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天の川の向こう側
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- ファニーの関係者
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●天の川の向こう側
きらきら光る夜空の星は、美しく透き通ってきれいだった。
星は気まぐれで、輝かしく、――いつだって自分だけのものではない。空が己のものにならないように、星を手に入れることなどできない。
(暇だな……)
シリウスは来なかった夜は、より一層空が暗い気がする。
そういう日もあるだろうと思いながら、ファニーは二人分のココアを一人で始末していた。コップが二つ。けれどもここには一人。
甘ったるいだけのココアだった……。
二人の間に約束はなかった。シリウスも来るとも言っていないから、約束を破ったわけではない。
気が向けばまた会おう、そんな程度で、勝手にただファニーが期待しただけだ。
(ツイてないな。気が乗らなかったんだろうな、今日は。ま、シリウスなら行くところもたくさんあるんだろう)
言い訳じみたことを自分に言い聞かせるようで、思わず自嘲の笑みが漏れた。
今あるもので満足するんじゃなかったか。現状を受け入れるのには慣れていたんじゃなかったか?
ぴゅうと冷たい風が身体を通り過ぎていった。
この寒さは骨身に染みる。
骨だけの体。隙間だらけの体。ほんとうの風の冷たさなんて、きっと誰も知らないだろう。我が物顔で通り過ぎていく風は、自分がすっかすかの骨であることを感覚でわからせてくれる。
それでも、こんな体でも星を見上げることはできる。だからこそ恋焦がれてしまうのだ。
ファニーは、シリウスにとっては何番目の星だろう?
シリウスは、ファニーだけを見つけたかのように、ファニーのもとにまっすぐに降りてきた星だった。けれど、自分だけのものではなかった。明瞭で、誰からも愛される星だった。一等星。自分とはまるで違う。
いや。
『弱いふりをして、道化を演じて、他のやつらを食い物にしてる。……俺と一緒だねぇ』
「……」
はじめて会った時、シリウスはファニーにそう言ったのだ。
同じだと。
シリウスはそんなやつじゃない、ほんとはずっと優しいけど、自分のことをわかっていないだけなんだ……。シリウスを庇うものにはそんなふうに言ってのけるようなやつもいた。ファニーは、盲目的にシリウスが善人だと考えられるほどおめでたくはなれなかった。残念ながら、頭蓋骨だけであっても、頭はしっかり働くものである。
おそらく、彼もまた自分と同じような悪い遊びをしているということだ。
つまりは、人をたぶらかし、……。甘い言葉と魔力で誘い、知らぬところで屠っているのだろう。
ほのめかしと秘密。甘い共犯者。欺瞞の気配を感じながらも、それでもうれしくてたまらない。
なによりシリウスは悪魔だ。他者を騙して魔力を奪い取るなどきっと造作もないはずだった。
にこやかな表情、甘いしぐさ。声。うっとりとするようなその瞳の魅力に、吸い寄せられるように身体は動いている。
……オレだって誘惑されたじゃないか。
ファニーはかぶりをふると、具体的な想像を打ち払おうと努力した。
いつかの喫茶店での出来事を思い出せば、彼は自分よりももっと上手くやるだろうと思った。ショートケーキの味をまだ覚えている。
シリウスは、蠱惑的にほほえみ、あの中性的な外見で、あの甘え上手な性格で、多くの者を虜に出来るだろう……。指先一つ動かすだけでシリウスに身を投げ出したいと思うような者だっていくらでもいるはずだった。
今だって、もしかすると、誰かをたぶらかしているのだろうか?
あの声で……あのしぐさで?
「……」
ファニーはかぶりをふると、具体的な想像を打ち払おうと努力した。
自分のように地べたをはいずっているわけでもないだろう。
そんなシリウスがなぜ自分に構うのだろうか。彼にとって自分はどんな存在なのだろうか。
ずきりとした。
内臓なんて無いはずなのに、胸が痛むのはどうしてだろう?
