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さざなみたつ『こころ』のふちで
登場人物一覧
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海洋の南、そこはかつて『絶望の青』と呼ばれた海域が『静寂の青』と呼ばれるようになって久しい。
小さな子供たちの中にそう呼ばれていた事を知らない子もちらほらと聞くようになってきたほどだ。
今は穏やかな海を望むチェネレントラ港の桟橋にココロはぼんやりと佇んでいた。
「はぁ」――と一つ、吐息を漏らす。
白い靄が掌にかかって、空気に溶けていく。
冬の只中、雄大なる海は刺すような潮風を連れてくる。
通年を通してこの海は冷たい。
この風もココロの抱くモヤモヤも、この海のせいにしたかった。
けれど海は何も言ってくれない。
だから、向き合わなくてはならなくなる。
いつもは、何も考えずにいられた。
それはイレギュラーズの1人として各地の戦いに身を置いているから。
研修医として、あるいは医療ボランティアとして、毎日を忙しくしている。
それは今だけは向き合わずにいたいこの気持ちを忘れさせてくれていた。
けれど、ほんの一瞬、本の僅か。
どれほど奔走していても、忙殺されていたとしても、ほんの一瞬はやってくる。
それが今だった。
その一瞬に、ココロは桟橋へと足を運んでしまっていた。
穏やかな静寂の海は凪を持たず、青々とした海はまるでココロの胸の内を示す鏡のように漣を立てている。
ココロの心はたくさんの『好き』であふれている。
皆を救いたい、助けたい。手伝いたい。
そんな気持ちになる源泉は、そんなたくさんの『好き』だった。
その気持ちは何よりも大事で大切にしてきた。
嘘をつかず、その気持ちに向き合うままに突き進んで生きてきた。
たくさんの大好きは、たくさんの素敵でもある。
それで幸せだった。
けれど。
ココロの胸の奥にはもやもやがある。
こんな気持ちになるのは初めてだった。
だから、もうずっと、悩んでいた。
目を閉じて、漣に耳を傾ければ、大好きな人たちの顔が思い浮かんでくる。
大好きな、彼。
彼のことを思うと顔が熱くなる。
非力な私とは反対で、力強くて大きな背中に、その胸に包まれると安心する。
去年は雪の降るシャイネンナハトの街を歩いて、公園でちょっとだけ大胆に、その胸の中に飛び込んだ。
それでも少しだけ遠い顔と視線を交えようと、背を伸ばして渡したプレゼント。
彼は顔を赤くしながら受け取ってくれた。
その顔がココロの気持ちをいつも繋ぎ止める。
嫌われてはいないのだと、わかるから。
次に思い浮かべるのは大好きな彼女。
同じ色の髪と、同じ読みをすることもある瞳の色をした彼女。
お互いをモチーフにしたアクセサリーを身に着けて、あの日も一緒に踊った。
心からの感謝をこめて、わたしの良き理解者であるあなたと一緒に居られることが嬉しかった。
大好きで最高の
それでも、大好きな女の子だと言い切れる。
あの子の方もきっとそうだと、信じていられるのは、長い間に一緒に居続けたからこその絆に他ならない。
あるいは、敬愛する師。
あの人に教えてもらった物は数えても数え切れない。
とても強くて、沢山の人達を纏めて、旗を掲げ先頭を駆ける彼女の背をいつも見ていた。
神様みたいに凛々しくて、強くて。
それなのに、時々かわいい――そんな、大好きなお師匠様。
そんな人の傍で彼女を支えていけるのが嬉しかった。
あの人がわたしを副官だと言ってくれるようになっているのが、たまらなく誇らしい。
そんなお師匠様が、あの日あの場にいたわたし達の全てが輝くと啖呵を切ってくれた。
その言葉がどこまでも嬉しかった。
それに、黒髪の少年。
最初はほんの子供だった。集まって生きる子供達の一人だった。
それが自分の意志でアドラステイアに行って、いつのまにかうんと格好良くなっていた。
ココロが上げた忠告の事を胸に秘めてあの場所で生き抜いた。
いつまでも、そうなのだと思っていた。
ココロはそんな彼が大好きだ。
真っすぐに受け止めて、それに答えようとする少年に『俺もココロの事好きだよ』と、そう言われた時のことは忘れがたい。
まだ子供だと思っていたのに、どんどんと格好良くなっていく少年の告白は親に愛を乞うようで。
そんな彼の言葉にドギマギとしていた。
それから――わたしの勇者様。
最初は綺麗な人だと思っていた彼女は、本当は『彼』だった。
シンデレラで勇者様、わたしをシンデレラにしてくれる人。
冬日の太陽のように、彼の光になれたいいと思った。
その気持ちにこたえたいけれど、それはやっぱり『わたし』には過ぎた扱いに思えてもいた。
あの日以来、シンデレラとしてだけではなく王子様としてもわたしに接してくれる。
自分のことを好いてくれる人を、隣で一緒に輝こうとしてくれる人を、嫌いになんてなれるはずがない。
真っすぐに、真剣に気持ちをぶつけられて嫌なはずがない。
それでも、彼には『わたし』以上に彼のことを大切に思っている人が何人かいて。
その真っすぐな気持ちを見たら、彼の気持ちを受け入れきれずにいた。
そうやって、思い浮かんだ顔が、泡のように遠ざかっていく。
そのまま消えてしまうような気がしたのはただの錯覚だった。
もう一度目を閉じて振り返り思えば、たくさんの大好きが胸にあふれている。
その全てが同じくらいに大切で、ココロに生きていくための力をくれる。
彼らを助けるための支えるための力をくれる。
それなのに、冷たい冬の風は、そんな『こころ』に現実を突き立てる。
自分が好かれる側に立って、初めて知った。
選びきれないくらい沢山の『好き』が持っているもの。
誰と一緒に生きていきたいのか。
今度は『わたし』にとっての一番を選ばないといけない。
平等な大好きじゃあいけないの? などというセリフは、傲慢できっと誰かにとって失礼だ。
わたしを選んでくれた勇者様がいる。
選んでくれている人たちが居るから、『こころ』も選ばないといけない。
決めたくないのか、決められないのか、自分でさえも分からない。
ふと、鳴り響いたのは警笛の音だった。
甲板にいる人が声をあげている。
スロープが降ろされ、怪我を負った沢山の人が降ろされてくる。
「怪我人が……!」
それは仕事の合図だった。
生死の境にいる人々が、自ら動けないような人たちが、大勢降ろされていく。
我に返り、ココロは仕事の場に向かって走り出す。
飛び込んだ現場は、慌ただしく、一瞬の判断ミスが死を呼んでいる。
一瞬の判断が、死を遠ざける。
死んでも死なせない――そのために、ココロは死力を尽くす。
――心のどこかで、そのことに安堵する自分がいる。
考え事をしなくて済むから、大勢の患者が運び込まれてくることに感謝してしまえば『わたし』は『医術士』としても失格だ。
そんな自分への嫌悪感さえも、仕事は全てを呑み込んで押し流していく。
荒れ狂う波濤のように、全てが呑み込まれ攫われていく。
チェネレントラの港には冬の潮風が吹いている。
日々に忙殺される研修医の娘がその領地。
かつて『心』という形ない何かを意識させてくれた灰被り姫の名が付けられた港に、冬の風が吹いている。
風はもうすぐシャイネンナハトの夜がくることを囁いているようで。
けれど、今はまだうやむやなままに心は風に靡いている。
それに向き合う日がくるまで、きっと、この風はおさまらないのだろう。