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ずっとここに
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透き通るような空だった。青い空には雲一つなくて、穏やかな太陽が森を照らしている。道の中央には光を遮るものは何もないから、陽光はまっすぐに降り注ぐ。前髪の隙間から差し込んだそれは眩しくて、ジョシュアは静かに目を伏せた。周りの景色は妙に明るくて、俯いていても光が皮膚を刺してくるようだった。
リコリスに早く会いたいと思う一方で、自分の身に降りかかった怖いことが何なのかを聞かれてしまうのが怖かった。きっと彼女はジョシュアが話し始めるまで待っていてくれるだろうけれど、自分の態度にキーラへの怯えが出ていたり、過去の出来事に引きずられて上手に笑えなかったりするような気がして、不安だった。でもリコリスの家に着けば、彼女の微笑みを見たら、苦しいことを忘れられるような気がするのだ。だから家までの道のりは気が急いて、家に着くころには少し息が上がっていた。庭先で出迎えてくれたカネルが腕の中に飛び込んできて、それから玄関の扉が開けられた。
「いらっしゃい」
ハロウィン以来ね。彼女はそう微笑んで、家の中に入るように促してくれた。
家の中は温かった。魔法の道具のおかげなのかそれとも別の何かのおかげなのか、まだ暖炉に火はついていないのに、ほっと息を吐きたくなるほどの温もりがそこにはあった。
「今日はゆっくりしていってね」
ジョシュアはこくりと頷く。氷のように固まりかけていた心に穏やかな熱が当てられて、じわりじわりと溶けていく。
今日はご馳走を作りますね。そう声に出したときには自然に笑えていて、安心した。
キッチンを覗くと、ハロウィンパーティーの時にはなかった香辛料が増えていた。あれから街に出かけられたのだと思うと嬉しくなるようで、同時に一緒に出掛けられたら良かったのにと思ってしまう。
ゆっくりと息を吐いてから、まずは炊き込みご飯の準備を始める。ご飯を炊いている間に他の料理の支度をすれば、炊きあがる頃に料理の準備ができる算段だ。よく手を洗ってから食材を洗って切り始めると、カネルが食材の匂いに釣られたのか、足元にすり寄ってきた。
「カネルの分もありますからね」
優しく声をかけると、カネルは嬉しそうに尻尾を振った。危ないから離れていてほしいと伝えると、カネルは椅子に座っているリコリスの膝に飛び乗った。あらあら、と彼女が笑う。
「手伝おうと思っていたのだけれど」
「あ、いえ。リコリス様は座っていてください」
「いいの?」
「はい。今日はお祝いさせてください」
ジョシュアが微笑むと、リコリスはふんわりと頬を染めた。それから唇がゆっくりと弧を描いて、「ありがとう」と紡いだ。
今日はリコリスの誕生日だ。去年と今年と彼女の大切な日を祝うことができるのは嬉しい。時の流れの速さには驚かされるけれど、それは彼女と過ごす日々が輝いているからなのだと思う。少し前までハロウィンの準備もあったから慌ただしい時が続いたけど、誕生日は絶対にお祝いすると決めていて、そのための準備もしていたのだった。
作る料理には心を込めて。おいしくなあれと魔法の言葉を唱えながら、丁寧に丁寧に作っていく。
何度か練習したから、手順に戸惑うことはなかった。揚げ物を作るときは油が跳ねないように、加熱しすぎないように。卵を溶くときは均一になるように。練習のときに気が付いたことを思い出しながら、調理を進めていく。
「できました」
テーブルに並んだのは、さつまいもと鶏肉の炊き込みご飯、きのこのかきたま汁、肉団子。美味しそうとリコリスが微笑むと、カネルも食事が始まると理解したようで、ジョシュアの膝に飛び乗ってきた。「ご飯をくれるんでしょう?」とでも言うように尻尾を振っていて、リコリスと顔を見合わせて微笑み合う。
「食べましょうか」
頷いてからゆっくりと息を吸う。
「リコリス様、お誕生日おめでとうございます」