考えれば考えるほど胸のあたりがざわざわした。足りないのだ。この冷たい隙間を埋めてくれる何かが。しかし、ファニーにはそれがわからない。血のぬくもりがわからなかった。
(ああ、そうか、簡単なことだ)
ファニーは気が付いた。ここで待つのは性分ではない。さりとて、己からシリウスを探すわけでもない。またいつものように路地裏をぶらつき、悪い仲間を誘い出した。はいて捨てるほど、最低な連中はいるのである。
「ファニー、やっぱりお前は最高だぜ」
魔力に溶かされ、欲望におぼれるやつら。
どうでもいい連中。ファニーを踏みにじってくるやつら。利用しようとして、むき出しの情念を隠そうともしない連中。そういう連中なら、自分が利用してもいいじゃないか……。
遊び相手がふと言った。
「なあ、ファニー、シリウスとはどういう関係なんだ?」
堂々とイチャついてたせいで、シリウスとの話も広まっているらしい。舌打ちしたい気分になったが、ファニーは本音を押し隠した。
「別の男の話をするほどの余裕があるのか? ま、オレだけ見てろよ。どうでもいいことは全部忘れて、天国に行こうぜ」
「ああ? そうだっけ……そうだったな、うん……もっと大事なことがある」
とろりと、バニラの香りがあたりに漂い始めると、遊び相手はぽかんと口を開け、理性を投げ出す。唇の端からは意味のない音しかしなくなる。
(そうだ、こうしていればいい)
ファニーは再び、悪い遊びに耽溺している。
空っぽになりそうな心に、とりあえずの雑音を詰め込める。ヘッドフォンをつけてガンガン音楽を鳴らし、外の喧騒をシャットアウトするように。淫靡な魔力の交わりは、一時的に心に空いた穴を埋めてくれた。
このときだけは、相手は”自分を求めてくれる”。
こんな自分でも、強烈に、こちらを見てくれるのだ。
女王の忠告よりも、シリウスとの星観よりも、それは抗いがたい欲求を満たしてくれるものだった。
「ファニー、ファニー……っ!」
名前を呼ばれても、ああ、犬が鳴いているなと思うくらいだった。ファニーの心はどこか冷めている。望遠鏡で星を眺めているように、心はここにはいなかった。ファニーの心は星を見ている。やっぱりつまらない、という喪失感はいつもより早く訪れた。まあ、暇つぶし程度になった。
すべてを終えて適当に片付けると、溜息と後悔がファニーを襲う。一時的に埋め合わせた心は、喪失感にさいなまれている。
(シリウス……)
自分が骨身で生まれたことで、女王を恨んだりなんかはしていなかった。
けれどやはり考えてしまうのだ。もし、人のかたちで生まれていたら――と。
そうしたら、ファニーは。……ファニーは、今、シリウスといただろうか。
●白紙の女王は見通す
シリウスがいないのを確かめるのは、ひどい出来の答案を返されるようなものだ。期待したくない。なかなか足を向けなくなっていた。
「最近、夜遊びが多いわね」
「女王」
女王だった。自分に言っているのだと、ファニーにはわかった。
女王は淡い桃色の髪を揺らした。表情も声の調子にも咎めるようなところはないのに、それでも勝手に意思を推量してしまいそうになる。真紅の瞳に真っ赤なドレス。少女と女性のあわいにいる。愛すべき女王様。
骨の体で生まれたファニーにも、分け隔てなく祝福を与える公平な女王。
ファニーは、動揺したことを押し隠し、肩をすくめるだけにとどめた。『白紙の女王』は、いったいどこまで知っているだろう?
