酩酊なれど一時の安寧

登場人物一覧

　氷の崩れる音が、微かに響いた。

　酒は甘美なる味を秘めている。
　喉を焼く。それが狂おしくも堪らない。
　やがてなり脳を蕩けさせれば至大となりて。
「あー……ああぁぁ……なんなんだよアレはさぁ……あの量はさぁ……」
「やれやれ、飲みすぎですよギルオスさん」
　幻想。ある裏通りに存在する酒場――いやBarと言う方が雰囲気が近いか。
　カウンターへと突っ伏しているはギルオスだ。眼前にあるはグラスに入った甘美の塊。
　何を嘆いているのか何をのたまっているか。端に聞いただけでは心当たりが多すぎる。
　さてしかし、それに合いの手を入れるはミディーセラだ。
　二人してBarのカウンターに隣り合い、グラスに注がれた酒が一つずつ目の前にあれば。

　――事の始まりはある場所に良いBarがあるという噂を聞いた事だった。

　ローレットでの依頼整理も終わった後に訪れてみれば、と。日暮れ頃、その入り口の前でギルオスとミディーセラは偶々出会い、そのままご随伴と相成ったのだ。君はどこでこの店の事を――偶然ですね――などと言った他愛もない話を最初は繰り広げていたのだが。
「ハハハお連れ様はどうやら随分とお疲れのご様子で」
「そうなんですよマスター。ええ――ああ、いや実は連れというか。こちら、わたしのおとうさまなんです。ねぇおとうさま、今日はある程度の所でお酒もストップしましょうね～？」
「いやぁ……君はぁ何を言って……！！　ちが、違うよマスター！　僕は子持ちじゃない！」
　否定する言はそれでいいのかギルオス……！　なお念の為述べておくがギルオスとミディーセラの間に血縁関係はない。父や子はおろか……というか、そもそも外見から言えば『そう』は見えないかもしれないが、実際の所年上なのは――
　ともあれ酒が進めば言も回る。
　すっかり酔いが進行している様だ。少なくともギルオスの頬は赤く染まっており、その声色はテンションと共に若干高く。潰れるという程では無さそうだが、未だ肌白きミディーセラと比べれば明らかに『酔っ払い』である。
　その口端から漏れるは愚痴の愚痴の愚痴。
　仕事の量が最近多いだの、また郵便箱に不審物が届いていただの、この前はなんか信仰対象に担ぎ上げられただの……グラスを片手にまたカウンターへと突っ伏せば。
「まぁ偶の休暇が大事ですよ。ついでに、こんな感じで適度なアルコールを摂取するのもね」
「……『適度』なアルコール摂取は君の彼女にこそ言うべきじゃ……」
「それはそれ、これはこれです」
　思い浮かべるはいつも『ほろよい』な紫髪の――である。
　彼女は良いのだ。彼女は大体酔っているし、それが平常。
　そもそも『適度』とは人により異なるもので……というかそういえば。
「――この前。二人で飲みに出かけたとか聞きましたけれど」
　こことは違う別の店へ。自らには告げずにこっそりと。
「ちょっと待とうか。それは誤解だよ」
「ほう誤解」
「いや本当の事でね！？　信じてよ！！　あれは依頼だったんだよ！！」
　だ、が。ギルオスの言う通り、実際の所それが急なる『依頼』の一環であったことをミディーセラは知っている。ただ単純に今思いついたのでからかっているだけと言うか――まぁその一件に関しては別の物語である故、事細かくはここでは語るまい。
　簡単に述べるならば、少し前にそういう事があったという話だ。
　あるお店へ依頼の為に立ち寄り、酒と食事をほんの少し。件の一件で共にあったのがミディーセラの特別な片割れでもある『彼女』であり……
　しかしあの折はとても穏やかに飲める雰囲気ではなかった。
　色々あって銃と剣が入り乱れて闘争と逃走のあれやそれ……
　酒と食事の匂いよりも血と鉄の臭いが印象深く残っている程で。
「そういえばその後の話……いや厳密には始まる前、かな？　彼女に言われてたんだよね――バレたら『呪いの手紙』が届くかもって話だったんだけど、呪いの手紙ってなんなのさ？　ハハハやたら物騒な言動だったんだけど……」
　と、ふとギルオスはその折の彼女の言動を思い出した。もし彼に秘密の随伴がバレたら。

