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Reasons why I sleep with you.
登場人物一覧
私が彼女を同じベッドに入れる三つの理由。
一、最初は多分、極自然な成り行きだった筈だ。人形はひとりで睡るものに非ず。人に抱かれてこそである。
二、一度一緒に寝て仕舞えば、ひとりのベッドには温もりが足りない。
三、本当はとても心細いのだと云ったらどうだろう。私を識る人には『嘘仰い』と笑われるだろうか。
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未だ、其の少女の背丈が梣の槍に追い付いて居なかった頃。
大凡に於いて、風の名を冠した彼女が、抱いた感情を人は俗に『一目惚れ』と呼ぶ。
まるで、お人形の様だと思った。最初の印象は、そんなもの。
蜂蜜の様に艶やかで、柔らかい金糸の髪に、白磁の肌に、硝子の様なアリスブルーの瞳。我乍ら月並みで、在り来たりな喩えだと思う。だけれど、其れ程迄に、言葉を重ねれば却って陳腐と化してしまうだろうと云う位に、其処に在る少女は完璧だった。
出逢いは、春寒に、薄紅のさくらほろほろ、舞う季節。噴水の元で佇んで居る少女を、対岸にあるベンチで見ていた。
何となく気になって、翌日も其処に訪れると、まるで昨日から動いていないかの様に、少女は矢張り居て。途中、僅かな間、眼が合った気がする。
そして、其の翌日はもう流石に居ないだろう、と思いきや矢張り居るから、どんなに美しい少女にしたって大概だな、と迄思った所で、自分だって日が暮れる前まで其の娘を見ているだけだった事実に気付くと、急に居心地が悪くなって屋台で買った珈琲で指先を温め、ホットドックを齧って。かわたれ時に差し掛かって帰ろうと腰を上げると、彼女が小さく此方へ手を振った様な気がしたので、手を振って返した。
多分、あれで『さよなら』の意味なのだろうな、と早速訪れた失恋。されど其れでも翌日も足が自然とベンチへと向いた。もし居たら、話し掛けて珈琲でも差し入れてやろう、紅茶の方が好みだろうか。ミルクと砂糖は? そんな事を悩んだ末、湯気の立つカップを二つ、其れからハニーチュロスを二本。嗚呼、可笑しい。此れを、恋心と呼ばずして何と呼ぼうか。この日に漸く自分の感情に思い当たる名前を付けて、勝手に納得して。自分も大概変わっていると肩を竦め乍ら定位置に着けば、聴こえたのは派手な男の罵声。其れに対して的外れな回答ばかりする、初めて聴いた少女の聲。
接触は、偶然。平凡過ぎて、語り草にも成らない様なもの。共に歩き出したのは、成り行きで、あの時不意に彼女の手を引いてしまったから。其れにしたって、出来過ぎてる位に使い古されたシチュエーションで。逆に嘘臭い、とすら感じる様な事が理由に当たる。
物語――ふたりの出逢いを話すにしても、もう少し捻った方が良いのではないかと疑う程の事象は、本当に或ったのだから笑う他あるまい。
一つ、此の出逢いに想像だにしないとっておきのスパイスを加えるとしたら――其の手を引かれた少女が
然して、十四や其処いらにして、人生の達観を通り越して諦観の域に辿り着いて居た少女は、手を引いてしまったが故に辛うじて両立が成り立つふたつの感情に苦悩する事になる。『忘却』と云う
恐れは心の片隅で、何時爆発するかも知れぬ爆弾を抱える様に在って、欲しいと思えば、思う程に、怖くなる。
どうせ忘れられてしまうのなら、と云う打算の元、距離を詰めるのは早かった。嬉しいのか、如何なのか判らない誤算は、『まるでお人形の様だ』と揶揄した少女が、物事を忘れるだとか、そう云った事には縁遠い本物の精巧な人形であった事だ。
秘するが花と人は云うが、此の少女人形は其の様な美意識は持ち合わせて居なかった。しれっと話された身の上話に、流石のゼファーでも顔が引き攣ったし、身は硬直していた。
『何よ、其れ』、『其れじゃあ、まるで――』。まるで、
憐む事はしなかった。憤りを覚える事も、恐怖する事もなかった。『ふぅん、変わった身の上なのねぇ』とは返したが、若しかしてとんでもない子に惚れてしまったのではないかと頭を抱えたし、健康が売りな体なのに微かに頭痛迄した。本当に、本当に、何もかもが理解の範疇を超えているのだから。
有る意味では此の恋路は『子育て』と云うものに近かった。人としての情緒もへったくれも無いお人形。本来であれば飲食も睡眠も必要無いとは云うが、せめて人に近付けてやりたかったから、色んな所へ連れて行ったし、食べさせた。だが、『眠るって如何すれば良いの?』と問われた時ばかりは矢張り頭を抱えたくなったのは、今となっては良い思い出である。
――お人形の情緒を育てるのに為になる本?