ここは彼女の国なのだ。
「夜は永いからな」
「そうかしら」
「……星を観ているだけだよ」
「そう」
星を観るだけでも、シリウスがいてくれたなら、それだけでもよかったかもしれない。いや、本当は……。本当は、何を望んでいるか、己でもわかっている気がした。
星に手を伸ばす勇気はない。
ファニーから視線をそらした女王は澄んだ瞳でこちらを見通した。
「売られた喧嘩は借金してでも買いなさいと、教えたのは私だわ。けれどそこに憎悪以外の感情があってはいけない。ましてや快楽や愉悦など。……いつか痛い目を見るわ」
凛とした声。示唆と既知に富む女王の助言。だからこそきっと民は彼女にほほえみ、呼ぶのだろう、女王と。
「憎悪以外?」
「快楽や愉悦は、心地よいものね。誰も逆らえない。けれども支配されてはいけないものよ」
ああ、どこまで知っているのだろうか、偉大な女王にして我らが母上様は、「ほどほどになさいね」と、愛情深く微笑むだけだった。
●星はひかれあい、めぐり合う
星を観測するには良い天気だ。
ただ、気分だけがそうではなかった。
ずっとシリウスが来なければいい。
いっそ、そのまま、流れ星が燃え尽きるように、シリウスとの運命が燃え尽きて、なくなってしまえばいい……。いや、そんなのはうそだ。
(会いたくはなかったな……)
うそだ。
なぜなら、ファニーは待っていた。ずっと待っていた。そこにシリウスがいてくれればいいと思っていた。
「シリウス」
どうして、こんな日に限ってシリウスがやってくるんだろうか。ファニーの弱さを見透かしたように、いうのだ。
その声は優しくて、星を震わせるような声だった。聞きなれた声。何度も思い浮かべていた。
「最近どうしたのさ、ぱったり来なくなるんだもん」
それでも星を見る場所に足を運んでしまうのは、かすかに残った期待のせいだ。一緒にいてくれないだろうか、という思いだった。
「いや、やめとこう」
「なんで……? どうして? 待って、ファニー」
シリウスはためらうことなくファニーと距離を詰める。ファニーが後ろに下がるのは少し遅れた。甘い香りがふわりと広がって、あたりに満ちる。
濃厚なバニラの残り香。
遊びの香りだ。
シリウスが、睨むようにファニーを見た。
「俺と一緒に星を観るより、他の男と遊んでたほうが楽しいんだ?」
軽い口調だが、静かに怒っているのがわかるような声だ。
「……よせよ」
こっちを責めるようなことは、よせよ。
おまえだって似たようなことをしているくせに。
ファニーは胸中で吐き捨てたが、それが精一杯だった。本当は言ってやりたかった。どうして、ほかの連中と付き合うんだ? シリウスはファニーとは違う。シリウスはもっとも輝かしい星だからだ。
ああ、見限られたのだろうか。
付き合いもこれまでか、と、ファニーは諦め、手を伸ばすのをためらい、それからひっこめ……。
「ねぇ、ファニー」
ふわりと視界が反転する。
目の前には満天の星空をバックにしたシリウスの姿があった。
気が付けばファニーは押し倒されていたのだった。
「!」
シリウスは、思いつめたように、困ったように眉を下げた。
「ねぇ、拒まないで。俺たち、一緒にいようよ」
シリウスが囁いた。甘く、しびれるように耳に響いた。
「いや……」
よしておこう。このままのいい距離感でいようぜ。
頭の中で思い描いたラインは、あっさりと踏み越えられてしまった。
弱音を唇でふさがれる。
「ファニー」
優しい声だった。星の声とはこんな声だろうか。
シリウスは微笑んだ。ただ、微笑んだ。
ファニーにはわかっていた。
嗚呼、きっとこれは恋でも愛でもない。
そんなにきれいなものじゃない。
これは、はみ出し者同士の傷の舐め合いだ。ただの慰め合いだ。快楽や愉悦。女王はそう言った。
シリウスから蜂蜜のような甘ったるい香りがした。手を取るしぐさがやけにわざとらしい。ごっこ遊びじゃないか。
それでもいい、と頭の片隅で何かがささやいた気がする。
左胸にあったはずの魔力の核がゆるゆると骨盤へ降下していくのがわかった。ハート形の核は、むき出しの感情。いちばん繊細な場所。さらけ出したくないところ……。
星が降りてくる。目の前まで降りてきて、手を伸ばす。決して届かない星が、誰からも愛される星が、今だけはファニーを見ている。
彼を拒むことなど、ファニーには出来なかった。
本当はずっとほしかったものだ。諦めていたものだった。
「ファニー……」
吐息が混じる。
二人は、互いの甘い香りと魔力に溺れていく。バニラとハチミツの香り。互いの魔力のにおいがわかる。
心のどこかはくすぐったく、新しい予感にざわついていた。今はいい、ずっといい、これでいい……。
おまけSS
シリウスって、ファニーと仲良いの?
住民から聞かれたシリウスは「うー、ん」とほほえみ、首をかしげて微笑んだ。
「それって、何か悪い?」
にっこり、しかし、有無を言わせぬように微笑むものだから、住民は慌てて言葉をごまかし、シリウスは優しいもんね、と言いつくろった。
「それよりほら、そこの本、とってくれる? ほら、手がふさがってるから」
そういうと誰もが親切にしてくれるということを、シリウスはよく熟知していた。説明してやる義理もない。いちばん興味深い相手だ……。にっこり本を受け取って、目の前の相手とおしゃべりしている間も、考えている、ファニーのことを……。
(どうしてやろうかって、ね?)