　――まぁちょっと呪いの手紙とかぐらいは暫く届くかもしれないけど――

　などと言っていたのだった。あれははたしてどういう冗談だったのか――と問えば。
「手紙、呪……えっ……ああ。もしかして、欲しいんですか？　あの手紙」
　なんかガチっぽいとミディーセラの言動からギルオスは察して。
「いやその……呪いって言う程ではないですけれど……でもまぁ御所望なら今度……ええ。分かりました……今度送りますね。ちょっと楽しみに……楽しみ、に？　しといてください」
「待つんだ。欲しいとは言っていない。ただ僕は『何？』と聞いただけでね……！？」
　ギルオスさんって変わった方ですのね……などとまで言われる始末。なんなのマジで！？
　冗談の類か何かの比喩の類か。
　されど心底深刻な声色では互いにない。ああ、全く平穏極まる空間である事だ。
　身体を揺らす酒を楽しむにはこうでなくてはならない。
　血や硝煙の入り混じる場で何が楽しめようか。生死の狭間で酒に揺蕩う事を楽しむ奇特な者など……ああ、いやまぁ広い混沌だ。絶対にいないとは否定はせぬ、が。少なくともミディーセラやギルオスにとってはきっと『そう』ではなく。

　ただ純粋に。このような空間でグラスを揺らして水面を楽しむ。

　どことなく聞こえる音楽の音色は、ヴァイオリンか。
　ゆったりとした曲調は心を穏やかに。伴って、二人して他愛もない話を続けながら。
　特に――甘い要素が強いカクテルは酒の進みを加速させて。
「ギルオスさん、こういうのはどうですか？　私は辛いのよりはそっちの方が好きでして」
　言うミディーセラの目の前にあるのはバイオレットフィズ。
　すみれ色が注がれたその杯は美しく、杯の口元には柑橘の輪が添えられていて。
「ああ良いね。本当に良いよ。カクテルも好きな方さ――特にこういう『場』ではね」
　わいわいがやがやと、二人だけでなく何人もの単位で騒ぐ『場』ではあまり頼まぬが。
　落ち着ける、ゆったりと飲める場であるならばその味を充分に楽しめるからと。
「ほう。なるほど……酒の味その物よりも雰囲気によりけり、ですか？」
「純粋に好きかどうかで言うならワインの系統かな。味と……なにより匂いも楽しめるのが良い」
　飲む前に鼻を擽らせ、嗅覚でも楽しめる。
　赤の色は素材のあらゆるが詰まっていて、白は旨味を抽出した葡萄の神髄。
　それぞれを舌で踊らせる事の出来るワインが好みなのだと。特にワインは生まれ出でた地域によって食事に『合う』ものが変わるという顔の違うそれぞれもまた特徴。呑めば飲むほど違いがあって面白く。
「ただこうして二人や複数で飲むとなるとね。
　一人で楽しむのと、二人以上で楽しむ時に好きな酒ってのはちょっと違うのさ」
「つまり――ギルオスさんが自宅で酔い潰れている時は、部屋の片隅にワインの空き瓶が大量に転がっているんですね？　なるほど新事実……！　今度遊びに行きますね。手紙も送った後に」
「誤解がすぎる！！」
　そこまで酒飲みではないのだと。もし自宅でそうならば、完全にアルコールにどっぷりと嵌っている様が想像できてしまう……違う違う。そこまで呑兵衛ではない。
「まぁ僕はともかく、逆に君は甘いの派かい？」
「ええ。さっきもちょっと言いましたが、私は甘い方が好きでしてね。開拓がまだの様であれば、私のお勧めでもいかがですか？　バイオレットフィズもいいですがそうですね……」
　アルコールを重視しないのであれば選択肢はまた広がる。アルコールを『重視しない』というのは『低い』という意味だけでなく『中々に高い』という意味も含むが。