――嗚呼、いえ、お人形の様な子をですわ。
――余計な詮索はしないけれど、君は変な所で真面目な子と見た。……ふうん。そうだな、絵本でも読み聞かせてやれば良いんじゃないかい、此処、本屋だし。
――待って、私、絵本を読んだ事なんて、
――なら尚更だよ君。絵本って云うのは何かしらの教訓に基くものが多い。一緒に読んでも損にはならない筈さ。
そうして何冊かの本を見繕って貰って、抱えて帰った事もある。旅の身には少しばかり荷物になったが、人形の心に彩りが芽生えれば、と云う一心で。彼女が睡りに就くまで、ベッドの傍の椅子に座って読み聞かせて見て、苦節、何日か。抑揚を付けたり、少しばかし声を変えて役割を演じるのにも慣れて来た頃には、人形の方から物語を乞う迄に成長していたのだから努力の甲斐もあったものだ。
街で見掛けた赤子を連れた女性が歌っていた子守唄を、拙くも記憶をなぞって唄ってみたりもした。自分には与えて貰った事の無い其れは、歌の才とかそう云った段階の話では先ず無く、余りに下手糞で聞けたものでは無かっただろう。
此の愛らしい人形を手放す気は当に無くなっていた。けれども、じくり、じくりとした痛みが、胸の奥を這う。
今迄に出逢って、
どうせ、何時も通り。是迄通り。忘れられてしまうのが、関の山。そう、思って居たから。
其れでも、何時か、何処かで。ほんの少しの、小さな小さな奇跡でも、偶然でも良い。私を忘れないで居てくれる子が居るならと。只管に自分に都合の良い期待を彼女に課せてしまっている、自分が居て。其れも亦、厭になる。
「――……ゼファー? 顔色が悪いわ」
其れに、『泣いてる』。人形が何時の間にか自分のベッドを降りて、覗き込む様にして、其の細い指で不快に頬を流れるばかりの滴を指で拭ってくれていたのだ。『具合でも悪いの?』と、人を慮る迄に至った彼女は、もう人形では無い様にも思えた。
嗚呼、どうか。誰かが私を忘れずに居てくれたなら。其の人が――、
「貴女で――嗚呼、うん」
「……? 如何したの?」
「貴女は私を忘れないで」
「わたしがあなたを忘れる? 無茶言わないで。変なゼファー」
「……ずっと一緒に居て、って云うプロポーズのつもりだったんですけどぉ?」
「いーよ」
「え?」
『一緒に寝よ』。云うが否や、シーツにしなやかな四肢を滑らせて布団に潜り込み、自分の腕の中で丸まる猫の様な其の軀は、人の熱と云うにはやや足りなくとも。充分過ぎる『私の欲しかったもの』。
其れからのふたりは、自然と一つのベッドで睡る様になった。其の夜の出来事の後、人形――アリスは、『No-40』の刻印を消す様に傷を付けて。そんな彼女をゼファーは『蜂蜜ちゃん』なんて呼んで。うっかり弱音を吐いたのには気恥ずかしさが残る所であるが、怪我の功名と云えよう。共に歩む事を決めたターニングポイントになった、其れだけで十分過ぎる程のさいわい。
宿を取る時も、必ずふたりでひとつのベッド。
何て事の無い普通の宿屋のベッドはふたりで睡るには、ちょっと暑苦しくって窮屈なのに、其れに依って齎される心の安寧と、そして温もりを識ると云う事は。ひとりで眠る寂しさと孤独を識るという事と同等でもある。
だから、絵本が必要無くなったふたりは、此れからはどうしようか、と悩んだ結果。うんと沢山、寝物語として自分達の事を語り合った。出生、如何して育ったか。39人の
一寸した喧嘩をしてしまった日でも、同じベッドに入れば、外方を向いて寝るのも馬鹿らしくなって、結局抱き合って睡って仲直りが定番であった。
慕情にせよ、愛情にせよ。想いが近付けば近付くほど、身体の距離も近くなって行く。其れは、近付けば近付く程に孤独が怖くなる。別離が、怖くなる。ある種の足枷だ。其れでも、離れたいとは思わない。
『その方がお金が浮きますし。浮いた分で少し良い物を食べられるでしょう?』とか。
『今夜は少し冷えるから』とか。
そんな、何かしら尤もらしい理由を付けて、聞かせて納得させたかったのは屹度。『貴女』、『あなた』の事じゃなくって、『私』、『わたし』自身の心だったからに他ならず。幾度も子夜を重ねれば、重ねる程に、今日が、明日が、互いが恋しくなって行くものだから。
恐怖を抱え乍らも、触れ合う温もりを、指先の熱を、求める事を望んで。選び取ったのだ。腕の中にある此の小さな温もりは、おかしな事に。あんなに睡る事に難儀していたと云うのに、ひとつのベッドで良くなった日から、私よりも早くくうくうと寝息を立て始める事だってあるのだ。其の花瞼に口付けて自分も睡りに落ちるそんな日々も存外悪くは無くて。
「あのね。あなたは愛情を注がれなかったって云うけれど。こうして誰かに愛情を振り撒けるのも屹度。かみさまがくれた
或る日、薄掛けのタオルケットに包まって、アリスが未だぎこちない笑みと共にくれた其の言葉は、僅か残っていたゼファーの隙間を一瞬で埋めてしまって。
居場所を作る事も、誰かの居場所になる事も、何処かで恐れ心を蝕んでいた呪詛の烙印から、優しく穏やかな夢の様な世界へと引き揚げてくれたのだ。
「――ねぇ、わたしに人の心を、もっと教えて、ゼファー」
自分の名前を呼んでくれる美しい脣は、甘美な響きは、どの様な至高な宝石にも、果実にも引けを取らない。若しくは、まるで甘ったるい蜂蜜の様で、理性迄とろりと蕩けそうな思いで啄む様に食めば、受け入れた彼女の白い指がくたりと弛緩した様に一度開いて、其れから力弱く亦、結ぶ様に握り返された。
其れからと言えば、美しい形をした爪が皮膚に食い込んで、訴えたってお構い無しだ。決してそう云う嗜好は無い筈だが、こうも完成された『少女の理想型』とも云える彼女には
此れから先、幾度となく廻り出逢う事になる春の精はすっかりと形を潜めて。肌に纏わりつく生温い空気は、夏の先触れ。しょうもなく冴えず錆び付いた鉛色の雲に茫々と夜雨が煙る夜を越えて、じとりと滲む汗で湿った掌も、軀も。重ねて睡るふたり、からりと暑く開放的な次の季節の目覚めを待ち侘びていた。