彼女の目が静かに静かに潤んでいく。それからふわりと表情が柔らかくなって、「ありがとう」と笑ってくれた。その瞳に留められた水の膜が綺麗で、ずっと見ていたいような、目を逸らしてしまいたいような気持ちになった。
二人と一匹でいただきます。カネルが火傷しないように、カネルの分は冷ましてから器に盛った。さつまいもや鶏肉、人参等の具材は皆で食べられるように小さく切ってある。人参やさつまいもの色が鮮やかで、食欲をそそる見た目になっていた。
カネルがすんすんと匂いを嗅いで、それから炊き込みご飯に口をつける。美味しそうに頬張っているところを見届けて、ジョシュアとリコリスも炊き込みご飯を口に運んだ。
「美味しい」
出汁の香りが良いことやそれが食材の味わいを引き立てていること等を、リコリスは一つひとつ丁寧に褒めてくれた。皆で食べる食事は美味しいわと彼女は笑って、また一口頬張る。
かきたま汁は卵がふんわりとしていて、肉団子は噛めば崩れる柔らかさで、ソースに作った甘酢がよく絡んでいて美味しかった。自分で何度か作って食べたはずだけれど、やっぱり今日食べたものが一番美味しくて、一緒にいて安心する人と食べる料理は美味しいのだと思った。
「ジョシュ君、随分料理が上手になったのね」
「頑張りました」
誉め言葉を素直に受け取るのは気恥ずかしかったけれど、彼女が与えてくれた優しさを零したくはなかった。ほんのり熱い頬は温かい料理を食べたせいなのだと、心の中で小さく言い訳をする。
ゆっくり食べていたはずの料理はあっという間に食べ終わってしまって、空のお皿が並んでいるのが何となく寂しかった。だけどリコリスが「今日もケーキを用意しているのよ」と微笑んでくれたから、寂しさは静かに消えていって、温かい気持ちが残った。同じく食べ終わったカネルはジョシュアの膝の上で甘えていて、時折尻尾が胸をくすぐる。温かいと、再び思う。
「今日は梨のパイにしてみたの」
机の上に、ことりと皿が置かれる。上に被せられていた蓋を取る彼女の手を、つい見つめてしまう。
「綺麗」
丸いパイの上に、スライスされた梨が円を描くように並べられていた。梨は甘く煮てあるもののようで、照明の光を受けて柔らかな光を返している。
「これは今日来てくれたことと、この前のパーティーのお礼」
リコリスが柔らかく微笑んだ。彼女がハロウィンパーティーをジョシュアが思っている以上に喜んでくれたことが分かって、心がふわりふわりと浮かんでいってしまいそうになる。それを押さえるように息を吸って、ジョシュアは隠していた袋を取り出した。渡すなら今だと思った。
「あの、これ、お誕生日プレゼント、です」
リコリスの細い指が、そっと箱を受け取る。丁寧にその箱を抱える彼女に「開けてもいい?」と尋ねられて、ジョシュアはこくりと頷いた。リボンが解かれていく音が、なんだかくすぐったい。
箱から出てきたのは、台座の上に硝子で出来たドームが乗っているものだ。ドームの中では黄色のフラワーライトが開きかけていて、華やかな様子をうつしていた。
「硝子の中の、お花?」
「ええ。ガラスドームオルゴールというものです」
ドームの中に閉じ込められた黄色の花に見入っていた彼女だったが、オルゴールだと気が付くと、ネジを回してそっと机の上に置いた。流れる音は優しくて、柔らかくて、聴いていると心が澄んでいくような気がした。それはリコリスも同じようで、淡く色づいた唇が「綺麗な音ね」と呟く。
「大切にするわ。ありがとう」
ドームの中にある花は冬明花という。昼間に陽光を溜めて夕方頃から咲き、夜を仄かに照らしてくれるものだ。一緒に花を見たり、手紙と一緒に花が贈られたりしているから、彼女も花が好きなのではないかと考えた。寂しい夜に寄り添うものになってくれたら良いと思って用意したものだから、リコリスが穏やかな表情を浮かべているのを見て、思わずほっとした。喜んでくれてよかったと、心から思う。
「ジョシュ君がくれたもの、ぜんぶ大切なの」