　種類はやはり多いのだ。その中でも、もしあまり普段甘いのを飲まないのであれば……
「やっぱりスクリュードライバーはどうですか？　オレンジジュースで割るモノですからね、飲みやすいですよ――混ぜたウォッカの量次第では飲みやす『すぎて』宜しくない代物だったりしますが」
　ここのマスターは果肉も混ざったモノを出してくれるのだと。
　すいすいと飲めるソレは甘美なれど時に危険。自らで制限をせねば後に大変な事にも。
　尤も、酒はいずれなるモノであろうと自制が大切だが。
「ああ……これは、いいね……うっかりすると後追いが凄そうだが、ああ、正に今欲しいタイプの酒だよ……マスター。すまないこれをもう一杯……」
「また突っ伏す程飲むのは駄目ですからね、ギルオスさん」
　頼んだ一杯。確かに飲みやすくて、ある種ジュースの様で胃に落としやすい。
　とろりとするはソレだけではなく脳もか。
　呑みやすいからと一杯二杯と進んで行けばいつのまにやら潰れてしまいそうだ。
「後は、偶にはソルティ・ドッグも飲みますね。あれは甘いとは少し違いますが」
　グレープフルーツとウォッカの混じりと共に。縁には塩をまぶした一品。
　その塩分こそが味を引き立たせるのだ。グレープフルーツがメインたれば、甘いというよりは苦みが特徴的な代物ではあるが、言ったように偶にの一品として悪くはない。先のスクリュードライバーよりはある程度進みも遅かろう。
　こちらも、まだ大丈夫ならどうぞと薦めれば――その時。
「君は……結構酒を飲む方なのかい……？」
　言の端がまた緩んできたギルオス。勧められた酒の種類と数に、なんとなしに問いかければ。
「――さて、どうでしょうね」
　ミディーセラは思考を巡らす。年齢的には全く問題なく、今まで幾種類ものソレらを楽しんできた。
　不滅の命を目指した一族に拾われて。
　連続する命に付いていくようにと、精神の強度もまた昇華され。
　多くの時を過ごした中で、一休みとばかりに口に零した酒の数々。
　はたしてその身で真実、誰ぞと一緒の意味で――『酔えた』かは知れぬが。

「まぁ結構お酒の歴も『永い』ですから。そういう意味では飲む方なのでしょうね」

　グラスを揺らす。
　幾度と飲み干した。幾度と楽しんだ。
　疲れ果てている情報屋と飲むこの一夜もまたその一つ。
　飲み明かした酒の総量は重要ではなく。
　その時の狭間が如何に過ごせたかが大事たれば。
「なるほどねぇ……僕はぁ……とても敵いそうにないなぁ……」
「お酒は競うモノではないですよ。それよりギルオスさん、そろそろ……」
　言ったミディーセラが隣に視線を向けた――と同時。
　そこにはカウンターに完全に突っ伏しているギルオスの姿があった。ついに限度を迎えたのか。
　やれやれ、潰れぬ様にとは何度か言っていたのに。
「……まぁこれも大事な事ですよ」
　しかしそれは、その姿は平和の証でもある。
　例えばいつぞ戦闘が始まると知れぬ緊張の最中であれば『こう』ではあれない。
　心が、精神が穏やかであり。
　ここならば酔うても良しとした、糸のほぐれがあったからこその姿であれば。
「愚痴なら聞きますから、またお酒に頼りたくなったら一緒に行きましょうね」
　良いのだと。ミディーセラはグラスを傾ける。
　喉の奥へと残った全てを零す様に。
　甘い、喉から脳へと届かんとする錯覚をどこかに得れば。

　グラスの中で、氷の崩れる音が耳へと届いた。