとか、軌道を曲げるとか、この世界でよく働く魔法もある。しかし、ファニーは過去のファニーとは違う。その差を知らないのが、シリウスの盲点だった。全てをなぎ倒すような隕石は砕け散り、砕け落ちる流星の群れにかわる。
シリウスは弾幕に圧倒される。
(避けきれない)
「終わりだな」
(翼が、もう、もたない)
制御を失ったシリウスは、地面に落下する。
ファニーは倒れたシリウスの上に馬乗りになっていた。魔力はファニーの意思をくみ取ったかのように、刃を形どる。殺意だ。奇麗な氷の破片のような鋭利な刃物だった。シリウスから、面白がっているような笑みが消え失せていた。
「動くな」
言っておきながらおかしなことを言っているなとファニーは思った。動いても、動かなくても結末は同じものではないのか。あとはこれを振り下ろせば終わりだった。シリウスの唇がかすかに動いた。
「…………アルファルド」
懐かしい呼び名に手が止まった。その名は、過去の自分をいやがおうなく引きずり出す。ひたむきで、愚かだったころの自分。思いだしたくないような底辺の思い出。
「……なんだ、命乞いか?」
「……誕生日おめでとう。プレゼントは俺の生殺与奪の権でいいかな?」
「は」
抵抗をする意思はないらしい。ただどうぞ、と差し出されていた。裏があるのだろうか。笑うシリウスを見て、ファニーの心に迷いが生じたのは確かだった。
――ここで、ちゃんと始末してやる。過去に決別をつけてやる。
決意とは裏腹に、ナイフを握りしめる手はかすかに透けた。見た目がどちらであろうとも、シリウスにはあまり関係がなかった。すがたを見て、一目でわかるくらいには、ファニーに執着していた。
……。
「シリウス……どうして」
言葉が、意思とは関係なく、ファニーの口から零れ落ちる。
「どうして裏切ったんだ……」
「どうして?」
それが難しい問いであるかのように、シリウスはしばし黙った。何か役に立たないことを言いだす前に、息の根を止めるべきだろう。どうせ虚言しか口にしない悪魔じゃないか。今だってきっと、助かる方法を千通りでも考えているさ。
どうして?
言い残す言葉が、「誕生日おめでとう」だなんて馬鹿げているじゃないか。もっと言い訳のしようがあるはずだった。
長い沈黙だった。
シリウスは、口を開いた。
「どうして、か。…………君の絶望する顔が見たかった」
シリウスの答えは、想像のどれとも違っていた。
「どんなに取り繕っても俺は悪魔で、他人の不幸は蜜の味だ」
シリウスはそっと手をファニーの手に、そして、ナイフの刃先に添えた。血液がきらりとひかった。それにぎょっとしたのはファニーの方だ。しかしひっこめることができないほど、その力は強い。裏腹に言葉は微かだった。聞き逃してしまいそうなほどにひそやかだった。
「君は怒るだろうか、悲しむだろうか、どんな顔で泣くんだろうか。想像したらすごく興奮して、止められなかった」
「そうか」
ファニーは平静を装った。そうではないことはシリウスの目からは瞭然だった。ナイフを力を込めてにぎりなおす。
「……オレはおまえを殺したい。憎くて憎くてたまらない」
あの屈辱が、怒りの日々が鮮やかに思いだされる。忘れたいと思ったときもある。けれどもそれはできなかった。
「でも、一緒に過ごした日々は楽しかった」
捨て去ることはできなかった。
「嘘でも、偽りでも……楽しかったんだよ……!」
シリウスの頬に、ぽたりと雫が落ちる。
「……ああ、君は、そんな顔で泣くんだね……」
愛おしそうにシリウスは笑んだ。
「それが知りたかった。だからきっと、空からもう一度降りてきたんだ」
ざん、とナイフが振り下ろされる。
●いびつな双星
ごちゃごちゃと混ざりあった感情を整理することすらできず、ファニーは足早に森をあとにしていた。
傍らには誰もいなかった。ただ、冷え切った空気があるだけだ。夜明けの森。うっすらと白み始めた空の星はすでに見づらくなっており、もうすぐ朝が来る。
……空から、羽ばたきの音がする。
「ねぇ、ファニー。そんなにいそいでどこに行くの?」
「いう必要があるか?」
ナイフは地面に突き刺さり、小石をはじいて高い音を立てた。
ファニーはシリウスを殺さなかった。
あの楽しかった日々を否定したくなかった。今日は自分の誕生日だ。ファニーは誰かに言ってほしかった。生まれてきてよかったのだと。自分は祝福されるべきなのだと。
「いいの? 後悔しない?」
からかうように言うシリウスに、ファニーは言ってのけた。
「おまえの残りの人生、全部オレに寄越せ」
「……君、そんな情熱的なセリフ言えたんだ……」
シリウスは行く手を遮り、ファニーの前に舞い降りた。
「また裏切られても知らないよ?」
笑うシリウスを黙らせるように、ファニーはシリウスの胸倉をつかみ、ただその唇を奪った。シリウスはほんの少し目を丸くするが、応える。
どんなに憎らしくても、どんなに歪な関係でも、自分は、この星から離れることは出来ないのだ。この一等星の魔力からは。
おまけSS『星に願いを』
(ああ、ここで終わりなのか。ちょっとあっけないね)
降ってくる隕石の気配を感じながら、シリウスは、美酒を口にしているかのように酔っていた。と、同時に心残りがあると気が付いた。
ファニーの絶望は美味しかった。けれどももっと別の味があるような気がした。惜しかった。自分がそれを味わえないのは。心底悲しかった。
例えば、自分を失ったファニーはどういう顔をするんだろうか?
絶望に駆られたファニーはとっても美味しいはずなのに!
自分には、それを見ることができない。
それを自分が見られないだなんて、悲劇だ。
(ねぇ、ファニー。流れ星って隕石なんだっけ。流れ星に三回願いを唱えられたら、叶うんだっけ? ファニー?)
助かりますように、という願いなんてちっぽけで、ただもう一度会いたいと――。