リコリスは貰った手紙を大事に箱に入れていることや、貰った花を押し花にしたことなどを大切に語ってくれた。与えられた優しさや温もりを零さないようにそっと抱えているところが自分と同じように思えて、胸がきゅっと音を立てた。
彼女は最初に会ったときよりもずっと笑えるようになっていると思う。最初に出会った日に見た微笑みは、もっと寂しそうで、切ないものだった。だけど今はそんな様子が落ち着いて、明るくて眩しいものに変わりつつある。この前の彼女はジョシュアの友人たちを温かく迎えていたから、この世界の人々ともあんな風に仲良く過ごせたらと強く思うようになった。
「僕もリコリス様から頂いたものが、とても大切です」
だけど、どうしてだろう。もし彼女が本当にこの世界の人々と仲良くなれたとして。願っているはずの未来は嬉しいはずなのに、胸がちくちくと音を立てる。彼女のためになることは自分にとっても嬉しいはずなのだから、これはきっと気のせいに違いない。そう思ってジョシュアは紅茶をゆっくり飲んだ。
梨のパイは甘く柔らかい梨がカスタードの程よい甘さと絡んでいて、口の中で溶けていくようだった。さくさくしたパイの食感が丁度良くて、「美味しい」と言葉が零れる。
「良かった」
リコリスがほっとしたように笑っている。その表情を見ていると、少しでも長くここにいたいという思いが湧き上がってきた。
混沌に戻ればキーラがいる。そう思うと温かいはずの手足が冷えていくようで、リコリスに見られないように手を机の下に隠して、そっと擦り合わせた。
「食べてしまうのが、勿体ないです」
「ふふ。また作ってあげるわね」
「ありがとうございます」
ケーキを食べ終えたら、帰るときのことを考えなくてはいけなくなる。だからすぐに食べ終えてしまうのが嫌だった。この時間を少しでも伸ばしたくて、彼女に昔話をねだった。
「そうねえ」
リコリスは少しの間考えて、初めてカネルに出会ったときのことを教えてくれた。使い魔として飼われている猫の子を貰い受けるのが魔女のしきたりなのだが、カネルはそうではないという。
「雨の中でたったひとりで震えていたんだもの。放っておけなくて」
最初は里親を探したそうなのだが、カネルに使い魔としての素養があると気が付いて、自分の元で使い魔として飼うことにしたのだと彼女は笑った。
「カネルもここに来て幸せなのでしょうね」
「ええ。よく懐いてくれているわ」
膝の上にいるカネルの頭を撫でると、頬を摺り寄せてくる。その様子が可愛らしくて、また撫でたくなった。
ゆっくり食べていたはずのケーキもいつの間にかなくなってしまって、何かしてほしいことはないかと聞けば、洗い物を手伝ってほしいと言われる。お皿もカトラリーも流し台に運んで、洗い物を始めようとすると、「あら」と驚いたような声が降ってきた。
「手が荒れているわね。痛いでしょう」
「あ、でも、大したことはないです」
触るな、毒がうつる。過去に言われたことだ。ただ触るだけでは毒はうつらないと伝えたところで信じてもらえなくて、時が経った今でも気にしてしまう。だからついつい手を洗いすぎてしまって、気が付けば手がかさついて赤くなっていた。
「でも、このままだとつらくなっちゃうわ」
リコリスが部屋の隅から小さな壺を持ってくる。蓋を開けると、肌色の軟膏のようなものが入っていた。
「ハンドクリームよ。作ってみたの」
手を出してと言われて、戸惑う。過去の出来事ともしもの想像が頭をよぎり、手を引っ込めようとしてしまう。だけど彼女はゆっくりと笑って、ジョシュアの手をそっと包んだ。
「ジョシュ君に優しい出来事が訪れますように」
魔法の言葉と共にハンドクリームが塗りこまれていく。冷えた手足が感覚を取り戻していって、本当はこうやって優しく触れてほしかったのだと気が付いた。
何かあったら、こうして甘えてもいいのだろうか。ここに来てもいいのだろうか。そう口に出せば彼女は「もちろん」と笑ってくれるのだろう。これからもこうして温もりに触れられると思うと、怖いことが少しずつ遠ざかっていくように感じた。
ずっとここにいたい。帰りたくない。そう強く願ってしまうけれど、混沌に帰ってからも頑張りたいと思った。